黒鉄の門
湿った空気の中、紫は足音を殺して移動していた。
崩れた監視塔の影を抜け、鉄骨の間を縫うようにして進む。
胸元の小型通信機が、低く震えた。
仲間からの信号――短く規則的なリズム。
(焔羅の合図。あいつは、取ったな)
紫は足を止めると、通信機に指を走らせ、光の粒を投影した。
地図のように浮かび上がる三次元座標。その一点が、赤く灯る。
――鍵:取得済。
続いて、別の地点にも淡い青の光が点る。兆とレイの位置だ。
(ふたりも……成功したか)
まるで地図にマーカーを打つように、ひとつずつ光が増えていく。
その光景を見ながら、紫の表情は変わらない。だが、心の奥で静かに計算は進んでいた。
(合流できるのはおそらく……あと二手分。焦る必要はないな)
その時だった。
風の向こう――血の匂い。
紫は息を殺して、瓦礫の上に身を伏せる。
見下ろす先、半壊したドーム状の施設の内部で、何かが蠢いていた。
暗がりの中、ひとつの鍵が光を放つ。
だが――それを手にした者の仕草が、異様だった。
骨のように細い指先が、鍵を握りしめて震える。
その周囲には、他の選手たちの身体が転がっていた。動かない。
中央に立っていたのは、ゼフェリカの選手と思しき女。
全身を黒の布で覆い、目元だけが覗いている。だがその瞳だけが、異様な興奮に濡れていた。
その女の足元に、鍵が血まみれで輝いていた。
(……あれが、ゼフェリカか)
肩口の紋章に紫は心の中で呟く。
彼女のその姿は、戦闘というよりも“儀式”に近かった。
(他国にどう思われても関係ないってことか……この先は“試合”じゃ済まねぇな)
紫はすぐにその場を離れた。
背後でまた、あの女が低く笑った気がして、紫は自然と眉をひそめる。
通信機に指を走らせ、新たな地点にマークを追加。
――鍵:取得済。
静かに、しかし確実に、光の点は集まりつつあった。
(集まってるな、地図も、鍵を手に入れた連中も)
視界に浮かぶマップの中央、脱出地点へのラインがぼんやりと浮かび上がる。
その光を見つめながら、紫はゆっくりと背を向けた。
「鍵はもう二つも手に入れてるし……そろそろ、“裏の仕事”するか」
***
風がざわつく谷間を、キサラギ達は一定の速度で駆けていた。
足音ひとつ残さず、靴底が濡れた岩をかすめる。
霧の向こう、わずかに開けた岩棚の上――《黒鉄の門》が姿を現す。
「これが……脱出口か」
焔羅は門に手をかざし、ゆっくりと息を吐いた。
だがその指が触れる前に、キサラギが制した。
「待て。まだ早い。全員そろわなきゃ意味がない」
「はあ? 来た奴から抜けていいシステムじゃないのかよ」
「全員門を抜けるのがルールだ。扉は一度しか開かない。時間は20分。――その後は、閉まる」
焔羅は口を尖らせたが、言い返せない。
キサラギはすでに小型端末を展開し、仲間たちの位置を確認していた。
(兆と双子はすでにこちらに向かっている。紫は……裏手の高台か。迂回ルートを取ったな)
小型端末の三つの点がキサラギ達の場所に重なる瞬間。
霧の中、複数の気配――
兆とレイ、アサヒが、ほぼ同時に門前に姿を現した。
「おお、来た来たー」
焔羅が手を振ると、アサヒが駆け寄ってきた。
「まだ紫が来ていない」
「でももう開けちゃえば――」
「言ったはずだ。“全員そろわなきゃ意味がない”」
短く、鋭い声音。
兆が歯を食いしばるが、次の瞬間、通信機が低く震えた。
※……ピ、ピィィ……※
紫からの合図。接近中。
キサラギは口元だけで、わずかに笑った。
「……間に合うな」
そのとき、背後の岩陰から不穏な気配――
その「気配」は、味方ではなかった。
門の正面、瓦礫を越えて現れたのは、かの〈ラウ=ミディア帝国〉の王女――ミィナ。
絢爛な礼装に身を包み、傍らには無言の近衛騎士〈ファーニス〉が付き従う。
「ねぇ、せっかくだし、あなたたち“鍵”を置いていかない?」
甘やかな声。その響きが耳に触れた瞬間、アサヒがほんのわずか、瞳を揺らした。
焔羅がすかさずその襟首を引っ張って引き戻す。
「……うちの子たぶらかさないでくれない?」
「なんだ、この匂い……魔力か?」
レイのつぶやき。あたりに立ち込める魔力をまとった甘い匂いに顔をしかめる。
「……くせぇ」
兆も鼻を抑える。どうやら鼻のきく兆には堪えるようで、瞳の焦点が合っていない。
「ひどーい、そんな顔するなんて。いいにおいでしょ?」
匂いと呼応するかのように、頭に響く声。
「……お互い鍵は保有してるはずだ。奪っても意味ないだろう」
キサラギの問いかけに、ミィナは頬に指を添えてくすりと笑った。
「だって、敵は少ない方がいいじゃない?」
次の瞬間、ファーニスが動いた。
重装の音が響く。獣のような踏み込み――キサラギがファーニスの重たい大剣をかわす。
「アサヒ、レイ、焔羅――今のうちに門を開けろ」
「紫がまだ来てない!」
アサヒの言葉にキサラギが答える。
「紫が来れば、突破できる」
「でも!――っ」
「信じろ、来る」
会話をする暇もなくファーニスは再び剣を振りかぶる。
キサラギは冷静に攻防を繰り返していたが、目の奥に鈍い光が差す。
(……まずい、あの匂いは感覚を狂わせる。兆は匂いにやられてるし、俺も判断力が落ちてる)
大剣の重みに身体をはじかれそうになった瞬間。
――ガン、と。
金属を叩くような高い音。
ファーニスの剣を、横からの一撃が弾いた。
「…待たせた」
霧の帳を蹴破るように、紫が現れた。
その背に大剣。
冷えた空気すら切り裂くような眼差し。
ひと目で全員が、状況の“変化”を悟った。
「紫……!」
アサヒが小さく叫ぶ。
「開けろ。今しかねぇ!」
焔羅がカギを差し込み、ナイフでパネルを操作する、アサヒとレイが両側から重たい門を押す。
――ガンッ。
《黒鉄の門》が重々しく開き始めた。
その向こう、確かに“光”が見えた。
「走れ!!」
焔羅の声に、全員が駆ける。
紫とキサラギはファーニスの攻撃を受け流しながら、最後に背を向けて一気に跳んだ。
直後、重い音と共に門が閉まる。
背後、ミィナがふくれっ面でつぶやいた。
「つまんな~い。でも、またすぐ会えるわよね?」
閉じた扉の前に、薄く広がる霧が残った。