小さな国ゼフェリカ
ゼフェリカは、とても小さな国だった。
国益は乏しく、“才能の石”を持つ者も極めて少ない。
戦争もなければ、野望もない。
国の方針は「現状維持」。足るを知り、他国の下請けでなんとか日々を回す――それがこの国の姿だった。
そんな土地で、ガストンはただ黙々と研究に打ち込んでいた。
他国の依頼で開発を進め、動物や奴隷を対象に治験を繰り返す日々。
感情は必要ない。効率と結果。それだけが価値だった。
ある日、他国から搬入された非検体の奴隷たちの中に――
一人、異質な女がいた。
健康診断の際、彼女は言った。
「私、血管細いから。気をつけてよね」
怯えも恐れもないその口調に、ほんのわずか、ガストンは手を止めた。
「……非検体が偉そうに。これは町の健康診断じゃない」
冷たい声音で返すガストン。
だが彼女は、静かに微笑んで言った。
「その割には、随分と丁寧な手つきね。あなた」
――今にして思えば、あれがすべての始まりだった。
彼女の名前は、リュミエール。
この小さな世界で、唯一、まっすぐな目をしていた女。
***
「ガストンさんもおかしくなったんじゃないか」
「非検体の女に入れ込んでるって本当か?」
「遊ぶなら、愛玩用の奴隷でも買えばいいのにな」
研究所には、冷笑と好奇の視線が渦巻いていた。
ガストンが“あの女”に肩入れしている――そんな噂が広がっていた。
非検体に対し、あくまで冷たく、だが“番号”ではなく“名前”で呼ぶ姿を、誰もが目撃していた。
(……我ながら、どうかしている)
ガストンは、陽性反応の出た検査薬を見つめながら、深く息を吐いた。
隣では、リュミエールが嬉しそうに笑っていた。
「できちゃった。私たちの子」
その声があまりにも明るくて――
研究者としての人生が、大きく軋んだ音を立てて歪んだ瞬間だった。
***
リュミエールが子を産んでからの生活は、まるで絵空事のようだった。
奴隷だったはずの女が、穏やかな顔で家にいて、赤ん坊を抱きながら笑っていた。
その姿に、ガストンは何度も眉をひそめた。
「……そんな弱々しい生き物の、どこがいい。泣いて、喚いて、手間ばかりかける」
呆れるように言った彼に、リュミエールは、どこまでも優しい目で微笑んだ。
「……大切よ。あなたとの子だもの」
意味がわからなかった。
つまらない女だ。
数字で測れない感情を振りかざし、あたたかさと愛情を“当たり前”のように語る。
そんなもの、研究では使えない。計算にもならない。
「ねぇ、ガストン」
ある日、リュミエールは静かに言った。
「あなた、本当はわかってるんでしょう?」
澄んだその声が、まっすぐ心を射抜くようだった。
「わからないふりを、しているだけ」
ガストンは、何も返さなかった。
ただ心の中で、いつものように反芻する。
――ああ、本当に、つまらない女だ。
だが、その“つまらなさ”が、
いずれ彼の全てを呑み込むことになるとは、
このときのガストンには、まだ想像もできなかった。
***
ある日、静かに、崩れるように――リュミエールは、ある日、床に膝をついた。
もともと彼女の身体は強くなかった。
非検体として選ばれた者の多くは、病弱か、社会的に不要とされた者たちだ。
その中でも、リュミエールは“健康”な方だった。少なくとも、見た目には。
だが、あまりにも唐突に、彼女の容体は悪化していった。
最初は、咳だった。
次に、微熱。
そしてある朝――彼女は血を吐いた。
「……ちょっと疲れてるだけ……すぐに治るわ」
そう言って笑ったその日から、彼女は床から起き上がれなくなった。
***
家の外で、誰かが言っていた。
「……うちの国じゃ、この程度が限界だよ」
「治療法もないしな。医療系の石つきも少ないし」
「隣国の薬があれば可能性はあったのに。うちじゃ、許可も下りないだろ」
「運が悪かったんだよ。あんな体で、子供まで産んじまったんだから」
耳を塞ぎたくなるような現実。
ガストンは黙って、それを聞いていた。
目の前の記録端末から視線を外すことなく、ただ、指先だけが震えていた。
研究では――人の命は「サンプル」だった。
失敗すれば次に移るだけ。数字がすべてだった。
でも今、自分の手の届くところで、ひとつの命が確実に失われようとしていた。
最期の夜。
息を荒げるリュミエールの傍らで、幼いアギルが泣いていた。
彼女は、弱々しくその小さな手を握り、
そして、もう一方の手を、ガストンへと伸ばしてきた。
「……ガストン……お願い……」
その声はかすれていた。
でも、はっきりと聞こえた。
「……この子だけは、頼むわ……あなたしか、いないの……」
ガストンは、なにも言えなかった。
ただ無言で、彼女の手を握り返すしかなかった。
そして――リュミエールは、静かに目を閉じた。




