クラリッサ
レイたちが戻ってきたのは、日付が変わる少し前だった。二人に目立った外傷はなかったが、どこか鉄と薬品の混じった匂いが漂っていた。レイはバツの悪そうな顔でうつむいている。
紫は、レイの肩に残った小さな傷に目を留めると、そばのニアに声をかけた。
「ニア、レイに石の光らせ方を教えてやれ」
唐突な指示に、ニアはあたふたと戸惑い、顔を真っ赤にして口を開いた。
「あ、えっと……こう、使いたいところを思い浮かべて、カギになるものを持って……ええと、ぎゅんって感じで……」
しどろもどろな説明に、紫はすぐさま割って入る。
「…わかった。もういい、私が教える」
ニアは顔をさらに赤くして、小さく「ごめん」とつぶやいた。
「石は、別に光らせるもんじゃない。誰でも光らせられるわけでもないしな。世間じゃ“特化した能力者が石を持つ”ってことになってるが、実際は違う。石が光ったときに、その人の何かが浮き彫りになるだけだ」
紫はそう言いながら、アサヒの背中の剣を半ば強引に手渡し、話を続ける。
「ただ、ごくまれに“特異な状態”に遭遇したときには意味がある。石を光らせることで、その力を一時的に引き出すことができる」
そしてアサヒの手を取り、そっとレイの肩に導く。
その様子を、焔羅は羨ましそうに見ていたが、誰もそれには触れなかった。
「おまえの兄貴だろ、お前が治せ。力の使い方くらいちゃんと覚えろ、間違えないように」
不思議と紫の教えはすんなりとアサヒに入り込んだ。その瞬間、アサヒの手の甲に埋め込まれた緑の石がふわりと光り、レイの肩口の傷が消えていく。
「…上出来」
紫の表情がわずかに緩んだ。
そのやさしげな顔を見たのは、たぶん初めてだった。
けれど、それも一瞬。すぐにいつもの無表情へと戻っていた。
「次は二人には何があったか詳しく聞いとかないとな」
レイは石で癒された肩にそっと手を添えた。
感触も痛みも、もうどこにもなかった。それでも、先ほど触れた“声”の余韻は、体の奥にこびりついたままだった。
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レイは癒えた肩にそっと手を添える。
傷はきれいに消えたというのに、あのとき聞こえた“声”だけが、まだ耳の奥でくすぶっていた。
「……あのとき、声がしたんだ」
レイはぽつりと口を開く。
「助けて、苦しい、って。あれは……あの薬で、無理やり能力を引き出された人たちの声だったのかもしれない」
「それは幻聴じゃない」
紫が静かに言う。
「薬で無理に引き出された能力は、“石”を通じて他者に影響を与えることがある。自分を保てなくなった声が、漏れ出るんだよ」
焔羅がソファの背に腕をかけながら、いつもの軽い口調で話す。
「それにしても、まあまあヤバそうだったねぇ。間一髪ってやつ?」
レイは黙ってうなずいた。
焔羅の気楽な口調が、少しだけ現実味を取り戻してくれる。
「そいつがまた石付きを狙う可能性は?」
紫の声が低くなる。
「……あると思う」
「じゃあ、また会うな」
その言葉に、アサヒの背中がぴくりと動いた。
ニアも眉をひそめ、自身の肩に埋め込まれてる石を指でなぞった。
紫は椅子に深く座り、腕を組むと視線を一人一人に向けた。
「いいか、明日からは本格的に“展示会場の守り”が始まる。敵が誰かも、目的もまだぼんやりしてるが……こっちの戦力も、ばれてる」
焔羅が天井を仰ぎながら言った。まじめな口調で続けた。
「……俺、ものすごく頑張ったし、紫ちゃんからご褒美もらわないと頑張れないかもしれない」
「ふざけるな」
紫がぴしゃりと切った。
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その夜、ニアは眠れず、ホテルのベランダで風にあたっていた。
ふと見下ろすと、ホテルの入り口から細い影が出ていくのが見えた。
「……クラリッサ?」
ニアは素早くウィッグを被り、その後を追った。
クラリッサが向かった先は、展示会場だった。
鍵は開いており、そっと中に入ると、クラリッサは白い彫刻をなぞるように触れていた。
「……バレちゃってたか」
小さく笑うクラリッサに、ニアは無言で首をかしげる。
「ああ、ちょっと削るくらいなら音も出ないし、平気かなって思っただけ」
その茶目っ気ある返答に、ニアの口元が緩む。
「悪い人だね。……でも、そんなに歩き回ってたら危ないよ」
「展示直前で未完成で作家が殺されるとか、それはそれで面白いかもね」
冗談ともつかない言葉に、ニアは黙ったままだった。
「私ね、あなたと違って大きなもの作ってるでしょ?ほんとにいろんな人に迷惑かけるの。場所も、お金も、人手も。私は一人で作れない作家なの」
クラリッサの声が、広い会場に溶けていく。
「作品って、作品そのものが実用的なものでないし、生活になくても、言っちゃえば困らないもので、それでも誰かのわかりやすい形になるために商業的に扱われることもあれば勝手に神格化することもある」
ニアは、クラリッサのような人間をよく知っていた。
作品だけが命綱になっている人の、孤独さを。
「私はね、きっと作品を作らなければ、この世界でやっていけないタイプの……ダメな人間なのよ」
クラリッサはニアのほうを見ずに、祈るように呟いた。
「だから、あなたは、どうか自由に作って」
その横で、ニアは静かに腰を下ろした。
「僕も眠れないから、ここで絵を描いてく。だから、好きに作業すれば?」
スケッチブックに顔を落としたニアの赤い耳を見て、
クラリッサの顔に、ようやく微笑みが戻った。