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ある日、勇者の剣を抜いた。  作者: N.ゆうり
第九章 ゼフェリカの黙示録
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思考と感情と身体の使い方

 紫は、無風の中に立つ一本の剣のようだった。

 まるで「感情」という概念が存在しないかのように、冷え切った集中が全身を包んでいる。

 敵は、すでに動いていた。

「――来る」

 レイが反射的に声を上げるより早く、水が斬れた。

 マリエの太刀が、大気を裂いた。滑るような踏み込みと、波打つような剣閃。まるで潮流に沿うような太刀筋――それはタネナリア王国に伝わる水剣術《潮斬》。

 紫は即座に受け流す。だが、その斬撃には“波動”が乗っている。ただ逸らすだけでは、身体の芯にまで重さが響く。

「支援、来るぞ」

 短く告げた紫の声に、レイは遅れて視線を巡らせた。

 後方――サフィールが両の手を胸元で組んでいる。おとなしげな顔に浮かぶのは、しかし確かな意志の光だった。

「……強化」

 音もなく魔法陣が開いた。マリエの身体を水膜が包み、動きの軌跡に淡い光が生まれる。支援魔術――速度と斬撃強度を増す感応の加護。

 そして――

「……情動の波」

 サフィールの囁きとともに、フィールド全体の空気が変わった。

 まるで、水の中に沈んだような感覚。

 視界が、鼓膜が、体温が――揺れる。

 観客席ですら息を呑み、結界に薄く波紋が広がる。

 全域に展開されたのは、サフィールの魔術《情動の波》。

 大気のすべてが、感情の“波”として振動する。心に触れ、記憶に揺さぶりをかける、精神干渉系の領域術だった。

「っ……!」

 レイの足が、一歩、遅れた。

 理由はわかっていた。怖いわけじゃない。――けれど、心拍が速すぎる。身体が重い。

 それだけではなかった。

 動いていないはずなのに、視界に紫の動きの感覚が流れ込んできた。

 強く踏み込む足の重さ。斬り抜ける際の軌道の鋭さ。皮膚をかすめた剣圧。

 他人の動きが、まるで自分の体験のように押し寄せる。

(……くそ、思考が混線してる)

 思考が、混線する。呼吸が、乱れる。

 紫は無言で次の斬撃を受け流していたが、そこにレイの体は追いつけない。

 自分の思考とは裏腹に、異物のような“他人の感覚”が脳内をかき乱していく。

 ――それは、まるで自分だけが浅瀬で足を取られているようだった。

 マリエとサフィールは美しく連携していた。

 無言のまま通じ合い、攻防の流れが一糸乱れず滑らかに続く。

 それに対して、紫と自分はまだ“呼吸が合っていない”。

(……違う、合わせる)

 レイは必死に、自分の呼吸に意識を向けた。

 だがその隙を、サフィールは逃さなかった。

「……もう少し、素直になればいいのに」

 それは声というより、耳の奥に直接届いた感情の囁きだった。

(今の……誰の声?)

