黒猫の涙
人通りの多い街のすぐ裏手――
路地裏は、別の世界のようにひっそりと静まっていた。
空になったゴミ箱の蓋の上で、一匹の黒猫が尻尾をゆっくりと振っている。
その耳がぴくりと動いたとき、誰かの気配が近づいてきた。
「……いた」
顔をのぞかせたのは、煮干しを握りしめた少年。
アギルはそっとしゃがみこむと、黒猫に笑いかけた。
「ほんと、また勝手に散歩して……心配するじゃん」
黒猫――トルクは、くぐもった喉の音を鳴らしながら、彼の足元に擦り寄った。
その小さな舌で煮干しをくわえ、カリカリと噛みしめる。
アギルは黙ってその様子を見つめていた。
それが、彼にとっての“穏やかな日常”だった。
***
「なんだ、その汚い黒い塊は」
冷たい声が、部屋に響いた。
毛並みの荒れた黒猫を胸に抱いていたアギルは、びくりと肩を揺らす。
黒猫は衰弱しきっていて、ただアギルの胸元に顔を埋めていた。
「……街で倒れてて……さわったら、まだ、息があって……」
アギルの声は、どこか怯えたように小さかった。
ガストンは、息子の姿を一瞥するだけで、興味なさげに研究室へ戻ろうとする。
ふと、床に置かれた牛乳瓶が目に入った。
「猫は……猫用のミルクじゃないとダメだ。腹を下すぞ」
それだけを言い残して、ガストンは白衣の裾を翻す。
アギルは一瞬目を見開き――次の瞬間、ふわりと小さく笑った。
***
その日を境に、黒猫――トルクはアギルのそばから離れなかった。
昼も夜も、静かな研究所の廊下も、人気のない街角も。
少年がどこへ行くにも、黒い影はぴたりとその背に寄り添っていた。
けれど――
トルクは、知っていた。
アギルの目が、時折、誰かの背中を探すように揺れることを。
父、ガストン・ファレル。
研究所の奥で、一日中モニターに向かい、魔導回路の断面を睨みつける背中。
試薬の反応に一喜一憂し、魔力の実験に没頭し――
ふいにアギルが声をかけても、彼はそれを聞かなかった。
いや、聞こえてはいるのに、返さなかった。
「……父さん」
そう呼ぶ声が、返事もなく空に吸い込まれていくたびに、
アギルの顔に、ひとつずつ、影が落ちていく。
それでも少年は、諦めきれないように、また声をかけた。
ガストンの部屋の前で、言葉を飲み込むように立ち尽くしたり、描いた絵を見せようとドアをノックしかけて、引っ込めたり――
トルクは、その様子を、ただ黙って見ていた。
小さな体をこすりつけ、アギルの足元にすり寄る。
ふにゃっとした舌で手を舐めて、眠れぬ夜には胸の上にのってやる。
でも、わかっていた。
――それでも、あの背中を振り向かせることはできない。
人の心の奥にある“冷たい壁”に、猫の体温は届かない。
ただ、アギルがその壁に傷つくたびに、トルクは胸が締めつけられるようだった。
声も、言葉も持たないトルクにできるのは、
せめて、その傍に居続けることだけだった。
***
その夜、研究所の中から声が響いた。
鈍いガラス越しに漏れる、いつもとは違う、はっきりとした歓喜の声。
「……あった……ついに……! この反応は間違いない……!」
ガストンの声だった。
研究所の奥から、椅子を蹴るような音とともに、浮き立つような足音。
机を叩く音。転がる試験管。
魔導記録装置が点滅し、何かを記録する光が室内に走る。
トルクは、扉の隙間から耳をそばだてていた。
アギルは、物陰に立ち尽くしていた。
「これは……リュミエールが患ったあの病に……類似魔力の分解作用……」
「……台風期にしか咲かない、夜咲きの野草……。なるほど、なぜ見つからなかったのか……!」
声の温度が高かった。
夢中で、楽しそうで、どこか――何かを取り戻したような声だった。
アギルは、そっと目を伏せた。
リュミエール。
優しい母の名。
幼い頃、彼の髪をなでてくれた手のぬくもりを思い出す。
その野草は、村の外れ――
人が立ち入らない険しい崖のそばにだけ、台風の夜に姿を見せるという。
「……薬草取りに行ったら、笑いかけてくれるかな」
低く、ぽつりとアギルが呟いた。
振り返ってくれない背中。
自分を見ずに過去を追い続けるその眼差し。
アギルはそっと、足元に丸くなっていたトルクを見下ろした。
「母さんのこと、父さんが笑って話せるようになったなら、いいことだよね」
アギルの声は静かだった。
けれどその瞳には、はっきりとした決意があった。
外は、嵐の気配を孕んだ風が吹いていた。
暗雲が低く垂れ込め、風見鶏が軋む音が聞こえる。
そして、誰にも見送られることなく、アギルは研究所の扉をそっと開けた。
***
強い雨が、横殴りに窓を叩いていた。
風が軋む音と、屋根を這うような雷鳴。
そんな中、トルクは目を覚ました。
アギルがいない。
あの静かな寝息が、どこにもない。
嫌な予感がした。
胸の奥がざわつき、黒い前足で窓枠をこじ開ける。
すでに閉じたはずの雨戸は、なぜかかすかに開いていた。
雨の匂い。泥の匂い。
そして、ほんの少しだけ、アギルの匂いが風に混ざっていた。
トルクは、ぬかるんだ道を駆ける。
水たまりを跳び越え、雑草の茂みを抜け、森の外れを滑るように進んでいく。
やがてたどり着いたのは、村の外れ、小高い丘の上だった。
そこに――アギルがいた。
彼は、崖の際に身を乗り出し、雨に打たれながら手を伸ばしていた。
その指先には、風にたなびく――白い花。
夜咲きの薬草だった。
わずかに光るその姿は、まるで幻のように頼りなかった。
「……これで……きっと、父さんは……」
アギルの呟きが、雨にかき消される。
次の瞬間、足元の土が崩れた。
ぬかるんだ地面が、その体重を受け止めきれなかった。
「――っ!」
ずるり、と滑る。
アギルの身体が、土とともに崖の下へ傾いた。
トルクは、思わず跳ねた。
その小さな体で、ためらいもなく、崖へ向かって飛び込んだ。
重なる雷鳴。
闇を切り裂く稲光の中――二つの影が、虚空に浮かんでいた。
黒い猫と、少年。
それは、夜空に刻まれる儚い軌跡だった。
そして、闇に呑まれていく。
***
「……素晴らしい……本当に、素晴らしいぞ、アギル……!」
その声に、トルクは目を覚ました。
まだ覚束ない視界の奥にいたのは、血濡れた白衣と、狂気に染まった笑みを浮かべる男――ガストン。
「君は、最高の――“作品”だ」
手術台の上、アギルはうっすらと瞼を開き、その声に応えるように父を見つめていた。
かすかに、嬉しそうに笑う。そして再び、深い眠りへと落ちていく。
「――僕たちふたりの」
その瞬間だった。
トルクの頭の奥に、雷のような閃きが走った。
――崩れ落ちる塔。
――倒れるアギル。
――その胸に、ガストンの手が添えられる。
――静かに、我が子を手をかける父の姿。
見えたのは、「未来」だった。
いずれ訪れる、最悪の結末。
その夜を境に、トルクは“少しだけ先”の未来を断片的に見るようになった。
運命が何かに引き寄せられるように形を成していく、その兆し。
黒猫は、ゆっくりとガストンを見上げた。
その瞳には、悲しみが滲んでいた。




