予測不能の連携
夜の宿舎。
誰もいない広間の隅で、ふたり分だけ灯った薄明かりのもと――アサヒとレイは向き合っていた。
「……アサヒ。中堅だけじゃなく、副将にも出てもらうぞ」
レイの口から唐突に出た言葉に、アサヒの目が大きく見開かれた。
「……え? 僕、戦闘向きじゃないのに……」
声が裏返る。椅子の背に思わず寄りかかり、アサヒはわずかに青ざめた顔を見せる。
「わかってる。けど……後衛が足りない。どうしてもな」
レイの声に責める調子はなかった。ただ事実だけを静かに告げる、淡々とした響き。
「それに、たぶん――キサラギも、兆も、お前のためになる」
「……兆とは話したこと、あんまりないけど」
アサヒがぽつりと呟くと、レイは少しだけ目をそらし、何かを言いかけてから、肩をすくめた。
「あー……うん……まあ、なんというか……」
言いよどんだあと、言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「兆と組むときはな、とりあえず“ひとつだけ伝える”といい。お前は考えすぎるから」
アサヒが目を瞬く。
「お願いしたいこと、譲れないこと――一個に絞って伝えろ」
レイの言葉には、確信があった。
アサヒを否定しないまま、それでも“兆との距離の詰め方”をきちんと示してくれていた。
アサヒは黙って、小さくうなずいた。
***
(……僕の“譲れないこと”ってなんだろう)
戦場のど真ん中で、アサヒの脳裏にレイの言葉がよみがえる。
『お願いしたいこと、譲れないこと、一個に絞って伝えろ』
(……僕は、戦況全部見て、全部助けようとして、結局中途半端で……)
でも、今だけは。
この瞬間だけは、たったひとつの願いに集中しよう。
(……僕の、お願いしたいこと――)
「今日の夕飯のことだけ考えてて!!」
叫んだ瞬間、会場が一瞬静まり返った。
「……ん? わ、わかった」
兆は少し戸惑った様子を見せながらも、素直にうなずく。
その直後だった。
兆の鎖付きスパイクが、今まで以上に混沌とした軌道を描き始める。
振り上げられたかと思えば空を切り、地をえぐるように弧を描くかと思えば、急に止まって回転する――常識も重力も無視したような一撃。
そのすべてが、“意図の読めない軌道”となって、戦場を荒らし始めた。
「……ッ!?」
黒猫トルクの尾がぴくりと跳ねる。
目を細め、何度も空中に虚像を描くように視線を巡らせるが――次の“未来”が読めない。
読み取ったはずの数秒先と、目の前の現実が食い違い始めている。
「トルク……?」
トルクの顔に、わずかな焦りが走った。
その混乱が、アギルの動きにもわずかに伝染していく。
兆の戦い方には意味がない。けれど今だけは――それが、最強の武器だった。
読めない軌道、突発的な跳躍、斜めから飛び出す鉄球。
けれどその“無軌道”のすきまに――アサヒの癒しの光が、ぴたりと滑り込む。
兆の肩に切り傷が走る。アギルの針がかすめた。が――
すぐさま、アサヒが剣を地に突き刺す。
そこから、ふわりと広がった風のような緑の光が、兆の神経にだけ届き、痛みを断ち切る。そして消える傷口。
アサヒの手は震えていた。それでも、視線は鋭く戦況を捉え、次の一手を探る。
(……違う、もう考えなくていい)
兆の“動き”に、正解なんてない。あるのは、“次にどこに出るか”だけ。
理屈を捨てる。それが、彼と並び立つ唯一の方法。
「……もう理屈とか知らない! とりあえず全部治せばいいんでしょ!!」
アサヒが叫んだ。癒しの光が一気に広がる。
それに呼応するように、兆の足が加速した。
鉄球が――唸りを上げる。
奇妙な軌道を描いた鉄塊が、アギルの仮面の鼻先をかすめて、地面を砕く。
その瞬間だった。
アギルの足元がわずかに揺らいだ。後退しようとする動きが、ほんの一瞬だけ遅れる。
心臓の音が大きく波打った。
動きが一瞬止まるのと同時に兆の鉄球が、アギルの腹部に直撃した。
砂煙が視界を覆う。
観客席のあちこちから、息をのむ音が漏れた。
「やった、か……?」
誰ともなく、そう呟いた。
***
「父さん、模試で一番とったんだ、今度、学校でリレーの選手にも選ばれたよ」
そう声をかけたのは、いつだっただろう。
薬品の匂いが立ち込める研究室で、父は一切の反応を見せず、無言で装置の針を見つめていた。
「そんなものをとって何になるんだ?」
静かに落ちた声。
こちらを一度も振り返らない、背中越しの拒絶。
「模試で一位なんて、鍛錬みたいなものだろ。凡人でもできる。学校のリレーなんぞ、世界にいくつ学校がある。狭い世界だ」
アギルは、小さな手で“順位”の書かれた紙を握りしめた。
言葉を返すすべがない。胸の奥に、何かが詰まる。
「他者の評価を気にするなんてつまらないやつだな」
ひときわ冷えた声が突き刺さった。
アギルはそれでも――必死に笑おうとした。
「……そう、だね」
笑顔は歪んでいた。それでも、研究室の扉を静かに閉める。
その足元に、黒い猫が一匹。くるりとすり寄ってきた。
アギルは猫の頭をそっと撫でて、呟いた。
「別に、順位なんてどうでもよかったんだぁ、トルク」
本当はただ――
この世でたった一人の、父さんに。
「父さんに、褒めてもらいたかったんだぁ」
小さな声は静かにトルクにだけ、届く。トルクは悲しそうに、アギルにすり寄った。
そんな静かな日々の中、
“何か”が、少しずつ壊れ始めていった。
***
血の匂いが立ち込める、あの研究室。
注射器が散乱し、アギルは床に倒れ、血に濡れたトルクが痙攣していた。
その中で、父・ガストンの声だけが、やけに明瞭に響いていた。
「素晴らしい……本当に素晴らしいぞ、アギル!」
恍惚の笑み。
片手に握られたメスが、赤黒く鈍く光っていた。
「君は、最高の――“作品”だ」
その言葉に、アギルの瞳が――静かに開いた。
ーー父さんが、はじめて褒めてくれた。
***
ゆらりと立ち上がる、黒い影。
仮面の下からにじみ出す黒い油。
裂けた身体の内側に見える、無機質な金属の構造。
その姿は、もはや人の形をしていなかった。
アギルの真っ黒な瞳が、静かにこちらを見据えていた。




