星の境界線③
「クレープ食べたい」
「カラオケ行こう」
高校生の放課後を象徴する言葉が教室を飛び交う。
蒼空を見ると周りには人が集まっていた。
いつもの光景だが、いつものように悲しくなる。
親友や好きな人が人気者で、自分はその人以外に親しい人がいない場合、劣等感に苛まれる。
何より厄介なのが、劣等感という悪魔は嫉妬という手土産を持って心に居住する。
そしてその嫉妬は心を醜くする。
今も蒼空の周りの人間が消えてほしいと願っていた。
この感情は蒼空にも言えない。
きっと悲しませてしまうだろうから。
「蒼空」
富田雪乃が、蒼空に声をかけた。
人を惹きつけるような彼女の笑顔は、周りの男子たちの視線を集めている。
「このあとボーリング行くんだけど、どう?」
放課後に遊びに誘う。
高校生にとっては普通の会話だが、私からしたら黒魔術の呪文に等しい。
迷っている蒼空に断ってくれと祈りつつ、二人が話しているところを見るのは耐え難かったので教室を出た。
一日の中で感情の起伏が激しい。
準ぼっちの宿命なのだろうけど、その差で傷も深くなる。
この世界の残酷なところは、一人の力では幸福を手にできなことだ。
享受し続けなければ、楽しむことも、笑うこともできない。
一人とは無力。
十七歳で痛感する現実が、心に残る傷をなぞるようだった。
下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、女子二人の会話が聞こえてきた。
「蒼空くんと雪乃ちゃんて付き合ってるの?」
不快な音が耳に張り付き、胸がざわつく。
「付き合ってはないみたい」
「でもお似合いだよね」
「わかる! 付き合っちゃえばいいのに」
わかるなバカ。全然似合ってないだろう。
みんなから優しいと言われるクラスの人気者同士。
勉強もでき、おまけに二人とも容姿が良い。
清潔さと気品、爽やかさも兼ね備えていて、大人からの評判も良い。
だけどそれぐらいしか共通点はない。
これのどこがお似合いなのかが分からない。
幼馴染というエクスカリバーを携える私の方が、圧倒的にお似合いだ。
二人はまだ、蒼空と富田雪乃の話をしている。
これ以上騒音を聞きたくなかったので、早急に昇降口を出た。
*
駅のホームで電車を待っていると、学校帰りの生徒たちがアニメや好きな音楽の話をしている。
自分の知ってる話題になったとき、羨望と笑い声に対する嫌悪が混ざり合い、言葉にできない感情のグラデーションができあがる。
そんなときは一人で帰っている生徒を探す。
相手からしたら迷惑な話だが、見つけると少し安心する。
一人でいるが一人じゃない。
そう思えるのだ。
改札の方から楽しそうに話す声が聞こえてきた。
目を向けると、富田雪乃と数名の生徒がおり、集団の中央には蒼空の姿があった。
この駅は改札を入るとすぐにホームになっている。
私は反対ホームに繋がる階段のすぐ側にいた。
そして彼女らはこちらに向かってくる。
なので咄嗟にホームの柱に身を隠した。
別に隠れる必要はないのだが、なんとなく一人でいるところを見られたくなかった。
蒼空はこのあとボーリングに行くのだろう。
全部ガーターになって、恥をかいて、トラウマになって、一生ボーリングに行けない体になってしまえ。
醜い祈りをしていたら、楽しそうな声は階段を上がっていった。
自然と息を止めていたのか、安心したように大きく息を吐く。
「何で隠れたの?」
急に声をかけられ、肩がビクッとなる。
ゆっくり振り向くと、視界に蒼空が映った。
「ボーリングは?」
「行こうと思ったけど辞めた」
タップダンスしたい。
「そ、そうなんだ。ふーん」
めっちゃ嬉しい。今なら鼻の穴にスイカをぶち込まれても笑顔で許せる。
「何で隠れたの?」
見られていた。高揚感が羞恥に変わり、顔に紅葉を散らせる。
「別に隠れてないよ。この柱の構造が気になっただけ。いやー、良い柱だ」
いくつかある言い訳の中から最悪のチョイスをした。
この言い訳を成立させるためには、父親が柱職人で、幼い頃から仕事を見てきたという設定がなければいけない。
今からでもいい、父よ柱職人になれ。
「どこらへんが良い柱なの?」
なぜ話を広げるんだ。「へー、そうなんだ」で終われ。「へー、そうなんだ」はそのためにあるんだよ。
脳をフル回転させ、柱の良いところを探した。その結果、
「駅を支えてますよという、使命感を感じる」
何を言っているんだ私。
嘘に嘘を重ねた結果、メルヘン女になってしまった。
このままいったら、柱と会話しそうだ。
「ふーん」
蒼空は全部分かっているよ、という目でこちらを見てきた。
「確かにいい柱かも。支えてる感じがする」
嘲るように言ってきた。
なんかムカいたので蒼空を睨んでいると、頭にポンと手を置かれる。
蒼空は私の過去を知っている。
