甘い匂い
観客席の上段――各国の元首が並ぶ特別席。
そこに控えていたはずの、ユルザの女王代理・セレナの護衛の一人が、突如、通信から姿を消した。
「……反応がありません。遮断されました」
耳元で囁かれたその報告に、光の表情がわずかに変わる。
裏方用通路の魔導端末をいくつか立ち上げ、同時に別ルートからの監視記録をチェック。
(消えたのは……セレナの随行、第一護衛班。しかも、この時間に――)
この本戦の最中、敢えて“今”。
それは単なる通信障害ではない。
――意図的な「揺さぶり」。
光はすぐに理解する。
セレナという存在が「女王代理」であること、そしてその命が奪われればユルザは混乱する。
試合の勝敗すら意味をなくす可能性がある。
(……本当に、戦場はアリーナだけじゃないんだな)
光は、小さく目を細めた。
***
――フィールドに、再び鐘の音が鳴り響く。
「次鋒戦、開始の準備をお願いします!」
アナウンスと同時に、観客席の一角がざわめきに包まれる。
「ミィナ様~! 可愛すぎる〜!」
「マジ天使……あれは反則でしょ……!」
やけに熱のこもった声援が、波のように広がっていく。
出場ゲートが開かれると、そこから現れたのは――
まるで舞台に立つ女優のように気品と存在感を纏った少女。
金糸のような髪、ティアラ、軽やかなドレスアーマー。
〈ラウ=ミディア帝国〉王女、ミィナ・エイゼル。
「……また、会ったわね?」
ミィナは唇を弓のようにやわらかくゆがめて、手を振る。
その視線の先には、キサラギと焔羅。
予選で戦ったときと同じ、あの甘い匂いが空気に混じる。
焔羅が不意に目をそらした。
「おい……なんだ急に」
隣のキサラギが眉をひそめる。
ミィナは微笑を崩さぬまま、一歩踏み出す。
そして、ごく小さく――
「……編みなおし、開始」
ふわりと、空気が震えた。
魔力の糸のような波紋が彼女の周囲に広がる。
観客席すら、一瞬その視線を奪われる。
会場の熱気が膨れ上がる。まるでアイドルのライブ会場のような錯覚。
焔羅とキサラギの目も、否応なく引き寄せられていた。
二人の瞳の奥で揺れる“何か”。そこには――小さなハートが浮かび上がっていた。
「…か、かわいい」
「…天使だ」
――バキィン!!
控え席の後方から、硬質な音が響く。
紫が大剣を床に叩きつけ、柄の先端を深くめり込ませていた。
鋭い眼差しが、二人の背を貫く。
その音に、二人の意識がはじかれる。
「焔羅、今のお前……なんか、おかしくねぇか」
キサラギの声が鋭さを取り戻す。
焔羅は目を瞬かせた。
「……いやお前こそ……てか、あれ、なんでだろ」
わずかに柔らかくなった口調。
気が抜けたような構え。
まるで“戦う気”そのものを吸われたようだった。
「……ちっ」
キサラギが舌打ちする。剣を構え直しながら、目線を鋭くする。
(まずいな……ミィナの魔術、“感情”を歪めてくるタイプか)
そのとき、ミィナの背後からもう一人の影が現れる。
重装の騎士――ファーニス。
巨大な盾と長剣を抱え、鉄面皮のまま、無言で歩み出る。
その動きは、まるで感情というものが存在しない“兵器”そのものだった。
ファーニスが盾を構えて突進する。
まるで重量すら無視するような、重騎の突撃。
キサラギが銃を構えて応戦する、金属と金属のぶつかる音がフィールドに響きわたった。弾き飛ばされる弾丸。
「っ……くそ……」
腕に残る衝撃が、体ごと吹き飛ばすような圧だった。
一方そのころ、焔羅は――
ミィナの視線を受けていた。
「焔羅くん。そんな顔しないで。あなたは、もっと笑ってたほうが……ね?」
囁きにも似た声。耳元に直接届いたような気がした。
瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
(っ……なんだ、また来た……)
思考にノイズが走る。意識の底に、光が差し込む。
***
――夕焼け。
妹、ユラが、傷だらけ泣いている。
目の前の大人が、冷たい声で何かを言った。
焔羅は震える手で、二人を庇った。
痛みも、怖さも、飲み込んで――叫んだ。
(強くなる。絶対、誰も泣かせない)
それが、始まりだった。
なのに――
「守らなくてもいいのよ」
別の声が、優しく包み込んでくる。
「焔羅くんが傷つかなくても、誰かが守ってくれるわ。
……それって、幸せでしょ?」
その言葉に、脳の奥がふわりと緩む。
記憶の色が、ほんの少しだけ――違う色に“編みなおされる”。
(あれ……俺……なんで、守ろうと……?)
