赤い羽根の鍵
かつて父が暮らしていた家は、今では誰の気配もない。
鍵はまだ手元にあった。母はもう、アトリエには立ち入らないのだろう。
軋む扉を押して入ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
乾いた絵の具の匂い。棚の上には埃をかぶったスケッチブックがいくつも重なり、その隣に、乾ききらなかったカンヴァスが斜めに立てかけられている。
ニアは、ひとつ奥の壁に目をやった。
――そこに、父が最後に描いたとされる絵があった。
窓辺に立つ人物。背後に揺れるカーテン。光と影の境界。
優美な構図。けれど――何かが、おかしい。
首筋に、ぞくりとした感覚が走る。
人物の指先が、微かに何かを示しているように見えた。
目線は、正面を向いているようで、どこか“こちら”を見ている。
ニアはそっと、額縁の淵に指を添えた。
そのときだった。
「まだ、こんなものを見ているの」
背後から、母の声がした。
振り返ると、母が、扉の前に立っていた。
その目だけは、張り詰めた糸のように強かった。
「この絵……何か変だ。父さん、何か……伝えようとしてる気がする」
ニアの声に、母は鼻で笑った。
「あなたも、あの人と同じ幻想に取り憑かれるの?」
「幻想なんかじゃ、ないよ、父さんは何か伝えたかったんだー」
「何を? あの人がどうして死んだか? それとも、あなたの“才能”の源がどこから来たのか、って?」
母の声に、棘があった。
けれど、ニアももう、引かなかった。
「僕は、あの人のことを、ちゃんと覚えていたいだけだよ」
母は黙った。少しの沈黙のあと、小さく呟く。
「……あの人は、自分の痛みのことしか見てなかった。家族が何を差し出しても、満たされることなんてなかったのよ」
ニアは変わらず、鋭い目で言い放った。
「母さんには、あの人の何がわかるの?」
その瞬間、棚の上にあった絵筆が大きな音を立てて崩れ落ちた。
「だから……あなたたちは嫌なのよ!! 自分勝手なことばかり言ってッ!!
伝えたい? 伝える気があるなら、ちゃんと話しなさいよ!!」
肩を震わせながら、母は息を荒げる。
ニアは、そんな姿を見ても表情を変えなかった。ただ、ほんの少しだけ、悲しみがその瞳に滲んでいた。
そんな瞳にはっとしたように、母の肩がわずかに揺れた。
けれど、すぐに背を向けて言った。
「もう、やめなさい。過去をほじくり返しても、誰も救われたりしないわ」
そのまま、母は部屋を出ていった。
残されたニアは、再び絵の前に立つ。
目を凝らせば、背景の一部が――いや、そこだけ別の絵になっている。
窓の外に、赤い鳥が一羽。
その尾羽は、鍵盤のような模様をしていた。
まるで、それが“鍵”であるかのように。
***
宿屋の一室。夜の帳がすっかり下り、窓の外では街灯の光が、ぼんやりと揺れていた。
ノックの音が唐突に響き、ニアは扉を開ける。
「おかえり」
彼はノノを部屋に招き入れる。珍しく、ノノは気の抜けた顔をしていた。
「…疲れた?」
柔らかい声音のニアにノノはハッとする。
「ごめん、少し変わった使用人の人がいて」
少し間を置き、ノノはぽつりとこぼす。
「でも、あの感じだと――たぶん、すぐボロを出すと思う」
そう言って、ノノはブーツを脱ぎながら肩を落とした。
ニアはポットに手を伸ばし、マグにぬるめのハーブティーを注ぐ。
「どうぞ」
「……ありがとう」
ノノは両手でマグを包み込み、湯気越しにぼんやりと視線を落とした。
沈黙が数秒だけ流れる。
(……承認欲求強い人だったな)
よくいるタイプだ、とノノは思う。
劣等感をこじらせ、何かしらで自分を武装しては、自分より弱いと見なした相手を攻撃し、優越感に浸る。
ノノは、そういう相手に絡まれやすい。
反抗しなさそうな見た目。悪く言えば、舐められやすい。
――いつもなら、適当に相手の望む言葉を並べるだけで済んだのに。
今日は、やけに疲れる。
ノノは、深いため息を吐いた。
その音に、ニアが心配そうな目でこちらを見ていることに気づく。
「……あぁ、そうか」
気づけば声が漏れていた。
今回は、自分だけじゃなく、ニアも巻き込んでいた。
だからこそ、いつもなら湧かない苛立ちが、胸の奥にこびりついていたのだ。
納得したように小さく呟くと、ニアが不思議そうな顔を向ける。
「ニアはどうだったの?お父さんのアトリエに行ったんだよね」
その問いに、ニアは傍らに置いていたキャンバスの布を外す。
「ちゃんと見ないと、気づかないけど――」
窓の外、一羽の赤い鳥が描かれていた。
その尾羽の一部を、ニアは指差す。まるで鍵盤のような模様。
「……これ、もしかして――キーコードなんじゃないかな」
ノノはじっとその羽根を見つめた。
「ほんとだ……鍵盤、みたい」
ぽつりと呟く。
その鳥のフォルムに、現実味のない違和感がある。羽の先端が、あまりにも正確すぎた。まるで設計図のように。
それが偶然でないことは、誰が見ても明らかだった。
「羽の間隔が……1、3、6、5」
ニアが指を滑らせながら、数字を読み上げる。
「……C、E、A、G。――ケージ。“檻”だ」
ノノがマグを持つ手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
ニアは静かにうなずいた。
「明日、あの部屋に――忍び込んでみる」
ノノの静かな決意を聞きながら、ニアは再びキャンバスに視線を戻す。
そこにはまだ、どこか釈然としない違和感が、濁りのように残っていた。




