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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第九章 ゼフェリカの黙示録
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黒猫の涙

 人通りの多い街のすぐ裏手――

 路地裏は、別の世界のようにひっそりと静まっていた。

 空になったゴミ箱の蓋の上で、一匹の黒猫が尻尾をゆっくりと振っている。

 その耳がぴくりと動いたとき、誰かの気配が近づいてきた。


「……いた」


 顔をのぞかせたのは、煮干しを握りしめた少年。

 アギルはそっとしゃがみこむと、黒猫に笑いかけた。


「ほんと、また勝手に散歩して……心配するじゃん」


 黒猫――トルクは、くぐもった喉の音を鳴らしながら、彼の足元に擦り寄った。

 その小さな舌で煮干しをくわえ、カリカリと噛みしめる。


 アギルは黙ってその様子を見つめていた。

 それが、彼にとっての“穏やかな日常”だった。

***

「なんだ、その汚い黒い塊は」


 冷たい声が、部屋に響いた。

 毛並みの荒れた黒猫を胸に抱いていたアギルは、びくりと肩を揺らす。


 黒猫は衰弱しきっていて、ただアギルの胸元に顔を埋めていた。


「……街で倒れてて……さわったら、まだ、息があって……」


 アギルの声は、どこか怯えたように小さかった。

 ガストンは、息子の姿を一瞥するだけで、興味なさげに研究室へ戻ろうとする。


 ふと、床に置かれた牛乳瓶が目に入った。


「猫は……猫用のミルクじゃないとダメだ。腹を下すぞ」


 それだけを言い残して、ガストンは白衣の裾を翻す。

 アギルは一瞬目を見開き――次の瞬間、ふわりと小さく笑った。


***

 その日を境に、黒猫――トルクはアギルのそばから離れなかった。

 昼も夜も、静かな研究所の廊下も、人気のない街角も。

 少年がどこへ行くにも、黒い影はぴたりとその背に寄り添っていた。

 けれど――

 トルクは、知っていた。

 アギルの目が、時折、誰かの背中を探すように揺れることを。

 父、ガストン・ファレル。

 研究所の奥で、一日中モニターに向かい、魔導回路の断面を睨みつける背中。

 試薬の反応に一喜一憂し、魔力の実験に没頭し――

 ふいにアギルが声をかけても、彼はそれを聞かなかった。

 いや、聞こえてはいるのに、返さなかった。

 「……父さん」

 そう呼ぶ声が、返事もなく空に吸い込まれていくたびに、

 アギルの顔に、ひとつずつ、影が落ちていく。

 それでも少年は、諦めきれないように、また声をかけた。

 ガストンの部屋の前で、言葉を飲み込むように立ち尽くしたり、描いた絵を見せようとドアをノックしかけて、引っ込めたり――

 トルクは、その様子を、ただ黙って見ていた。

 小さな体をこすりつけ、アギルの足元にすり寄る。

 ふにゃっとした舌で手を舐めて、眠れぬ夜には胸の上にのってやる。

 でも、わかっていた。

 ――それでも、あの背中を振り向かせることはできない。

 人の心の奥にある“冷たい壁”に、猫の体温は届かない。

 ただ、アギルがその壁に傷つくたびに、トルクは胸が締めつけられるようだった。

 声も、言葉も持たないトルクにできるのは、

 せめて、その傍に居続けることだけだった。


***

 その夜、研究所の中から声が響いた。

 鈍いガラス越しに漏れる、いつもとは違う、はっきりとした歓喜の声。

 「……あった……ついに……! この反応は間違いない……!」

 ガストンの声だった。

 研究所の奥から、椅子を蹴るような音とともに、浮き立つような足音。

 机を叩く音。転がる試験管。

 魔導記録装置が点滅し、何かを記録する光が室内に走る。

 トルクは、扉の隙間から耳をそばだてていた。

 アギルは、物陰に立ち尽くしていた。