視界の端にミィナの姿がにじむ。
焔羅は、動きが鈍った。
***
「おい、焔羅! 集中しろ!」
キサラギの声が飛ぶ。
焔羅が顔をしかめるように振り返った。
「……あ、ああ。わかってるよ」
だが、わずかに――その声には“戸惑い”が混じっていた。
キサラギは焔羅の動きを見て、眉をひそめる。
(……妙だな。あいつの反応が鈍い。ミィナの魔術、まだ続いてやがるのか)
ミィナは何もせず、ただ小さく笑っているだけ。
だがその微笑みこそが、じわじわと心を絡め取っていく毒だった。
***
控室の空気が張りつめていた。
鋭い眼光の先にはフィールドに立つ赤黒い髪の男。
紫は、剣の柄を握ったまま、ひざを小刻みに揺らし続けている。
アサヒがそっと声をかける。
「ゆ、紫、落ち着いて、これは相手の力で、実際は違うと思うし」
「…わかっている」
短く答えるが、その声は低く、刺すような怒気をはらんでいた。
兆でさえ、視線を向けず、何かを祈るように沈黙している。
そして、レイのもとにアサヒが顔を寄せて、小さく囁いた。
「……なんで、あの二人だったの?」
レイは少し困ったように視線を落とす。
***
夜の訓練場。
整備台に腰を掛けたキサラギは、静かに銃の分解整備を続けていた。
そこへ、レイがゆっくりと近づいてくる。
レイは何も言わず、その隣に腰を下ろした。
キサラギは手を止めず、目だけを上げる。
「焔羅とキサラギって、予選のときに思ったけど……相性いいよね」
「……基本、調査隊はどんな状況でも戦えるようにしてるからな」
キサラギの言葉はいつも通り淡々としている。
「だが強いて言うなら、その中でも安定してるのは――焔羅と紫のペアだな。だからお前らの初任務にも同行させた」
キサラギはレイのほうを見ず、黙々と鉄の塊に向き合う。
その手は止まらない。
「……焔羅と紫の組み合わせは、確かに強い。だけど……あれは“強すぎて不安定”だと思った」
キサラギの手が一瞬だけ止まり、また動き出す。
無言のまま、続きを促す仕草。
「……なるほどね」
ほんの一瞬、キサラギが微笑んだように見えたが、それはすぐに消えた。
「それに、多分だけど……次鋒は精神系でくると思う」
「先鋒で勢いをつけて、次鋒は小細工で勝ちを拾いにくる。よくある手だ」
「精神攻撃には、焔羅とキサラギが一番“ぶれない”と思った」
その言葉に、キサラギは再び無言で作業を続け――そして、ふっと呟く。
「……あいつ、軽そうに見えて激重だからな」
レイが吹き出しかけて、どうにか飲み込む。
「信じるものが決まってるから、なんやかんやで大丈夫だと思うよ」
「……“なんやかんや”で片付けんなよ」
列車で撃ち合った記憶が、今では懐かしく思えるほどに――穏やかなやりとりだった。
「……まぁ、お前の予想、当たってると思うぜ」
キサラギが、ほんのわずかに笑った。
それは、銃の照準よりも正確に、相棒を信じている証だった。