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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第十章 空と額縁
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絵筆のあとに

 月の出ない夜だった。灯りに照らされた石畳を、馬車の影がゆっくりと通り過ぎていく。

 音楽と香水の匂いが混ざり合い、豪奢な屋敷の中はすでに舞踏会の空気に包まれていた。

 ここは旧王国時代から続く名家――芸術品の蒐集でも名高い貴族が主催する夜会。

 その客人の一人として、“宮廷画家ノアの息子”が招かれた。

 もちろん、それはニア本人にとっての「仮の肩書」ではない。正真正銘、亡き父はかつて名を馳せた画家だった。そしてこの屋敷には、父の遺した絵や「石」が所蔵されていると聞いている。

 (まずは話を聞く。それだけのはずだった)

 けれど、扉が開いた瞬間から、その予想は外れた。

 視線。ざわめき。ドレスのすそが翻る中で、ニアの姿は一際目を引いた。

 女性的な衣装。華やかな編み込みの髪。舞踏会に違和感はなかったはずなのに、“誰よりも”目立っていた。

 (――見られてる)

 冷たい汗が、肩を伝った。

 そのときだった。

「――ああ、ノアさんの息子さん、ですか」

 その声に、ニアは立ち止まって振り返る。

 声の主は、年配の男爵だった。丸く張った腹を金の刺繍のベストで包み、口元には笑みを浮かべている。が、その目は、まるで物珍しい展示品でも見るようにニアの姿をじろりと舐めた。

「……作家というのは変わった方が多い。あなたも、実に個性的でよろしい。さすが芸術家のご子息だ」

 レースの袖、絞られた腰のライン、編み込まれた髪――

 その言葉には侮蔑はなかった。むしろ、好奇と“消費”がないまぜになった、どこか愉しげな視線だった。

 あたかもこの夜会そのものが舞台であり、ニアはその装飾の一部にすぎないとでも言うように。

「父の名を覚えていてくださって、光栄です」

 にこやかに頭を下げながら、ニアの胸の奥で心臓がひとつ、大きく跳ねた。

(“個性的”でいい……?)

 肯定のようでいて、その実、ニアにはわかっている。

 幼いころから、芸術家の息子として、奇異の視線にさらされ続けた。

 画布のように無防備な存在として、人々に好き勝手に解釈される感覚――それが、苦手だった。

 この場に満ちているのは、高尚ぶった演出のようでいて、実のところ“お人形遊び”にすぎない。

 作品が本来持つはずの、魂をむき出しにするような暴力性も、観る者の中の遺伝的な記憶を揺さぶるような衝動も――ここにはない。

 ここは、気持ちの悪い空気が蔓延る場所だった。

 ふと、視線を感じて振り返る。

 会場の隅、控えの使用人の列。その中に、黒いメイド服を着たひとりの少女がいた。ノノだった。

 目が合い、ごくかすかに頷くノノ。

(大丈夫、いつも通りでいい)――そう言っているようだった。

 舞踏会の直前、ふたりで交わした会話がよみがえる。

『嫌かもしれないけど……』

 申し訳なさそうなノノの声に、ニアは静かに答えていた。

『わかってる。僕は“宮廷画家ノアの息子”を、しっかり利用するよ』

 ノノを安心させるため、努めて明るく言った。

 するとノノは、ニアを上回るほど穏やかな声で、こう返した。

『……いつでもフォローできるように、近くにいるから』

 その言葉を思い出しながら、ニアはそっと息を吸い込み、微笑みを深くする。

 談笑する貴族たちのあいだを、給仕たちが静かに立ち回っていた。

「それにしても、今夜はずいぶんと賑やかですな。人手も多い」

「ええ、今日のために、何人か臨時の使用人を雇い入れましてね」

 年配の貴族が杯を傾け、にやりと笑う。

「ちょうど、ほら。あの娘などがそうだよ」

 その指先が向いた先――給仕の列のなかに、ノノの姿があった。

 ノノは無言で酒の器を運びながら、表情ひとつ変えない。

 だが、その手元にわずかに力がこもる。

(まずい)

 ニアは即座に察した。

 ノノに視線が集まるのは、好ましくない。

 ならば、自分が――

「……そういえば」

 ニアはすっと前に出て、会場中央に据えられた、大きなパフォーマンス用キャンバスの前へ向かう。

 この舞踏会では、貴族の気まぐれで即興の絵を描かされる“演目”が用意されている。

 ニアは震える指を押さえながら、筆を取った。

「この屋敷の空気に、心を強く揺さぶられてしまって。少しだけ、描かせていただけますか?」

 その声に、周囲の関心が動いた。

 ニアは一礼し、白のキャンバスに筆を走らせる。

 線が踊り、形が生まれる。

 その手つきは、まるで静かな舞いのようだった。

 貴族たちのざわめきが、やがて賞賛の声へと変わる。

「おお……」「これは本物だな」

 注がれていた視線が、ノノからニアの手元へと移っていく。

(……こわい、でも)

 心臓は張り裂けそうだった。けれど、手は止まらない。

 ふと視線を上げると、給仕の列に戻ったノノが、ほんの一瞬だけ、唇の端をわずかに持ち上げた。

 その仕草を見た瞬間、ニアの緊張がふっとほどけた。

 はじめてだった。人前に立って、怖さのなかに静けさが宿るのを感じたのは。

「……さすがはノアの息子だな」

 男爵の一声で、場の空気がやわらぐ。

 ノノは給仕の列の中で、静かに一礼を返した。

 ――場は、うまく収まった。そう思った、そのとき。

「そういえば、君の父君の“石”も、この屋敷にあるんだったね」

 別の貴族が、何気なく口にする。

 ニアの手が止まった。

「絵を描く気はない。ただ、持っていたいだけだよ」

「ノアの石は、いわば時代の象徴だ。飾っておくだけで価値がある」

 楽しげに語るその声に、ニアはにこやかに微笑みを返した。

 だが、その瞳の奥がわずかに揺れる。

(……持っているだけで、いい?)

 芸術は、“生”そのもの。

 描くことも、見ることも、交わることもなく、ただ飾られる石――

 それを誇らしげに語る彼らの声が、どこか遠く、薄いガラス越しに聞こえるようだった。

 ニアの指先が、再び筆を握り直す。


 絵の完成を前にして、空気がひとつ和らいだ頃。

 ある初老の貴族が、ニアに声をかけてきた。

「いやあ、すばらしい筆さばきだった。さすがノアの息子だ。よかったら……私のコレクションを、見ていかないか?」

 興が乗った様子で、貴族はニアの背に手を添え、会場奥へと誘った。



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