 「これは……リュミエールが患ったあの病に……類似魔力の分解作用……」

 「……台風期にしか咲かない、夜咲きの野草……。なるほど、なぜ見つからなかったのか……!」

 声の温度が高かった。

 夢中で、楽しそうで、どこか――何かを取り戻したような声だった。

 アギルは、そっと目を伏せた。

 リュミエール。

 優しい母の名。

 幼い頃、彼の髪をなでてくれた手のぬくもりを思い出す。

 その野草は、村の外れ――

 人が立ち入らない険しい崖のそばにだけ、台風の夜に姿を見せるという。

 「……薬草取りに行ったら、笑いかけてくれるかな」

 低く、ぽつりとアギルが呟いた。

 振り返ってくれない背中。

 自分を見ずに過去を追い続けるその眼差し。

 アギルはそっと、足元に丸くなっていたトルクを見下ろした。

 「母さんのこと、父さんが笑って話せるようになったなら、いいことだよね」

 アギルの声は静かだった。

 けれどその瞳には、はっきりとした決意があった。

 外は、嵐の気配を孕んだ風が吹いていた。

 暗雲が低く垂れ込め、風見鶏が軋む音が聞こえる。

 そして、誰にも見送られることなく、アギルは研究所の扉をそっと開けた。


***

  強い雨が、横殴りに窓を叩いていた。

 風が軋む音と、屋根を這うような雷鳴。

 そんな中、トルクは目を覚ました。

 アギルがいない。

 あの静かな寝息が、どこにもない。

 嫌な予感がした。

 胸の奥がざわつき、黒い前足で窓枠をこじ開ける。

 すでに閉じたはずの雨戸は、なぜかかすかに開いていた。

 雨の匂い。泥の匂い。

 そして、ほんの少しだけ、アギルの匂いが風に混ざっていた。

 トルクは、ぬかるんだ道を駆ける。

 水たまりを跳び越え、雑草の茂みを抜け、森の外れを滑るように進んでいく。

 やがてたどり着いたのは、村の外れ、小高い丘の上だった。

 そこに――アギルがいた。

 彼は、崖の際に身を乗り出し、雨に打たれながら手を伸ばしていた。

 その指先には、風にたなびく――白い花。

 夜咲きの薬草だった。

 わずかに光るその姿は、まるで幻のように頼りなかった。

 「……これで……きっと、父さんは……」

 アギルの呟きが、雨にかき消される。

 次の瞬間、足元の土が崩れた。

 ぬかるんだ地面が、その体重を受け止めきれなかった。

 「――っ!」

 ずるり、と滑る。

 アギルの身体が、土とともに崖の下へ傾いた。

 トルクは、思わず跳ねた。

 その小さな体で、ためらいもなく、崖へ向かって飛び込んだ。

 重なる雷鳴。

 闇を切り裂く稲光の中――二つの影が、虚空に浮かんでいた。

 黒い猫と、少年。

 それは、夜空に刻まれる儚い軌跡だった。

 そして、闇に呑まれていく。


***

「……素晴らしい……本当に、素晴らしいぞ、アギル……!」

 その声に、トルクは目を覚ました。

 まだ覚束ない視界の奥にいたのは、血濡れた白衣と、狂気に染まった笑みを浮かべる男――ガストン。

「君は、最高の――“作品”だ」

 手術台の上、アギルはうっすらと瞼を開き、その声に応えるように父を見つめていた。

 かすかに、嬉しそうに笑う。そして再び、深い眠りへと落ちていく。

「――僕たちふたりの」

 その瞬間だった。

 トルクの頭の奥に、雷のような閃きが走った。

 ――崩れ落ちる塔。

 ――倒れるアギル。

 ――その胸に、ガストンの手が添えられる。

 ――静かに、我が子を手をかける父の姿。

 見えたのは、「未来」だった。

 いずれ訪れる、最悪の結末。

 その夜を境に、トルクは“少しだけ先”の未来を断片的に見るようになった。

 運命が何かに引き寄せられるように形を成していく、その兆し。

 

 黒猫は、ゆっくりとガストンを見上げた。

 その瞳には、悲しみが滲んでいた。


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