絵筆のあとに
月の出ない夜だった。灯りに照らされた石畳を、馬車の影がゆっくりと通り過ぎていく。
音楽と香水の匂いが混ざり合い、豪奢な屋敷の中はすでに舞踏会の空気に包まれていた。
ここは旧王国時代から続く名家――芸術品の蒐集でも名高い貴族が主催する夜会。
その客人の一人として、“宮廷画家ノアの息子”が招かれた。
もちろん、それはニア本人にとっての「仮の肩書」ではない。正真正銘、亡き父はかつて名を馳せた画家だった。そしてこの屋敷には、父の遺した絵や「石」が所蔵されていると聞いている。
(まずは話を聞く。それだけのはずだった)
けれど、扉が開いた瞬間から、その予想は外れた。
視線。ざわめき。ドレスのすそが翻る中で、ニアの姿は一際目を引いた。
女性的な衣装。華やかな編み込みの髪。舞踏会に違和感はなかったはずなのに、“誰よりも”目立っていた。
(――見られてる)
冷たい汗が、肩を伝った。
そのときだった。
「――ああ、ノアさんの息子さん、ですか」
その声に、ニアは立ち止まって振り返る。
声の主は、年配の男爵だった。丸く張った腹を金の刺繍のベストで包み、口元には笑みを浮かべている。が、その目は、まるで物珍しい展示品でも見るようにニアの姿をじろりと舐めた。
「……作家というのは変わった方が多い。あなたも、実に個性的でよろしい。さすが芸術家のご子息だ」
レースの袖、絞られた腰のライン、編み込まれた髪――
その言葉には侮蔑はなかった。むしろ、好奇と“消費”がないまぜになった、どこか愉しげな視線だった。
あたかもこの夜会そのものが舞台であり、ニアはその装飾の一部にすぎないとでも言うように。
「父の名を覚えていてくださって、光栄です」
にこやかに頭を下げながら、ニアの胸の奥で心臓がひとつ、大きく跳ねた。
(“個性的”でいい……?)
肯定のようでいて、その実、ニアにはわかっている。
幼いころから、芸術家の息子として、奇異の視線にさらされ続けた。
画布のように無防備な存在として、人々に好き勝手に解釈される感覚――それが、苦手だった。
この場に満ちているのは、高尚ぶった演出のようでいて、実のところ“お人形遊び”にすぎない。
作品が本来持つはずの、魂をむき出しにするような暴力性も、観る者の中の遺伝的な記憶を揺さぶるような衝動も――ここにはない。
ここは、気持ちの悪い空気が蔓延る場所だった。
ふと、視線を感じて振り返る。
会場の隅、控えの使用人の列。その中に、黒いメイド服を着たひとりの少女がいた。ノノだった。
目が合い、ごくかすかに頷くノノ。
(大丈夫、いつも通りでいい)――そう言っているようだった。
舞踏会の直前、ふたりで交わした会話がよみがえる。
『嫌かもしれないけど……』
申し訳なさそうなノノの声に、ニアは静かに答えていた。
『わかってる。僕は“宮廷画家ノアの息子”を、しっかり利用するよ』
ノノを安心させるため、努めて明るく言った。
するとノノは、ニアを上回るほど穏やかな声で、こう返した。
『……いつでもフォローできるように、近くにいるから』
その言葉を思い出しながら、ニアはそっと息を吸い込み、微笑みを深くする。
談笑する貴族たちのあいだを、給仕たちが静かに立ち回っていた。
「それにしても、今夜はずいぶんと賑やかですな。人手も多い」
「ええ、今日のために、何人か臨時の使用人を雇い入れましてね」
年配の貴族が杯を傾け、にやりと笑う。
「ちょうど、ほら。あの娘などがそうだよ」
その指先が向いた先――給仕の列のなかに、ノノの姿があった。
ノノは無言で酒の器を運びながら、表情ひとつ変えない。
だが、その手元にわずかに力がこもる。
(まずい)
ニアは即座に察した。
ノノに視線が集まるのは、好ましくない。
ならば、自分が――
「……そういえば」
ニアはすっと前に出て、会場中央に据えられた、大きなパフォーマンス用キャンバスの前へ向かう。
この舞踏会では、貴族の気まぐれで即興の絵を描かされる“演目”が用意されている。
ニアは震える指を押さえながら、筆を取った。
「この屋敷の空気に、心を強く揺さぶられてしまって。少しだけ、描かせていただけますか?」
その声に、周囲の関心が動いた。
ニアは一礼し、白のキャンバスに筆を走らせる。
線が踊り、形が生まれる。
その手つきは、まるで静かな舞いのようだった。
貴族たちのざわめきが、やがて賞賛の声へと変わる。
「おお……」「これは本物だな」
注がれていた視線が、ノノからニアの手元へと移っていく。
(……こわい、でも)
心臓は張り裂けそうだった。けれど、手は止まらない。
ふと視線を上げると、給仕の列に戻ったノノが、ほんの一瞬だけ、唇の端をわずかに持ち上げた。
その仕草を見た瞬間、ニアの緊張がふっとほどけた。
はじめてだった。人前に立って、怖さのなかに静けさが宿るのを感じたのは。
「……さすがはノアの息子だな」
男爵の一声で、場の空気がやわらぐ。
ノノは給仕の列の中で、静かに一礼を返した。
――場は、うまく収まった。そう思った、そのとき。
「そういえば、君の父君の“石”も、この屋敷にあるんだったね」
別の貴族が、何気なく口にする。
ニアの手が止まった。
「絵を描く気はない。ただ、持っていたいだけだよ」
「ノアの石は、いわば時代の象徴だ。飾っておくだけで価値がある」
楽しげに語るその声に、ニアはにこやかに微笑みを返した。
だが、その瞳の奥がわずかに揺れる。
(……持っているだけで、いい?)
芸術は、“生”そのもの。
描くことも、見ることも、交わることもなく、ただ飾られる石――
それを誇らしげに語る彼らの声が、どこか遠く、薄いガラス越しに聞こえるようだった。
ニアの指先が、再び筆を握り直す。
絵の完成を前にして、空気がひとつ和らいだ頃。
ある初老の貴族が、ニアに声をかけてきた。
「いやあ、すばらしい筆さばきだった。さすがノアの息子だ。よかったら……私のコレクションを、見ていかないか?」
興が乗った様子で、貴族はニアの背に手を添え、会場奥へと誘った。




