思考と感情と身体の使い方
紫は、無風の中に立つ一本の剣のようだった。
まるで「感情」という概念が存在しないかのように、冷え切った集中が全身を包んでいる。
敵は、すでに動いていた。
「――来る」
レイが反射的に声を上げるより早く、水が斬れた。
マリエの太刀が、大気を裂いた。滑るような踏み込みと、波打つような剣閃。まるで潮流に沿うような太刀筋――それはタネナリア王国に伝わる水剣術《潮斬》。
紫は即座に受け流す。だが、その斬撃には“波動”が乗っている。ただ逸らすだけでは、身体の芯にまで重さが響く。
「支援、来るぞ」
短く告げた紫の声に、レイは遅れて視線を巡らせた。
後方――サフィールが両の手を胸元で組んでいる。おとなしげな顔に浮かぶのは、しかし確かな意志の光だった。
「……強化」
音もなく魔法陣が開いた。マリエの身体を水膜が包み、動きの軌跡に淡い光が生まれる。支援魔術――速度と斬撃強度を増す感応の加護。
そして――
「……情動の波」
サフィールの囁きとともに、フィールド全体の空気が変わった。
まるで、水の中に沈んだような感覚。
視界が、鼓膜が、体温が――揺れる。
観客席ですら息を呑み、結界に薄く波紋が広がる。
全域に展開されたのは、サフィールの魔術《情動の波》。
大気のすべてが、感情の“波”として振動する。心に触れ、記憶に揺さぶりをかける、精神干渉系の領域術だった。
「っ……!」
レイの足が、一歩、遅れた。
理由はわかっていた。怖いわけじゃない。――けれど、心拍が速すぎる。身体が重い。
それだけではなかった。
動いていないはずなのに、視界に紫の動きの感覚が流れ込んできた。
強く踏み込む足の重さ。斬り抜ける際の軌道の鋭さ。皮膚をかすめた剣圧。
他人の動きが、まるで自分の体験のように押し寄せる。
(……くそ、思考が混線してる)
思考が、混線する。呼吸が、乱れる。
紫は無言で次の斬撃を受け流していたが、そこにレイの体は追いつけない。
自分の思考とは裏腹に、異物のような“他人の感覚”が脳内をかき乱していく。
――それは、まるで自分だけが浅瀬で足を取られているようだった。
マリエとサフィールは美しく連携していた。
無言のまま通じ合い、攻防の流れが一糸乱れず滑らかに続く。
それに対して、紫と自分はまだ“呼吸が合っていない”。
(……違う、合わせる)
レイは必死に、自分の呼吸に意識を向けた。
だがその隙を、サフィールは逃さなかった。
「……もう少し、素直になればいいのに」
それは声というより、耳の奥に直接届いた感情の囁きだった。
(今の……誰の声?)
まるで心の内側をなぞるように、響いてくる。
《情動の波》は、ただ外側から揺らすだけの魔術ではない。
触れてくるのは、心の奥――
崩されるのは、まず“心”。
***
スタジアムの一角、ユルザ代表の控え席。
キサラギたちは、フィールドを見つめていた。
「……なんだ、あれも双子か?」
焔羅がモニターを睨みながら言った。
「違う。“タネナリア”だ」
キサラギが端末を操作しながら答える。
「タネナリア王国では、生まれた子どもに“真珠”を与えられる。成長とともにそれが変化して――“自分の分身”になる」
「真珠が人になるってことかよ……」
焔羅が面食らったように言う。
「“真珠霊”と呼ばれる存在だ。精神も身体も、本体と半分ずつ共有される。だからあのふたりは、外見は双子のようでいて、“同一存在”でもある」
「……呪いみたいだね」
アサヒがぽつりとつぶやいた。
「分身がダメージを受けると、感覚は本体に返る。痛みも、衝撃も。ただ、実体は無事なまま。逆に、本体を倒さなきゃ分身は消えない」
キサラギの声は静かだったが、明確な警戒がにじんでいた。
「やっかいな相手だな……」
焔羅は再び、紫とレイを見つめた。
***
サフィールの瞳が、そっと揺れた。
「……もっと、見せて」
その小さな声と同時に、空間に水面のような揺らぎが生まれる。
魔法陣の紋が膨張し、足元から淡く水が湧きあがった。
レイの周囲だけ、感情の“波”が渦を巻き始める。
それは――彼の不安、焦り、怒り。
《情動の波》が“感情共鳴”へと変質していた。
「っ……」
レイの視界に、紫の背が浮かび上がる。
それは“今”ではなかった。
――自分を振り返ることなく、どこまでも先を行く影。
手を伸ばそうとしても、指先は届かない。
重い足。遅れる呼吸。間に合わない直感。
その背中が父の後ろ姿を思い出させる。そして、次第にアサヒの後ろ姿に変わる。
(また、置いていかれる……?)
いつか見た、父の背中。
並ぼうとしても、遠ざかっていくアサヒの背。
結局、自分には何もない。届かない。
そう思った瞬間、レイの足が止まった。
***
ユルザ代表控え席――
「……止まった」
アサヒが不安げに声を漏らす。
焔羅が腕を組みながら目を細める。
「感情、吸われてんな。動けなくなってる」
兆が低くつぶやく。
「……お前らのとこにも、来たか?」
「ん?」
焔羅が片眉を上げる。
「昨日の夜、急に“手合わせしてください”って」
兆が表情を揺らさずに言った。
「ああ。レイか。俺んとこにも来たぜ。剣の動き見たいって」
焔羅が肩をすくめる。
「俺のとこにも来た」
キサラギが短く息を吐く。
「……ガキなりに、“何か”掴みたかったんだろう。考える材料が欲しかったのかもな」
キサラギの言葉に一瞬周りが静かになる。
「……あいつは、たぶん大丈夫だろ」
そんな中、兆の声が響いた。
たくさんの視線の中。
レイの肩が、僅かに揺れる。
***
トーナメント前夜。
訓練場の裏手。照明も少ない、夜の試験場。
紫は片手で剣を担ぎ、レイの申し出を無言で受け入れた。
だが、その剣は一度としてレイを捉えずとも、“完全に届いていた”。
「はっ……はっ……!」
レイの息は荒く、肩で呼吸していた。
動けない。反応できない。頭は回っているはずなのに、体が追いつかない。
「……紫は、判断も思考も、冷静にできる」
「……」
「なのに……なんで、そんな速く動けるの…身体が思考についてくるの…」
紫はほんの少し目を伏せた。
「……まぁ、その辺は人並み以上にはあるかもな」
言いながら、剣を鞘に収める。
「でも私は、どっか……ぶっ壊れてるんだよ」
紫は、どこか他人事のように言った。
「……ぶっ壊れてる?」
「ああ。ネジが一本、どっか飛んでる」
その声音は穏やかだったが、どこか遠い。
まるで“自分を大事にしていない”者の語り方。
「だからな、私の真似はやめとけ。無理だし、する意味もない」
レイは静かなその声色を受け取る。
「……うん」
「お前は、お前の強さを考えろ。判断しろ。私はその時間を稼いでやる」
無表情な顔の中にふと笑みのようなものを浮かべた。
「お前の“頭の中”のやりたいこと。叶えてやる自信はある」
紫はレイの頭に、そっと手を置いた。
それは、祈りのようで。
――願いのようだった。
まるで“こっち側”に来るなと言わんばかりに。
レイは少し照れくさそうに紫の手を頭からどける。
「……さすが隊長クラス」
「……うるせぇ」
何となく普段紫に対して、おちゃらけてかわす焔羅の気持ちがわかった気がした。