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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第九章 ゼフェリカの黙示録
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小さな国ゼフェリカ

 ゼフェリカは、とても小さな国だった。

 国益は乏しく、“才能の石”を持つ者も極めて少ない。

 戦争もなければ、野望もない。

 国の方針は「現状維持」。足るを知り、他国の下請けでなんとか日々を回す――それがこの国の姿だった。

 そんな土地で、ガストンはただ黙々と研究に打ち込んでいた。

 他国の依頼で開発を進め、動物や奴隷を対象に治験を繰り返す日々。

 感情は必要ない。効率と結果。それだけが価値だった。

 ある日、他国から搬入された非検体の奴隷たちの中に――

 一人、異質な女がいた。

 健康診断の際、彼女は言った。

「私、血管細いから。気をつけてよね」

  怯えも恐れもないその口調に、ほんのわずか、ガストンは手を止めた。

「……非検体が偉そうに。これは町の健康診断じゃない」

  冷たい声音で返すガストン。

  だが彼女は、静かに微笑んで言った。

「その割には、随分と丁寧な手つきね。あなた」

 ――今にして思えば、あれがすべての始まりだった。

  彼女の名前は、リュミエール。

 この小さな世界で、唯一、まっすぐな目をしていた女。


***

「ガストンさんもおかしくなったんじゃないか」

「非検体の女に入れ込んでるって本当か?」

「遊ぶなら、愛玩用の奴隷でも買えばいいのにな」

 研究所には、冷笑と好奇の視線が渦巻いていた。

 ガストンが“あの女”に肩入れしている――そんな噂が広がっていた。

 非検体に対し、あくまで冷たく、だが“番号”ではなく“名前”で呼ぶ姿を、誰もが目撃していた。

(……我ながら、どうかしている)

 ガストンは、陽性反応の出た検査薬を見つめながら、深く息を吐いた。

 隣では、リュミエールが嬉しそうに笑っていた。

「できちゃった。私たちの子」

 その声があまりにも明るくて――

 研究者としての人生が、大きく軋んだ音を立てて歪んだ瞬間だった。

***

 リュミエールが子を産んでからの生活は、まるで絵空事のようだった。

 奴隷だったはずの女が、穏やかな顔で家にいて、赤ん坊を抱きながら笑っていた。

 その姿に、ガストンは何度も眉をひそめた。

「……そんな弱々しい生き物の、どこがいい。泣いて、喚いて、手間ばかりかける」

 呆れるように言った彼に、リュミエールは、どこまでも優しい目で微笑んだ。

「……大切よ。あなたとの子だもの」

 意味がわからなかった。

つまらない女だ。

 数字で測れない感情を振りかざし、あたたかさと愛情を“当たり前”のように語る。

 そんなもの、研究では使えない。計算にもならない。

「ねぇ、ガストン」

  ある日、リュミエールは静かに言った。

「あなた、本当はわかってるんでしょう?」

 澄んだその声が、まっすぐ心を射抜くようだった。

「わからないふりを、しているだけ」

 ガストンは、何も返さなかった。

 ただ心の中で、いつものように反芻する。

 ――ああ、本当に、つまらない女だ。

 だが、その“つまらなさ”が、

 いずれ彼の全てを呑み込むことになるとは、

 このときのガストンには、まだ想像もできなかった。

***

 ある日、静かに、崩れるように――リュミエールは、ある日、床に膝をついた。

 もともと彼女の身体は強くなかった。

 非検体として選ばれた者の多くは、病弱か、社会的に不要とされた者たちだ。

 その中でも、リュミエールは“健康”な方だった。少なくとも、見た目には。

 だが、あまりにも唐突に、彼女の容体は悪化していった。

 最初は、咳だった。

 次に、微熱。

 そしてある朝――彼女は血を吐いた。

「……ちょっと疲れてるだけ……すぐに治るわ」

 そう言って笑ったその日から、彼女は床から起き上がれなくなった。

***

 家の外で、誰かが言っていた。

「……うちの国じゃ、この程度が限界だよ」

「治療法もないしな。医療系の石つきも少ないし」

「隣国の薬があれば可能性はあったのに。うちじゃ、許可も下りないだろ」

「運が悪かったんだよ。あんな体で、子供まで産んじまったんだから」

 耳を塞ぎたくなるような現実。

 ガストンは黙って、それを聞いていた。

 目の前の記録端末から視線を外すことなく、ただ、指先だけが震えていた。

 研究では――人の命は「サンプル」だった。

 失敗すれば次に移るだけ。数字がすべてだった。

 でも今、自分の手の届くところで、ひとつの命が確実に失われようとしていた。

 最期の夜。

 息を荒げるリュミエールの傍らで、幼いアギルが泣いていた。

 彼女は、弱々しくその小さな手を握り、

 そして、もう一方の手を、ガストンへと伸ばしてきた。

「……ガストン……お願い……」

 その声はかすれていた。

 でも、はっきりと聞こえた。

「……この子だけは、頼むわ……あなたしか、いないの……」

 ガストンは、なにも言えなかった。

 ただ無言で、彼女の手を握り返すしかなかった。

 そして――リュミエールは、静かに目を閉じた。


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