遠い神より近くの旧友
呼吸が荒い。
焔羅は息を殺し、ナイフを握り直した。一歩、また一歩と間合いを詰める。
だが、敵は逃げなかった。まるで抱きしめるように両手を広げ、無垢に微笑む。
「ありがとう。これで、もっと強くなれる」
あまりにも澄んだ声に、焔羅は舌打ちした。
「……クソが」
攻撃を“祝福”に変える能力。痛みを糧に、強さを増す男。 刻めば刻むほど、こいつは完成していく。
(殺しちまえば終わる。だが……)
ここはユルザの地。今、命を奪えば、焔羅の立場も、信用も、すべて潰れる。
殺さず止める――それが“ルール”。
「神が与えた痛み……あなたから受け取れて、嬉しいよ」
スールの掌に浮かぶ紅の紋様が、まばゆく光を放つ。
――次の瞬間、爆ぜる地面。吹き荒れる風。瓦礫が雨のように舞った。
「……面倒なタイプだな」
焔羅は目を細め、構えを低くする。
白布が揺れ、スールが歩み寄る。迷いのない、真っ直ぐな歩調。
正面から来る。 なら――正面から斬るしかない。
ナイフを振るい、拳を交える。 かすめただけの拳が熱を帯びて、腕に鈍い痺れを残す。
流す、躱す、斬る――が、斬るたびに、相手は洗練されていく。
(……ダメだ。手加減じゃ止まらねぇ)
その刹那、背後から冷ややかな声が届く。
「下がれ、焔羅」
焔羅の口元が緩む。
「……遅ぇって」
瞬間、キサラギの一閃。
スールの動きが止まる。反応する前に、顎を撃ち抜かれていた。
スールが後退し、地を蹴って距離を取る。焔羅は肩で息をしながら言った。
「……手加減してたら育つ相手だ。バランス、取れなかった」
「見てた」
「えー、じゃあ早く助けてよ」
キサラギは応じず、刀を構えたまま言った。
「――もう少し、やってみろ、帳尻はあわせる」
焔羅はニヤリと笑い、ナイフを握り直す。
「……了解」
二人の言葉は短く、だが信頼は深い。
焔羅が再び踏み込む。拳がスールの頬をかすめ、血がにじむ。だが――
「二人増えたところで、祝福が増えるだけだよ」
スールはうっとりと呟き、再び光が身体を包む。
痛みが力となり、再び彼の能力は跳ね上がった。
(……攻撃すればするほど強くなる。手加減じゃ無理。なら――)
焔羅は拳を止め、数歩、距離を取る。
「どうした? もう終わりか?」
スールが挑発する。焔羅は、鼻で笑った。
「――“自分の力が正義”だって思ってんだろ?」
「当然だ。痛みは祝福。神の意志だ。弱き者を導く力」
「……じゃあ、導いてみろよ。制御できるならな!」
焔羅は腕を広げ、煽るように挑発する。
「そんな力、上手く付き合える奴なんて、一人しか知らねぇけどな」
紫の姿が脳裏をよぎる。その言葉に、スールの瞳が揺れた――
次の瞬間、スールの身体が膨張する。血管が浮かび、骨の軋む音が響いた。
「やめろ……それ以上は――」
だが、もう止まらない。
「――今だ」
キサラギの声と同時に、影が走る。
無音で背後に現れ、細剣がスールの神経束を正確に捉える。
「“神の導き”とか言ってたな」
刃が首筋に触れた瞬間――スールの意識が、途切れた。
全身の光が消え、力の暴走が止まる。彼はゆっくりと地に崩れ落ちた。
そしてキサラギは、冷たく言い放った。
「――じゃあ、せいぜい神に文句言え」
焔羅はナイフを収め、肩を竦めた。
「……神より近い人間のが信じれちゃうよねぇ」
***
風が鳴いていた。
紫は、相手の少女の構えを見て一歩だけ踏み出す。
鋭く光る紫の眼光に、少女の喉がひくりと鳴った。
細身の刀を構え、紫が無言のままに詰め寄る。
重い空気のなかで、一合。少女は必死に応じた。だが――
(惜しい。あと一歩、殺意が足りねぇ)
殺さず、勝つ。それは理屈ではない、技術でもない。気迫の均衡がすべてだ。
紫の眼が閃く。その刹那、少女は怯み、足元が揺れる。
彼女の手から、鍵が滑り落ちた。
金属の音が、やけに静かに響いた。
「ッ……!」
少女の顔がこわばる。鍵を失えば、予選すら通過できない。
補欠など存在しないこの大会で、それは――“処分”に等しい。
紫は、無表情のまま、落ちた鍵を見た。
遠く、高台の上で、何かが光った。焔羅か、キサラギか。どちらかが“鍵”を取った合図。
(……なら、こっちはもう、必要ねぇな)
視線を少女に戻す。涙をこらえて拳銃を握る、その姿を見下ろし、紫は静かに言った。
「一個あれば、十分みたいだからな」
その言葉と共に、鍵を少女の足元に転がした。
少女の目が、見開かれる。
困惑、驚き、戸惑い、そして――どこか、わずかな希望。
「……次までに、もっとマシな“気”を持っとけ」
それだけ言い残し、紫は背を向ける。
少女は、その背を見つめたまま、拾った鍵を胸元に抱きしめた。