 まるで心の内側をなぞるように、響いてくる。

 《情動の波》は、ただ外側から揺らすだけの魔術ではない。

 触れてくるのは、心の奥――

 崩されるのは、まず“心”。

***

 スタジアムの一角、ユルザ代表の控え席。

 キサラギたちは、フィールドを見つめていた。

「……なんだ、あれも双子か?」

 焔羅がモニターを睨みながら言った。

「違う。“タネナリア”だ」

 キサラギが端末を操作しながら答える。

「タネナリア王国では、生まれた子どもに“真珠”を与えられる。成長とともにそれが変化して――“自分の分身”になる」

「真珠が人になるってことかよ……」

 焔羅が面食らったように言う。

「“真珠霊”と呼ばれる存在だ。精神も身体も、本体と半分ずつ共有される。だからあのふたりは、外見は双子のようでいて、“同一存在”でもある」

「……呪いみたいだね」

 アサヒがぽつりとつぶやいた。

「分身がダメージを受けると、感覚は本体に返る。痛みも、衝撃も。ただ、実体は無事なまま。逆に、本体を倒さなきゃ分身は消えない」

 キサラギの声は静かだったが、明確な警戒がにじんでいた。

「やっかいな相手だな……」

 焔羅は再び、紫とレイを見つめた。

***

 サフィールの瞳が、そっと揺れた。

「……もっと、見せて」

 その小さな声と同時に、空間に水面のような揺らぎが生まれる。

 魔法陣の紋が膨張し、足元から淡く水が湧きあがった。

 レイの周囲だけ、感情の“波”が渦を巻き始める。

 それは――彼の不安、焦り、怒り。

 《情動の波》が“感情共鳴”へと変質していた。

「っ……」

 レイの視界に、紫の背が浮かび上がる。

 それは“今”ではなかった。

 ――自分を振り返ることなく、どこまでも先を行く影。

 手を伸ばそうとしても、指先は届かない。

 重い足。遅れる呼吸。間に合わない直感。

 その背中が父の後ろ姿を思い出させる。そして、次第にアサヒの後ろ姿に変わる。

(また、置いていかれる……?)

 いつか見た、父の背中。

 並ぼうとしても、遠ざかっていくアサヒの背。

 結局、自分には何もない。届かない。

 そう思った瞬間、レイの足が止まった。


***

 ユルザ代表控え席――

「……止まった」

 アサヒが不安げに声を漏らす。

 焔羅が腕を組みながら目を細める。

「感情、吸われてんな。動けなくなってる」

 兆が低くつぶやく。

「……お前らのとこにも、来たか?」

「ん?」

 焔羅が片眉を上げる。

「昨日の夜、急に“手合わせしてください”って」

 兆が表情を揺らさずに言った。

「ああ。レイか。俺んとこにも来たぜ。剣の動き見たいって」

 焔羅が肩をすくめる。

「俺のとこにも来た」

 キサラギが短く息を吐く。

「……ガキなりに、“何か”掴みたかったんだろう。考える材料が欲しかったのかもな」

 キサラギの言葉に一瞬周りが静かになる。

「……あいつは、たぶん大丈夫だろ」

 そんな中、兆の声が響いた。

 たくさんの視線の中。

 レイの肩が、僅かに揺れる。

***

 トーナメント前夜。

 訓練場の裏手。照明も少ない、夜の試験場。

 紫は片手で剣を担ぎ、レイの申し出を無言で受け入れた。

 だが、その剣は一度としてレイを捉えずとも、“完全に届いていた”。

「はっ……はっ……!」

 レイの息は荒く、肩で呼吸していた。

 動けない。反応できない。頭は回っているはずなのに、体が追いつかない。

「……紫は、判断も思考も、冷静にできる」

「……」

「なのに……なんで、そんな速く動けるの…身体が思考についてくるの…」

 紫はほんの少し目を伏せた。

「……まぁ、その辺は人並み以上にはあるかもな」

 言いながら、剣を鞘に収める。

「でも私は、どっか……ぶっ壊れてるんだよ」

 紫は、どこか他人事のように言った。

「……ぶっ壊れてる?」

「ああ。ネジが一本、どっか飛んでる」

 その声音は穏やかだったが、どこか遠い。

 まるで“自分を大事にしていない”者の語り方。

「だからな、私の真似はやめとけ。無理だし、する意味もない」

 レイは静かなその声色を受け取る。

「……うん」

「お前は、お前の強さを考えろ。判断しろ。私はその時間を稼いでやる」

 無表情な顔の中にふと笑みのようなものを浮かべた。

「お前の“頭の中”のやりたいこと。叶えてやる自信はある」

 紫はレイの頭に、そっと手を置いた。

 それは、祈りのようで。

 ――願いのようだった。

 まるで“こっち側”に来るなと言わんばかりに。

 レイは少し照れくさそうに紫の手を頭からどける。

「……さすが隊長クラス」

「……うるせぇ」

 何となく普段紫に対して、おちゃらけてかわす焔羅の気持ちがわかった気がした。


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