タネナリア
サフィールの魔術はまだ、レイの思考を掻き乱していた。
だが――その次の瞬間。
紫が剣を振り下ろす。
――ガッ。
地面ごと、波動が裂かれる。
斬撃はサフィールには届かない。けれど、レイの眼前に走った“衝撃”が、幻想を断ち切った。
振り返ると、紫がこちらを見ていた。
「――おい、変な感情、こっちに流し込んでくるな」
レイの肺が大きく膨らむ。
紫の声が、冷たい刃のように感情の波を切り裂いたのだ。
視界がクリアになる。鼓膜の揺れが収まり、脳内の“ノイズ”が消えていく。
(……落ち着け、今は戦闘中だ。考えろ)
レイは深く息を吐いた。感情を手放すように、呼吸と共に吐き出す。
紫の動きに“感覚”で追いつくのではなく、“論理”で予測し、ついていく。
――冷静さのスイッチが入った。
そして、その目が“違和感”を捉える。
サフィール。彼女の魔術に集中してみると、いくつかの要素が浮かび上がってくる。
(……魔力の流れが、後方から……?)
支援側であるはずの彼女の方が、魔力の源流として強く脈打っている。
本来なら、支援術者がここまで“痛みに共鳴する”のは非効率だ。
だがサフィールは、マリエがかすり傷を負っただけでも明確に顔を歪めていた。
(それに――あれ)
マリエが一瞬、攻撃の手を止め、わずかにサフィールを振り返った。
まるで“指示を仰ぐ”ような、そんな仕草。
(……主従が逆じゃないか?)
結びつく。
判断の速さ、会話の主導、魔術の中心設計――すべて、サフィールが握っている。
その瞬間、レイの瞳が鋭く光った。
「紫……もしかして、“本体”は――」
言いかけたそのとき、マリエが再び切りかかる。
だが、レイの体はもう遅れを見せなかった。
フィールドに静寂が戻る。
否、“共鳴”の波が遮断されたのだ。
紫は、もはや声をかけない。
レイも、問いかけない。
言葉も、気配も、感情も――
すべてを断ち切ったかのように、冷たく剣の柄を持ち直す。
紫の踏み込み。
レイはその動きに反応するのではなく、“解析する”。
(次は、左から切り上げ……足運びは逆斜面を避けるはず)
レイの身体が、理論に従って動く。
まるで、紫の意図を“先読み”しているかのように。
――共鳴はない。
だがそこにあるのは、“共感のない連携”。
それが、サフィールの術式を狂わせた。
「……え……?」
サフィールの瞳が揺れる。
干渉が、滑っていく。水をすくったはずの指先が空を切るように。
「なんで……届かないの……?」
彼女の感情の波が、ただの空振りと化した。
紫もレイも、そこに“感情”を介在させていない。
サポートを失ったマリエの動きが、わずかに鈍る。
波動の太刀は健在だが、次第に流れが乱れ始めた。
レイは迷いなく踏み込む。
(あと三手……四手目で崩れる)
そして、その“確信”がマリエを追い詰めた――
「……やめて、サフィール……っ!」
サフィールの力が、感情が、逆流する。
「やだ……やだ、やだ……っ!」
魔力が暴走し、防御陣がはじけ飛ぶ。
フィールド全体に、水の結界が軋むような音を立てて崩れる。
歯止めの利かなくなったその力はお互いの感情も痛みも何倍にも膨らませた
(今だ――)
紫が、静かに一歩踏み込んだ。
その刃は、サフィールへと向かう。
***
――サフィールは、褐色の肌を陽光のように輝かせ、笑っていた。
教室でも広場でも、彼女はいつも「明るく、楽しげな子」として振る舞っていた。
女だけの園。
微細な気配すら鋭く察知される、タネナリア王国の少女たちの空間。
胸元には、皆が一粒ずつ真珠をぶら下げている。
誰かが一人いなくなれば、その子の話題で空気がにごる。
誰かの靴が汚れていれば、誰かの笑い声が鋭くなる。
サフィールは、それが苦手だった。
その場に合わせて笑うこと。表情を作ること。
何より、“自分”を演じ続けることが。
(なにが、おもしろいんだろう)
皆がただの空気に笑う。
そんな日常を破ったのは、小さな、小さな真珠の塊だった。
それは、ある朝、突然、私の隣に現れた。
同じ形をした、自分の“生き写し”。
優しくて、明るくて、どこまでも穏やかで。
なぜか、サフィールの心を先回りして癒してくれる存在だった。
「サフィールは優しすぎるんだよ」
「私はずっと一緒にいる」
マリエは、私によく似た顔で、笑いかけてくる。
まるで同じ腹から生まれた、本物の妹のような顔で。
マリエには、本音を言えた。弱音を吐けた。
マリエといるときだけ、サフィールは“本当の自分”でいられた。
けれど――それと同時に、恐ろしい思いも芽生えた。
(なんで……私と同じじゃないの……?)
誰からも好かれ、誰にも嫌われず、堂々と笑っていられるマリエ。
“分身”のはずの彼女に、自分がどんどん飲まれていく気がした。
(違う。そんなはず、ない)
そう何度も、自分に言い聞かせた。
――ある日。洗面所の鏡の前で。
冷たい水で顔を洗い、ふと見上げた自分の顔。
鋭いまなざしで、自分の瞳を見る。
頬を伝う水滴が、やけに冷たかった。
それが、誰なのか――もう、分からなくなっていた。
***
紫の刃が、その渦の只中へ向かう。
だが――マリエの身体が、紫よりも先にその間に割って入った。
「……もういいよ、サフィール」
マリエはそのまま、暴走する魔法陣の中心部に手を伸ばした。
音もなく、結界が砕ける。
サフィールの魔術核が、光の粒になって崩れていく。
マリエの手は、その細い肩をそっと抱きしめていた。
「私はサフィールが一番大事なの、周りなんてどうでもいい。サフィールがすべて捨ててどこかに行こうって言ったら私はどこまでもついていく」
サフィールが、小さく息を呑む。
「私は、サフィールのタネナリアだから」
魔力が静まっていく。
揺れていた水が、空気に溶けるように消えていった。
紫は無言で剣を納める。
「……“一心同体”ってさ、きっと一番遠い関係だと思う」
誰に言うでもなく、レイがぽつりとつぶやく。
「…呪いなんだよ」
その言葉のあと、レイはほんの少しだけ視線を遠くにやった。
――その先に、アサヒの顔を、無意識に思い浮かべていた。
「……なるほどな」
紫が静かに応える。
それは確かに届いた声だったけれど、レイには――まるで夢の中の音のように、かすかにしか聞こえなかった。
そして、観客席から、ようやく小さな拍手がこぼれ始めた。