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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十章 空と額縁
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透明な毒

 静まり返った屋敷の廊下。

 壁に並ぶ燭台がかすかに揺らめき、男の影を細長く引き伸ばしていた。

 物音一つ立てず、男は廊下を進む。向かう先は――主人の宝物が眠る、あの部屋だ。

 扉の前に立つと、男は懐から指輪に似せた複製鍵を取り出した。

 小さく「ピ」と音が鳴り、鍵が解錠される。

 中へ入ると、すぐさま鍵を閉めるのも抜かりない。

 ――すべてが計算通り。完璧な侵入だ。

 男はそんな自分にすら陶酔しながら、奥へと歩を進めた。

 今日もまた、彼は宮廷画家の絵と、自作の模倣品をすり替える。

 石像もまた、同じだ。自らが彫った“石”を、どこかの著名作家の作品と偽って置いていく。

 すでにこの部屋の半分は、自分の“贋作”で埋まっていた。

 主人はそれに気づくこともなく、日々それらを誇らしげに眺めている。

(……たまらない)

 男の口元が、歪んだ恍惚に染まる。

 歴史ある名前たちの作品も、自分の手によるものと「そう変わらない」。

 それが“証明された”と思うと、自尊心が膨れ上がっていく。

「……ざまあみろ。お前らのくだらない作品なんて、私のと大差ない。せいぜい、どこかの知らない壁に飾られて、埃かぶって終わればいい……」

 呟きながら、男は次の“交換”対象――才能の石へと手を伸ばした。

 だが、その指先が石に触れることはなかった。

 瞬間、黒目が裏返り、男は音もなく床に崩れ落ちた。

 背後に立っていたのは、ナイフの柄で後頭部を打ち据えたノノ。

 冷たい光の中で、彼女は静かに呟いた。

「……私がこんなことするなんて、思ってもみなかったんだろうな」

 その声音に、怒りも悲しみもない。

 ただ、淡々と。まるで、これが最初から予定されていた行動であるかのように。

 

***

 幼いころ、親戚の男たちの会話に黙って耳を傾けていたことがあった。

 気づかれずに覚えていたその話を、ぽろりと母に話したときのこと。

「よく見てたわね」と微笑まれた。

 それが、ノノにとって初めての“成功体験”だった。

 ――誰かがこちらを見て話すことは、昔から稀だった。

 何をしても平凡。見た目も、勉学も、運動も。得意なことなんて何もない。

 家柄は下級貴族で、没落寸前。表向きには言わないが、誰もがノノを軽んじていた。

 そんな中で、社交界に生き残るための唯一の術。

 それは、「消える」ことだった。

 表情を消し、空気を読む。視線の行方を探り、聞き耳を立てる。

 否定もしない、肯定もしない。ただ弱々しく微笑む。清廉潔白な少女の仮面を被って。

 そうして拾った情報を家に持ち帰り、欲しがる者へと渡す。

 ノノの家は、そうやって首の皮一枚で体裁を保っていた。

 滲む蔑みの視線も、甘んじて受け入れた。

「……あなた、飲み物をーー」

 一人の貴婦人が声をかけかけて、言葉を止める。

 目を見開いてノノを上から下まで見つめ、ドレス姿を確認する。

「ごめんなさい、使用人かと思って」

 くすくすと笑い声が漏れた。

 そんな中でもノノは静かに笑って、「お気になさらないで」と答える。

(……だって、言っても仕方ない)

 実際がどうであれ、一度貼られたレッテルは剥がれない。

「女というものは、怖いね」

 きらびやかな舞踏会の中で、一人の男が声をかけてくる。

 噂の絶えない貴族の男。女好きで、悪い話ばかり聞くような相手だ。

「少し、抜け出さないか?」

 慣れた手つきでノノの手を取る。

こういう男は、“おとなしそうで、問題にならなそうな女”を好む――そんなことは、ノノにはとうに分かっていた。

 ノノはあえて困ったような笑顔を浮かべる。

***

 舞踏会の喧騒が遠くに響く控室。

 頬に触れる男の手。歯の浮くような甘言。

 男の顔が近づいたその瞬間――ノノは無言で、男の首元に小さな睡眠針を刺した。

 男は音もなく崩れ落ちる。

「……油断したね」

 ノノの最大の武器、それは“油断”だった。

 武道の心得もなければ、特別な力もない。才能の石なんて持っていない。

 けれど人は、自分より“弱そうな相手”には簡単に警戒を解く。

 そして、言わなくていいことまで、嬉々として話し始める。

 人は誰かに自慢したい生き物だ。

 ノノは、それを受け止めるために“最適な相手”だった。

(……大した情報はなかったな。けどスキャンダルくらいにはなるか)

 ソファから立ち上がり、扉に振り返る――その時だった。

 扉はすでに開いていた。

 そこに、ロングコートの男が音もなく立っていた。

「……やっぱり、情報屋ってお前だったか」

 舞踏会には、石つきの貴族を守る護衛として、調査員が潜入していると聞いていた。

 ノノの表情が強張る。だが、男は口角を上げて言った。

「……お前、あんな小さな家にいるより、もっと“似合う場所”があるぜ」

 それが、ノノがキサラギにスカウトされた日のことだった。

 ノノは返事をしなかった。

 ただ、スカートの裾をそっと整え、背筋を伸ばす。

 まるで何事もなかったかのように――舞踏会の明かりの中へ、静かに歩き出した。


 それでも仮面は外さない。

 彼女は“誰でもない”まま、次の仮面舞踏へと足を踏み出していく。

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