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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十章 空と額縁
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赤い羽根の鍵

 かつて父が暮らしていた家は、今では誰の気配もない。

 鍵はまだ手元にあった。母はもう、アトリエには立ち入らないのだろう。

 軋む扉を押して入ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

 乾いた絵の具の匂い。棚の上には埃をかぶったスケッチブックがいくつも重なり、その隣に、乾ききらなかったカンヴァスが斜めに立てかけられている。

 ニアは、ひとつ奥の壁に目をやった。

 ――そこに、父が最後に描いたとされる絵があった。

 窓辺に立つ人物。背後に揺れるカーテン。光と影の境界。

 優美な構図。けれど――何かが、おかしい。

 首筋に、ぞくりとした感覚が走る。

 人物の指先が、微かに何かを示しているように見えた。

 目線は、正面を向いているようで、どこか“こちら”を見ている。

 ニアはそっと、額縁の淵に指を添えた。

 そのときだった。

「まだ、こんなものを見ているの」

 背後から、母の声がした。

 振り返ると、母が、扉の前に立っていた。

 その目だけは、張り詰めた糸のように強かった。

「この絵……何か変だ。父さん、何か……伝えようとしてる気がする」

 ニアの声に、母は鼻で笑った。

「あなたも、あの人と同じ幻想に取り憑かれるの?」

「幻想なんかじゃ、ないよ、父さんは何か伝えたかったんだー」

「何を? あの人がどうして死んだか? それとも、あなたの“才能”の源がどこから来たのか、って?」

 母の声に、棘があった。

 けれど、ニアももう、引かなかった。

「僕は、あの人のことを、ちゃんと覚えていたいだけだよ」

 母は黙った。少しの沈黙のあと、小さく呟く。

「……あの人は、自分の痛みのことしか見てなかった。家族が何を差し出しても、満たされることなんてなかったのよ」

 ニアは変わらず、鋭い目で言い放った。

「母さんには、あの人の何がわかるの?」

  その瞬間、棚の上にあった絵筆が大きな音を立てて崩れ落ちた。

「だから……あなたたちは嫌なのよ!! 自分勝手なことばかり言ってッ!!

 伝えたい? 伝える気があるなら、ちゃんと話しなさいよ!!」

 肩を震わせながら、母は息を荒げる。

 ニアは、そんな姿を見ても表情を変えなかった。ただ、ほんの少しだけ、悲しみがその瞳に滲んでいた。

 そんな瞳にはっとしたように、母の肩がわずかに揺れた。

 けれど、すぐに背を向けて言った。

「もう、やめなさい。過去をほじくり返しても、誰も救われたりしないわ」

 そのまま、母は部屋を出ていった。

 残されたニアは、再び絵の前に立つ。

 目を凝らせば、背景の一部が――いや、そこだけ別の絵になっている。

 窓の外に、赤い鳥が一羽。

 その尾羽は、鍵盤のような模様をしていた。

 まるで、それが“鍵”であるかのように。


***

 宿屋の一室。夜の帳がすっかり下り、窓の外では街灯の光が、ぼんやりと揺れていた。

 ノックの音が唐突に響き、ニアは扉を開ける。

「おかえり」

 彼はノノを部屋に招き入れる。珍しく、ノノは気の抜けた顔をしていた。

「…疲れた?」

 柔らかい声音のニアにノノはハッとする。

「ごめん、少し変わった使用人の人がいて」

 少し間を置き、ノノはぽつりとこぼす。

「でも、あの感じだと――たぶん、すぐボロを出すと思う」

 そう言って、ノノはブーツを脱ぎながら肩を落とした。

 ニアはポットに手を伸ばし、マグにぬるめのハーブティーを注ぐ。

「どうぞ」

「……ありがとう」

 ノノは両手でマグを包み込み、湯気越しにぼんやりと視線を落とした。

 沈黙が数秒だけ流れる。

(……承認欲求強い人だったな)

 よくいるタイプだ、とノノは思う。

 劣等感をこじらせ、何かしらで自分を武装しては、自分より弱いと見なした相手を攻撃し、優越感に浸る。

 ノノは、そういう相手に絡まれやすい。

 反抗しなさそうな見た目。悪く言えば、舐められやすい。

 ――いつもなら、適当に相手の望む言葉を並べるだけで済んだのに。

 今日は、やけに疲れる。

 ノノは、深いため息を吐いた。

 その音に、ニアが心配そうな目でこちらを見ていることに気づく。

「……あぁ、そうか」

 気づけば声が漏れていた。

 今回は、自分だけじゃなく、ニアも巻き込んでいた。

 だからこそ、いつもなら湧かない苛立ちが、胸の奥にこびりついていたのだ。

 納得したように小さく呟くと、ニアが不思議そうな顔を向ける。

「ニアはどうだったの?お父さんのアトリエに行ったんだよね」

 その問いに、ニアは傍らに置いていたキャンバスの布を外す。

「ちゃんと見ないと、気づかないけど――」

 窓の外、一羽の赤い鳥が描かれていた。

 その尾羽の一部を、ニアは指差す。まるで鍵盤のような模様。

「……これ、もしかして――キーコードなんじゃないかな」

 ノノはじっとその羽根を見つめた。

「ほんとだ……鍵盤、みたい」

 ぽつりと呟く。

 その鳥のフォルムに、現実味のない違和感がある。羽の先端が、あまりにも正確すぎた。まるで設計図のように。

 それが偶然でないことは、誰が見ても明らかだった。

「羽の間隔が……1、3、6、5」

 ニアが指を滑らせながら、数字を読み上げる。

「……C、E、A、G。――ケージ。“檻”だ」

 ノノがマグを持つ手を止め、ゆっくりと顔を上げる。

 ニアは静かにうなずいた。

「明日、あの部屋に――忍び込んでみる」

 ノノの静かな決意を聞きながら、ニアは再びキャンバスに視線を戻す。

 そこにはまだ、どこか釈然としない違和感が、濁りのように残っていた。



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