仮面の姫は振り返る
「僕が宮廷画家だったからって、君までそうなろうなんて思わなくていいよ」
父は、風が吹いたらどこかへ飛んでいってしまいそうな人だった。細く長い手足、前髪の隙間から覗く目元はどこか遠くを見ていて――まるで彼のまわりだけ、時間の流れが止まっているかのようだった。
ある日、アトリエの窓の外で、通りのアーティストが即興の絵を描いていた。父は筆を置き、しばらくそれを眺めてからぽつりとつぶやいた。
「芸術が王家のものだなんて、それはもう、昔の話だよ」
その横顔は、どこか寂しげで――けれど、確かに笑っていた。
ニアは、あの時の表情を、今でも忘れられない。
その数日後、父は帰らなくなった。
そして、樹海の奥で冷たくなった姿で見つかった。
葬儀には多くの人が訪れた。父は、名のある画家だったから。
誰かが言っていた――「苦悩の果てにこそ、あの名作は生まれたのだ」と。
けれどその言葉が、ニアには、父の死までも作品に閉じ込めようとするように聞こえた。
父のいなくなった家。
母は黒い服をまとい、食卓の椅子に座って、テーブルに肘をつき、頭を抱えていた。
「……お願い。あなたたちは、お父さんみたいにならないで」
黒いワンピースを着た姉が、すぐに応えた。
「……うん、わかった」
その数年後――
ニアは、天井から吊るされた姉の姿を見つけることになる。
***
額ににじむ汗で目が覚めた。
朝日がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。
心臓の鼓動を抑えようと、呼吸を意識的にゆっくりにする。
そっと立ち上がり、光を遮るようにカーテンを引き寄せる。
熱く滾る血を沈めるように肩を上下させながら、洗面所へ向かった。
冷たい水で顔を洗い、いつものようにウィッグをかぶる。
――サーカス団の事件のとき。
数年ぶりに、ウィッグなしで外に出た。
けれど日常に戻れば、やっぱりこれだ。
(……いつまでも)
鏡の向こうで、ウィッグを整える自分を見つめながら思う。
ニアは、今もなお――姉の影に隠れたままだった。
身支度を終え、扉に向かうと、一枚の紙が挟まれていた。
『昨日は、結構疲れさせちゃってごめんね。屋敷に向かいます』
達筆な文字。名前はなかったが、ノノに違いない。
紙をそっとたたみ、ニアは小さくため息をついた。
自分の不甲斐なさが、胸の奥でまた疼いた。
***
銀のポットから、琥珀色の紅茶がカップに注がれていく。
ひと筋も揺るがぬ手つきで、ノノは三つ目の客人のカップを満たすと、すっと身を引いた。
給仕服の胸元には、館の紋章をあしらった細いブローチ。姿勢ひとつ崩さず、音ひとつ立てず、彼は部屋の空気に溶け込むように立ち続けていた。
天窓から差す午前の陽が、ゆるやかに床の模様を際立たせる。
奥の長椅子に座る侯爵が、ふと手元の書類から視線を外した。
「……やはり、欲しいな」
彼の目は、壁にかけられた一枚の絵に注がれていた。
舞踏会の夜、館に寄贈されたそれ――仮面の姫が振り返る、あの幻想のような構図。
ニアが描いた絵だった。
ノノは、言葉を挟むことなく、静かに絵のそばの燭台の位置を少し整える。
そして再び、何もなかったように控えの位置へ戻った。
***
「……ミメーシスって、知ってるかい?」
茶会の後。片付けの途中で、古参の使用人がノノに声をかけてきた。
彼はこの屋敷で長く働く男で、些細な話題にすら自慢げな風を纏うことで知られていた。
「……存じません」
ノノの淡々とした返事に、男はうれしげに口角を上げて語り出す。
その目は、語る悦びに陶酔していた。
「対象を模倣することで、再現に近づこうとする芸術的態度のことさ。ミメーシス。昨日の舞踏会にいた、あの画家の少年――いや、まるでバレリーナのメアのようだった。絵もまた然り。粗削りではあるが、ノアの再来だ。美しかったよ、実に」
男の口からこぼれ落ちるその名に、ノノの心が静かに冷えた。
賞賛のはずの言葉が、どうしようもなく薄っぺらく聞こえる。
「……お詳しいのですね。創作に関わっていらしたのですか?」
ノノの声に温度はなかった。ただ淡く、無機質に。
だが男は気づくことなく、まるで褒められたかのように鼻を広げた。
「ふふ、まあね。少しだけ。僕はね、ミメーシスという概念に強く惹かれていてね。本物を模倣し、越えていく美。その素晴らしさを、ぜひ彼とも語り合ってみたいもんだよ。――本物を超える“芸術”について」
止まらぬ語りに、ノノは少しだけ視線を逸らし、短く言った。
「……昨日の、あの方の絵は。あの方“自身”のものに、私には見えましたが」
声は低く、しかし鋭かった。
男は、その静かな一言にわずかに眉をひそめ――そして、鼻を鳴らした。
「……お前のような下働きに、わかるはずもないな。悪かったよ」
吐き捨てるように言うと、男は食器の片づけに戻った。
ノノは黙ったまま、その背を見送った。
(……くだらない)
胸の奥で、その言葉だけを反芻した。




