断絶と祈り
鉄と魔導石が軋む音が、塔の通路に低く響いた。
制御区画へと続く直線の道。
白衣を翻しながら歩を進めるのは、ガストン・ファレル。
報告を受けた直後だった。アギルが逃げたと。
あの身体で動けば、負荷は激痛となって襲う。
――もっとも、今の彼に“痛覚”が残っているかどうか、もはや定かではなかった。
そのときだった。
通路の先、暗がりに人影が立ちふさがる。
レイだった。
無言で剣を構え、通路を塞ぐ。
ガストンの足が止まる。
眼差しが細まり、冷たい光を帯びた。
「……どけ」
「どかない」
ふたりの視線が交錯する。
その背後からは、かすかに“癒し”の魔力が伝ってきていた。
アサヒが装置に触れている――
その事実に、ガストンの顔が歪んだ。
「……“癒し”に使う? あの力を? そんなものは幻想だ。非効率な、技術への――冒涜だ!」
怒声。
それは、自身の信念を否定された者の叫びに近かった。
だが、レイは微動だにせず、静かに答える。
「非効率? 全部“数字”に変えて……で、何を得たんだ、あんたは」
「……無教養なガキが。親の顔が見たいものだ」
冷たく吐き捨てるガストン――その声には、わずかに震えが混ざっていた。
レイは一歩も引かず、剣の切っ先をまっすぐに向けて言い返す。
「残念だったな。俺の父親は、あんたの何倍も立派だったよ」
その言葉に、ガストンの胸ポケットがかすかに動いた。
手が、銃のグリップに触れる。
「うるさい……何も知らないくせに、分かったような口を――!」
怒りの熱が一気に噴き出す。
だが、レイは静かだった。
その表情には、動揺も畏れもなかった。
「……あんたの名前、見覚えがあったんだ。父さんの部屋にあった論文――著者名が“ガストン・ファレル”だった」
ガストンの手が、ぴくりと止まる。
「昔は“不治の病”とされてた《ロゼ病》。咳と発熱、衰弱を引き起こす遺伝病……それの治療に光を見出した草の研究論文。
その発見で、何人もの人が救われたって」
ガストンは――笑った。
痛々しいほどに、乾いた、諦めきった笑みだった。
「……そんなもの、見つけたからなんになる」
遠くの命は救えても、最も近くの命は――救えなかった。
それだけが、彼の真実だった。
「今、あんたがしてることは……救いじゃない」
レイは、目を逸らさずに告げる。
「…‥より多く救うためには国益も金もいる、それがあれば私だったらもっと多くの人を救える。今起きてる被害など些細なことだ」
震える手を、ガストンは白衣の奥で押さえ込む。
その姿は、何かから目を背けるようにも見えた。
「暴力を正当化することはできない……あんたが“科学者”を名乗るなら、見ろよ。現実を。目の前の事実から逃げるな」
その一言が、壁のように張りつめていた空気を震わせた。
ガストンの震えが、わずかに止まる。
「……あんたはわかってるはずだ」
レイの鋭い視線に、亡き妻の瞳が重なるようだった。
――『ねぇ、ガストン、あなたはわかってるはずよ』
その言葉が、胸の奥を針のように突いた。
その瞬間だった。
塔の奥から、重低音のような振動とともに、魔力警報が鳴り響いた。
《――洗脳装置、強制終了開始――》
そして、次の瞬間。
アサヒの放った“癒し”の魔力が、視界を真っ白に染め上げる。
柔らかく、あたたかい光。
けれど、確かに――堅く閉ざされた誰かの心にまで、届いていた。
ただ、光の中で。
ガストンの目は、揺れていた。
***
崩れ始めた塔の中。
壁が軋み、天井から瓦礫がこぼれ落ちてくる。
轟音が鳴り響く中、ガストン・ファレルは階段の踊り場で、立ち止まった。
――「……父さんに、会いたいなぁ……」
小さく、弱々しい声。
思い出の中でこだまする、それは確かに――アギルの声だった。
「…………」
白衣の裾が、崩れた天井から吹き込む風に揺れる。
ガストンは、ひとつ、深く息を吐いた。
「……本当につまらないことをしていたのは、私だった」
誰に語るでもなく、呟く。
「ここまで……こんなにも、長く……お前をつき合わせてしまった」
頭の中に、遠い記憶が浮かぶ。
あの頃、まだ小さなアギルを妻が抱いていた日々。
あたたかい光の差す窓辺、微笑みを浮かべながら彼女は赤子の胸元に小さなお守りを結びつけていた。
健康を願う札。
幸せを祈る魔除けの紐。
「……そんなくだらんもの……信じているのか」
当時の自分の声が、脳裏に響く。
「自分自身でしか、成すべきことは成せん」
ガストンは、冷たく言い放っていた。
けれど、彼女は笑っていた。
どこか寂しげで、それでも優しく、揺れるような笑顔だった。
「……そうねぇ。神様って、何にもしてくれないわよね」
そして、赤子のアギルの額に、そっと口づけながら続けた。
「でもね、“神様、神様、お願い”って、そう言いながら……私が願ってるのよ。そうであってほしいって。
私のこの気持ちが……この子に、ちゃんと伝わればいいなって」
「……くだらん」
当時のガストンは、そう吐き捨てた。
「まだ言葉もわからん子供に……」
「ほんと、素直じゃない人ね」
リュミエールは、笑っていた。どこまでも、優しく。
「…………くだらん……」
過去の自分が、そう繰り返す声の奥で、何かが崩れていく。
目の前にある現実に、ガストンはようやく目を向けた。
目を閉じていたアギルの身体が、自分の腕の中にある。
もう感じるはずもない温もり。
血にまみれ、壊れかけた身体。
「…………アギル」
声が掠れる。
もう、涙を止める術もなかった。
彼は静かに、アギルの額に手を添えた。
「……あぁ……神様……お願いです……」
決して信じなかったものに、今、すがるように祈っていた。
「……この子を……私とは違う場所に……連れていってください。どうか……どうかこの子だけは……幸せな場所に――」
瓦礫が落ちる音も、炎の音も、もはや耳に入らなかった。
ただ、彼は崩れゆく塔の中心で、息子を抱きしめていた。
壊れかけた未来を、せめて今この瞬間だけでも、守るように。
そのとき――
アギルの瞳が、かすかに開いた。
そして、その中にたまった涙が、瓦礫の隙間から差し込む光を受け、きらりと輝いた。
静かに――静かに、父と子の時間が重なった。
それは、世界が崩れる直前の、奇跡のようなひとときだった。
そして――
黒猫トルクの“未来視”は、その瞬間、初めて外れた。