なぜ人を嫌いになったのか、なぜ人と関われなくなったのか。
それらすべてを含めて、『無理に嘘はつかなくていいよ、分かってるから』そんな意味のこもった優しさを頭に置かれた。
なので、分かったという意味を込め「うん」と返事をする。
それに対し蒼空も「うん」と返してくる。
他人から見たら意味のわからない会話だが、私たちだけはその意味を知っていた。
*
家の近くに海を一望できる場所がある。
岬の高台にある公園で、春になると河津桜で景色を染め、夜は空一面に広がる星の群れが彩りを加える。
私が一番好きな場所だ。
電車の中で「久しぶりに行こう」ということになり、蒼空と二人で岬公園にやってきた。
公園の奥にある展望広場まで来ると、夕陽が出迎えてくれた。
私たちは柵の前に設置されたベンチに座り、海と空を眺める。
視界に広がるのは、空を心地よく酔わせるカクテルのような青とオレンジのグラデーション。
瞼を閉じるように水平線に沈みゆく夕陽を、凪いだ海が優しく抱き寄せている。
日中は残暑のせいで少し暑かったが、今は秋らしい涼しさが肌を撫でていた。
「綺麗だね」
「うん、綺麗」
本当に綺麗なものを視界に映したときは、修飾語は必要ないのかもしれない。
目に映る景色が『綺麗』という言葉を飾ってくれるからだ。
「ここに来ると嫌なことを忘れられる。世界の片隅にいる私に、広い世界を見せてくれるから」
照らす夕陽がスポットライトのように感じた。
まるで物語の主人公みたいで、泡沫の希望を持たせてくれる。
「美月もここに来ると、同じようなこと言ってた」
美月ちゃんは蒼空の妹で今年から中学に上がった。
数少ない私を慕ってくれる人間だ。
「なあ千星、今も人と関わるのは嫌だ?」
その質問で過去の傷が疼いた。
他人と関わらなくなったは、そのほうが自分を守れるからだ。
あの日から他人に境界線を引いて、この傷を守り続けてきた。
たぶんこれからもずっと……
「関わる必要ある? 自分のことを分かってくれる人だけいればいい」
それ以外の人は消えればいい――
たまにそう思うことがある。
そして、そんな醜い思考に支配されていく自分に嫌悪を抱く。
「無理に関わる必要はないけど、頭の片隅に置いといてほしい」
蒼空は夕日に視線を向けながら話を続ける。
「心に抱えているもので世界の映り方が変わる。同じものを見ていても、誰かにとっては美しく、他の誰かにとっては苦しめるものになる。だから自分と向き合うことが大事だと思うんだ。外に目線を向けるだけでは、自分の中にあるものを変えられないから。周りからの影響で受けたものはそう簡単に剥がせるものではないけど、でも変えようとすることはできると思う」
――このままではダメだよ
人間嫌いの私に対し、遠回しに、傷つけないように、無理をさせないように伝えたんだと思う。
だけどその言葉は、私を突き放すようで心が痛んだ。
「帰るか」
蒼空は背中に夕陽を浴びながら、出口に向かっていく。
その光が、蒼空を遠くに連れていくようで胸が苦しくなった。
*
晩御飯は味気なかった。父と弟はテレビに視線を向け、カレーを口に運ぶ。
母と私は食べることだけに集中していた。
特に会話という会話はないが、仲が悪いというわけでもない。
弟は小学校四年だ。少しだけ歳が離れている。
可愛いと思うときもあれば、生意気だと思うときもある。家ではそんなに話すことはない。
まだ私が弟と同じ歳のときは、よく食卓で学校のことを話していた。
だけどあの出来事以来、家族に学校のことを話せなくなり、それから自然と会話が減ってしまった。
親も私に話を聞いてこない。
もしかしたら、反抗期と思っているのかもしれない。
テレビに目をやると、再起した経営者の物語をドラマ仕立てで紹介していた。
その人は貧困の家庭で生まれたそうだ。
幼い頃は虐待され、学校ではいじめに合い、友達は一人もいなかったらしい。
そこから努力して、今の成功を掴んだと話していた。
普通なら『自分も頑張ろう』となるのだろうが、今の私は捻くれた見方をしてしまう。
平凡な家庭で生まれ、仲の良い幼馴染もいる。
完全な孤独でもない私は、愚痴すら言ってはいけないのではと感じた。
この人に比べれば、私の悩みなんて『それくらいのことで』と言われるようなことだ。
中途半端な自分は『辛い』という一言すら言う権利がない。
歪んだ想いが自分を苦しめるのに、人の成功を見ると妬みが這い上がってくる。
そしてそんな自分が心の底から嫌いだった。
晩御飯を済ませ、自分の部屋のベランダから星空を見上げる。
星は夜空の中だけで輝ける。
朝に怯えながら太陽を厭い、世界を覆う光で星の存在を消してしまう。
――自分と向き合って生きることが大事なんだと思う
蒼空の言葉が頭をよぎった。
私は星を見ながら、子供の頃を思い出していた。