アサヒ
ある日、僕は――勇者の剣を抜いた。
手の甲に埋め込まれた石が、月の光を鈍く弾く夜だった。
石の台座に突き刺さった、少しみすぼらしい剣は――あっけないほど、すんなりと抜けた。
村はずれの丘の上。十三歳になった子どもが、順に剣を抜く風習があった。
誰もが“勇者”の再来を信じていた。口ではそう言いながら、心のどこかでは――あり得ないと思っていた。
僕も、そう思っていた。
それが、あの夜。
金属の冷たさが、確かに手のひらに残った。
現実感のないまま、歓声だけが上がった。
その中で、兄の顔が見えた。
――ひどく、悲しそうに歪んでいた。
心のどこかが凍りついた。
何かを、してしまったのだと、直感的にわかった。
安堵と戸惑いと、自分自身への不信が、波のように押し寄せてきた。
***
疫病が村に広がってから、季節が一つ、巡った。
咳の音は減らず、医者も姿を消し、外から人が来ることもなくなった。看病する者すらいなくなった家々に、僕は夜ごと抜け出した。
冷えた空気のなか、咳の聞こえる家をノックしてまわった。扉は開かない。そっと開けて中に入ると、もう立つこともできない老人が横たわっていた。
体温を測り、水を含ませ、額に手を当てる。
十三歳の手は、小さくて力もなかった。
「きっと大丈夫だよ」
――それは、患者にも、自分にも向けた言葉だった。
***
朝日が昇る前、僕はこっそり家に戻る。
鍵の開いた窓から忍び込み、兄のベッドの隣に潜り込むと、ようやく呼吸が落ち着いた。
母は朝六時に部屋へ来る。そして、いつものように僕に言った。
「アサヒ、外に出ちゃだめよ。要領の悪いあなたが外に出たら、迷惑がかかるわ」
「この村では、ちゃんとしないとダメなの。わかるでしょ?」
兄は、母の言葉も、僕の顔も見ない。ただ壁を見つめていた。まるで、“儀式”が過ぎるのを待つように。
疫病が流行り始めてから、玄関には鍵がかけられた。僕だけが、家の外に出ることを禁じられた。兄――レイは違った。買い物、家事、問題集。すべて兄の役目だった。
「レイは頭のいい子ね。きっと将来はお医者さんね」
「あなた“だけ”が頼りだわ」
そんな母の言葉を、兄は無言で受け止める。
そして、夜になると――窓の鍵を、そっと開けてくれるのだった。
助けられた人は少なかった。
でも、何もしないではいられなかった。
母は僕のことを「ダメな子」だと言う。
そして、必ずこう続ける。
「だから、無理はしなくていいのよ。あなたは見ているだけでいいの」
――その言葉の優しさが、檻のように感じた。
***
剣を抜いたあの夜。
家に戻っても、心臓の音が耳に残っていた。
あんな古びた剣が、勇者の剣だなんて。
「……母さんには?」
「……まだ」
母は儀式には来なかった。
祈りも神も――信じていない人だった。
兄はすぐに気づいた。剣の柄についた泥、僕の震え。
「今日はもう寝よう」
そう促されてベッドに潜る。
「……大丈夫だ。お前だけには、背負わせない」
その声は低く、静かだった。
僕は答えられず、抜いた剣の感触が残る手を、握りしめていた。
***
朝になり、母が部屋に入ってきた。
床にくるまれた剣を見て、足が止まる。
沈黙。しばらくして、いつもと変わらぬ声で言った。
「これ、どこで拾ったの?」
「……抜いたんだ。昨晩」
「そう……」
母は微笑んだ。
けれど、その笑みは、目の奥に届いていなかった。
「それ、本当にあなたが抜いたの?」
「うん」
「何かの間違いじゃない?……ねぇ、本当は誰かが用意したんじゃないの?」
胸の奥が、ひどく冷めていくのを感じた。褒められるとは思っていなかったが――否定されるとも思っていなかった。
いや心のどこかではもしかしたら気づいていたのかもしれない。
「あなたには抜けるわけがないわ」
扉の前には、兄が立っていた。
水のコップを手にしたまま、何も言わない。
母は気づきながらも、僕にだけ語りかける。
「お母さん、心配なのよ。あなたが変な誤解をされないかって」
多くは望んでいるつもりはなかった。ただ一つだけ願いがあった。
「……僕は、病気の人を治したい」
その言葉に、母の眉がわずかに動いた。けれどすぐに戻った。
「あなたみたいな子が何かをしたら、とても迷惑だわ」
たった一つの願いはただのわがままになった。
***
その夜、レイがベッドから話しかけてきた。
剣を見つめながら、静かに言った。
「……大丈夫か」
僕は答えられなかった。
それでも兄は、そっと続けた。
「無理は、しないでくれ」