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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十章 空と額縁
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仮面の姫は振り返る

「僕が宮廷画家だったからって、君までそうなろうなんて思わなくていいよ」

 父は、風が吹いたらどこかへ飛んでいってしまいそうな人だった。細く長い手足、前髪の隙間から覗く目元はどこか遠くを見ていて――まるで彼のまわりだけ、時間の流れが止まっているかのようだった。

 ある日、アトリエの窓の外で、通りのアーティストが即興の絵を描いていた。父は筆を置き、しばらくそれを眺めてからぽつりとつぶやいた。

「芸術が王家のものだなんて、それはもう、昔の話だよ」

 その横顔は、どこか寂しげで――けれど、確かに笑っていた。

 ニアは、あの時の表情を、今でも忘れられない。

 その数日後、父は帰らなくなった。

 そして、樹海の奥で冷たくなった姿で見つかった。

 葬儀には多くの人が訪れた。父は、名のある画家だったから。

 誰かが言っていた――「苦悩の果てにこそ、あの名作は生まれたのだ」と。

 けれどその言葉が、ニアには、父の死までも作品に閉じ込めようとするように聞こえた。

 父のいなくなった家。

 母は黒い服をまとい、食卓の椅子に座って、テーブルに肘をつき、頭を抱えていた。

「……お願い。あなたたちは、お父さんみたいにならないで」

 黒いワンピースを着た姉が、すぐに応えた。

「……うん、わかった」

 その数年後――

 ニアは、天井から吊るされた姉の姿を見つけることになる。


***


 額ににじむ汗で目が覚めた。

 朝日がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。

 心臓の鼓動を抑えようと、呼吸を意識的にゆっくりにする。

 そっと立ち上がり、光を遮るようにカーテンを引き寄せる。

 熱く滾る血を沈めるように肩を上下させながら、洗面所へ向かった。

 冷たい水で顔を洗い、いつものようにウィッグをかぶる。

 ――サーカス団の事件のとき。

 数年ぶりに、ウィッグなしで外に出た。

 けれど日常に戻れば、やっぱりこれだ。

(……いつまでも)

 鏡の向こうで、ウィッグを整える自分を見つめながら思う。

 ニアは、今もなお――姉の影に隠れたままだった。

 身支度を終え、扉に向かうと、一枚の紙が挟まれていた。

『昨日は、結構疲れさせちゃってごめんね。屋敷に向かいます』

 達筆な文字。名前はなかったが、ノノに違いない。

 紙をそっとたたみ、ニアは小さくため息をついた。

 自分の不甲斐なさが、胸の奥でまた疼いた。


***

 銀のポットから、琥珀色の紅茶がカップに注がれていく。

 ひと筋も揺るがぬ手つきで、ノノは三つ目の客人のカップを満たすと、すっと身を引いた。

 給仕服の胸元には、館の紋章をあしらった細いブローチ。姿勢ひとつ崩さず、音ひとつ立てず、彼は部屋の空気に溶け込むように立ち続けていた。

 天窓から差す午前の陽が、ゆるやかに床の模様を際立たせる。

 奥の長椅子に座る侯爵が、ふと手元の書類から視線を外した。

「……やはり、欲しいな」

 彼の目は、壁にかけられた一枚の絵に注がれていた。

 舞踏会の夜、館に寄贈されたそれ――仮面の姫が振り返る、あの幻想のような構図。

 ニアが描いた絵だった。

 ノノは、言葉を挟むことなく、静かに絵のそばの燭台の位置を少し整える。

 そして再び、何もなかったように控えの位置へ戻った。


***

「……ミメーシスって、知ってるかい?」

 茶会の後。片付けの途中で、古参の使用人がノノに声をかけてきた。

 彼はこの屋敷で長く働く男で、些細な話題にすら自慢げな風を纏うことで知られていた。

「……存じません」

 ノノの淡々とした返事に、男はうれしげに口角を上げて語り出す。

 その目は、語る悦びに陶酔していた。

「対象を模倣することで、再現に近づこうとする芸術的態度のことさ。ミメーシス。昨日の舞踏会にいた、あの画家の少年――いや、まるでバレリーナのメアのようだった。絵もまた然り。粗削りではあるが、ノアの再来だ。美しかったよ、実に」

 男の口からこぼれ落ちるその名に、ノノの心が静かに冷えた。

 賞賛のはずの言葉が、どうしようもなく薄っぺらく聞こえる。

「……お詳しいのですね。創作に関わっていらしたのですか?」

 ノノの声に温度はなかった。ただ淡く、無機質に。

 だが男は気づくことなく、まるで褒められたかのように鼻を広げた。

「ふふ、まあね。少しだけ。僕はね、ミメーシスという概念に強く惹かれていてね。本物を模倣し、越えていく美。その素晴らしさを、ぜひ彼とも語り合ってみたいもんだよ。――本物を超える“芸術”について」

 止まらぬ語りに、ノノは少しだけ視線を逸らし、短く言った。

「……昨日の、あの方の絵は。あの方“自身”のものに、私には見えましたが」

 声は低く、しかし鋭かった。

 男は、その静かな一言にわずかに眉をひそめ――そして、鼻を鳴らした。

「……お前のような下働きに、わかるはずもないな。悪かったよ」

 吐き捨てるように言うと、男は食器の片づけに戻った。

 ノノは黙ったまま、その背を見送った。

(……くだらない)

 胸の奥で、その言葉だけを反芻した。


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