透明な毒
静まり返った屋敷の廊下。
壁に並ぶ燭台がかすかに揺らめき、男の影を細長く引き伸ばしていた。
物音一つ立てず、男は廊下を進む。向かう先は――主人の宝物が眠る、あの部屋だ。
扉の前に立つと、男は懐から指輪に似せた複製鍵を取り出した。
小さく「ピ」と音が鳴り、鍵が解錠される。
中へ入ると、すぐさま鍵を閉めるのも抜かりない。
――すべてが計算通り。完璧な侵入だ。
男はそんな自分にすら陶酔しながら、奥へと歩を進めた。
今日もまた、彼は宮廷画家の絵と、自作の模倣品をすり替える。
石像もまた、同じだ。自らが彫った“石”を、どこかの著名作家の作品と偽って置いていく。
すでにこの部屋の半分は、自分の“贋作”で埋まっていた。
主人はそれに気づくこともなく、日々それらを誇らしげに眺めている。
(……たまらない)
男の口元が、歪んだ恍惚に染まる。
歴史ある名前たちの作品も、自分の手によるものと「そう変わらない」。
それが“証明された”と思うと、自尊心が膨れ上がっていく。
「……ざまあみろ。お前らのくだらない作品なんて、私のと大差ない。せいぜい、どこかの知らない壁に飾られて、埃かぶって終わればいい……」
呟きながら、男は次の“交換”対象――才能の石へと手を伸ばした。
だが、その指先が石に触れることはなかった。
瞬間、黒目が裏返り、男は音もなく床に崩れ落ちた。
背後に立っていたのは、ナイフの柄で後頭部を打ち据えたノノ。
冷たい光の中で、彼女は静かに呟いた。
「……私がこんなことするなんて、思ってもみなかったんだろうな」
その声音に、怒りも悲しみもない。
ただ、淡々と。まるで、これが最初から予定されていた行動であるかのように。
***
幼いころ、親戚の男たちの会話に黙って耳を傾けていたことがあった。
気づかれずに覚えていたその話を、ぽろりと母に話したときのこと。
「よく見てたわね」と微笑まれた。
それが、ノノにとって初めての“成功体験”だった。
――誰かがこちらを見て話すことは、昔から稀だった。
何をしても平凡。見た目も、勉学も、運動も。得意なことなんて何もない。
家柄は下級貴族で、没落寸前。表向きには言わないが、誰もがノノを軽んじていた。
そんな中で、社交界に生き残るための唯一の術。
それは、「消える」ことだった。
表情を消し、空気を読む。視線の行方を探り、聞き耳を立てる。
否定もしない、肯定もしない。ただ弱々しく微笑む。清廉潔白な少女の仮面を被って。
そうして拾った情報を家に持ち帰り、欲しがる者へと渡す。
ノノの家は、そうやって首の皮一枚で体裁を保っていた。
滲む蔑みの視線も、甘んじて受け入れた。
「……あなた、飲み物をーー」
一人の貴婦人が声をかけかけて、言葉を止める。
目を見開いてノノを上から下まで見つめ、ドレス姿を確認する。
「ごめんなさい、使用人かと思って」
くすくすと笑い声が漏れた。
そんな中でもノノは静かに笑って、「お気になさらないで」と答える。
(……だって、言っても仕方ない)
実際がどうであれ、一度貼られたレッテルは剥がれない。
「女というものは、怖いね」
きらびやかな舞踏会の中で、一人の男が声をかけてくる。
噂の絶えない貴族の男。女好きで、悪い話ばかり聞くような相手だ。
「少し、抜け出さないか?」
慣れた手つきでノノの手を取る。
こういう男は、“おとなしそうで、問題にならなそうな女”を好む――そんなことは、ノノにはとうに分かっていた。
ノノはあえて困ったような笑顔を浮かべる。
***
舞踏会の喧騒が遠くに響く控室。
頬に触れる男の手。歯の浮くような甘言。
男の顔が近づいたその瞬間――ノノは無言で、男の首元に小さな睡眠針を刺した。
男は音もなく崩れ落ちる。
「……油断したね」
ノノの最大の武器、それは“油断”だった。
武道の心得もなければ、特別な力もない。才能の石なんて持っていない。
けれど人は、自分より“弱そうな相手”には簡単に警戒を解く。
そして、言わなくていいことまで、嬉々として話し始める。
人は誰かに自慢したい生き物だ。
ノノは、それを受け止めるために“最適な相手”だった。
(……大した情報はなかったな。けどスキャンダルくらいにはなるか)
ソファから立ち上がり、扉に振り返る――その時だった。
扉はすでに開いていた。
そこに、ロングコートの男が音もなく立っていた。
「……やっぱり、情報屋ってお前だったか」
舞踏会には、石つきの貴族を守る護衛として、調査員が潜入していると聞いていた。
ノノの表情が強張る。だが、男は口角を上げて言った。
「……お前、あんな小さな家にいるより、もっと“似合う場所”があるぜ」
それが、ノノがキサラギにスカウトされた日のことだった。
ノノは返事をしなかった。
ただ、スカートの裾をそっと整え、背筋を伸ばす。
まるで何事もなかったかのように――舞踏会の明かりの中へ、静かに歩き出した。
それでも仮面は外さない。
彼女は“誰でもない”まま、次の仮面舞踏へと足を踏み出していく。




