最高の作品
リュミエールの死後、ガストンは――すべてを、忘れるように研究に没頭した。
朝も、夜も、区別がなかった。
白衣の袖は焦げ、目の下には深い隈ができても、彼は一度も手を止めなかった。
必要なのは「力」だった。
もう二度と、目の前で大切なものを失わないために。
もう誰にも、笑われないために。
「国の限界? 医療の不足? 才能の石の希少性?――そんなもの、もう言い訳にすらならない」
ゼフェリカは、小さな国だった。
人材も、資源も、軍事力も、すべてにおいて他国に劣っていた。
だが、ガストンには知識があった。頭脳があった。技術があった。
それなのに――妻を救えなかった。
どれだけ研究を重ねても、薬草を探しても、魔術の理論を紐解いても、
死んだ人間は、もう二度と戻らなかった。
“国で一番賢い”と呼ばれていた男は、その瞬間、思い知ったのだ。
自分は、ただの井の中の蛙だったのだと。
リュミエールを看取ったあの日から、アギルのことすら顧みなくなった。
幼い息子の泣き声も、震える手も、彼には届かなかった。
それどころか、あの日あの時の“弱さ”を――彼は忌み嫌った。
「必要なのは、力だ。国益を、戦力を、他国から奪い取れる力……!」
いつしか彼は、他国の研究者とも秘密裏に接触し始めた。
倫理も人道も投げ捨て、非検体を使った兵器実験。
石つきの能力強化と精神干渉。
さらには感情の抑制技術を応用した洗脳兵の開発。
その手がどれだけ血に染まろうとも、
彼の視線の先には、あのときの「無力だった自分」しか映っていなかった。
ゼフェリカを、変えなければならない。
いや、世界のほうを――変えてやるのだ。
「……あの日の誓いを、形にするために。僕は怪物になってもかまわない」
妻の笑顔を、もう見られないのなら。
息子に微笑みかけられないのなら。
せめて――誰よりも強く、誰よりも遠くまで、この手を伸ばす。
それだけが、ガストン・ファレルの唯一の“生”となった。
そんな彼に息子の声は届かなかった。
***
ある日、研究所の静寂を破るように、一報が届いた。
「ガストン技術顧問……アギル様が――嵐の中、行方不明です」
報せを聞いた瞬間、彼は何も言わず、無言で立ち上がった。
白衣の袖に手を通すこともなく、研究記録を閉じることもせず、
ただ黙って、傘ひとつ持たず、外へと歩き出した。
天は容赦なく荒れ狂っていた。
雷鳴が轟き、大地を穿つほどの豪雨が降り注ぐ。
誰もついてこられなかった。
だが、ガストンは知っていた。
――あの崖だ。
あの日、リュミエールがなくなってから解明された、あの病に効くとされた薬草。
険しい岩場の下に自生する、危険な薬草を取りに行こうとして――
アギルは、ひとりで――。
崖の上から覗いた風景に、ガストンは息をのんだ。
その下、岩に叩きつけられるようにして倒れていたのは、
肉が裂け、骨が歪み、内臓をこぼしている――アギルの身体だった。
その傍らには、真っ黒な猫が寄り添うように倒れていた。
雨に濡れて動かないその姿は、まるで最期までアギルを守ろうとしていたようだった。
足が、勝手に崖を下りていた。
ぬかるんだ地を滑り、膝を打ち、手が血に染まっても、
彼はただ――目の前の、破れた人形のようなその身体に手を伸ばす。
そのとき、初めて、雨の音よりも大きな音が、彼の耳を満たした。
それは、過去の記憶だった。
リュミエールの笑い声。アギルの泣き声。
そして、遠ざけてきた、取り返せなかった“時間”の声。
「……だから……君らみたいな馬鹿は……」
声は震えていた。
怒りではない。侮蔑でもない。
それは、自分自身への、嘆きだった。
「……困るんだ……」
雨がすべてを洗い流していく中で、
ガストンは、アギルのぐったりとした身体をその腕に抱き上げた。
***
――夜の底のような、静寂が満ちていた。
薄暗い研究室。冷却装置の唸りと、規則的に点滅する魔導ランプの光だけが、時間の流れを告げている。
中央の手術台には、崖から拾い上げられたアギルの身体。
骨が砕け、皮膚は裂け、内臓は――まだわずかに原形を保っていた。
ガストンは一人、メスを手に取った。
血で汚れた白衣の袖をたくし上げることもなく、無言で――
手を震わせながら、それでも正確に、機械のように動かし始める。
「……君が……大切にした、もの」
思い出すリュミエールの顔。大切にアギルを抱く姿。幸せそうな小さなアギル。
命か、記憶か、夢か。
開発途中だった義肢強化システム。
まだ実験段階の神経制御魔導核。
未調整のままの人工心臓――。
ありったけを注ぎ込んだ。
執念とも、贖罪ともつかぬ手つきで。
何時間、何十時間が経ったか――
突然、手術台の上のアギルのまぶたが、ピクリと動いた。
その目が、ゆっくりと開いた。
魔力灯の光を、微かに反射する義眼。
その視線が、わずかに動いた瞬間――
ガストンの唇が、歪んだ。
「……素晴らしい……本当に、素晴らしいぞ、アギル……!」
狂気とも陶酔ともつかぬ笑み。
片手に握られたメスが、返り血に濡れながらも赤黒く鈍く光る。
それはもう、医療器具ではなかった。
まるで、創造の証――祝福のナイフのように。
「君は、最高の――“作品”だ」
アギルの目が、また静かに閉じられる。
再び深い眠りへと堕ちていく。
それは、回復のための睡眠か、それとも魂の喪失か――。
だが、ガストンは満足げに呟いた。
「――僕たちふたりの、大切な」
そこにあったのは、父の愛か、創造主の誇りか。
それとも――ただの、狂気だったのか。
***
「勝者――ユルザ!」
場内に響き渡るアナウンス。
ガストンは、静かに座ったまま、倒れ伏す息子の姿を見下ろしていた。
負けたはずなのに――その顔は、どこか穏やかだった。
癒しの力を持つ、ユルザの少年がもたらしたものかもしれない。
あんな表情を、いつ以来見ただろう。
仮面の下の素顔を、どれほど見ていなかったかも思い出せない。
……長い時間、アギルは自分の“エゴ”に付き合わされてきたのだ。
そしていま、ようやく――自由になれたのかもしれない。
「……よかったですよ。我が子が“負けてくれて”。」
呟いた言葉の真意は、誰にも届かない。
けれどそれは、誰かに許しを乞うような声だった。
終わらせるなら――
いま、この瞬間が、一番穏やかだ。
痛みも、苦しみも。
あの少年が、すべて包んでくれた。
だから――そんな今なら。




