幻想に咲く白い花①
制服に着替え、学校に行く準備をする。一日遅れの登校だ。
母からは「もう大丈夫なの?」と聞かれたが、正直に言えば学校には行きたくはない。
でもやらなければいけないことがある。
蒼空の未練を叶えるという人生最大のミッションだ。
家を出てから学校に着くまでの間、昨日の夜の出来事を思い返していた。
――雪乃の恋を叶えてほしい
最初は理解できなかった。
富田雪乃は蒼空の好きな人で、なぜその人の恋を応援しているのか?
脳内でこんがらがる糸を解いていると、
「高校は違うんだけど雪乃には好きな人がいる。相手も雪乃のことが好きで、告白もされてるみたいなんだ」
解決した。
何もせずとも恋が実っている。
私は何をすればいいのだろう?
「でも雪乃は、その返事を返せていない。本当は付き合いたいんだけど、あと一歩が踏み出せないみたいなんだ。だから雪乃の背中を押してほしい」
「富田雪乃は何で付き合えないの?」
容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、聖人君主、あらゆる肩書きを持った人間がなぜ一歩踏み出せないのか? しかも相手は告白もしてきている。
そもそも、富田雪乃という完璧な存在に対し、教室の隅で息をする私ではなんの力にもならない。
「俺も理由は分からない。相談されていたけど、根本にあるものまでは言ってこなかった。きっとそこに踏み出せない理由があるんだと思う。雪乃は言いたいけど言えないって感じだったから、俺も無理には聞かなかった。それを千星にお願いしたい」
蒼空は片思いの相手から恋の相談を受けていた。
雑貨屋で言った「きっと叶わないから」はそう言う意味だったのか。
「あの日のことがあるから、他の人と話せないのは分かる。でも……やってほしい。千星にしか頼めない」
正直自信はない。蒼空の言うとおり、他の人とまともに話せない。
あの出来事から他人と関わることが怖くなってしまった。
――うざい
この言葉が今も耳に張り付いて離れない。
だが、蒼空の命を間接的に奪ってしまった私が断るなんてもってのほかだ。
もってのほかだか……
「私には無理だよ。背中を押すどころか、話すこともできないと思う。だって、五年もまともに話してないんだよ? 絶対出来っこない」
こんな言い方よくないのに、つい感情が先走ってしまった。
人と関わりたくないということに加え、蒼空の『好きな相手』という肩書きが理性を押し潰す。
「これからは自分で自分のことを支えないといけない。過去に付いた傷は、今という時間の中で向き合う必要がある。今の先に未来があるから。それに俺はもう……そばにいれない」
蒼空は突き放すように言った。声に決意のようなものを感じる。
「分かってる。このままじゃいけないっていうのは。臆病な自分も大っ嫌いだし、変わりたいとも思ってる。だけどもう傷を作りたくない。あの日みたいなことはもう嫌なの。逃げるのはダメなこと? なんで辛くなると分かってるのに、自分から足を踏み入れないといけないの」
自分のバカ。何でこんな言い方するんだよ。
蒼空はずっと私の味方でいてくれたのに、当たり散らすなよ。
「千星」
蒼空は真っ直ぐな目で私を見てきた。
「過去から目を背けることはダメじゃない。でも、人はいつか変わらないといけない。あの日の出来事は、簡単に払拭できるものではないけど、自分自身と向き合う日は必ず来る。そのときに逃げたら、一生自分を好きになれないよ」
あの日にできた傷が痛みを帯びる。
自分でも分かっている。でも怖くて逃げ続けた。
日常の中で孤独という傷を作っては、蒼空という居場所で傷を癒やした。
でも今は自分で傷を治さなければいけない。
過去に背を向けてきたぶん、たった一歩進むことも、ものすごく大きく感じるようになった。
忘れられない言葉が足枷となり、呪いのように纏わりつく。
それを祓うのは……
「難しいことだけど、やってほしい。勇気って、前を向こうとした人だけが掴めるものだよ」
これから進む、険しい冒険のための地図を渡されたようだった。
人生という道で迷ったとき、過去に縛られて自分を見失ったとき、そんな場面で道しるべになるような言葉だった。
「でも、他人との向き合い方が分からない」
五年間、人を避けてきた私にとって、他人とは未知の生物だ。
ただ話すだけでも、そこら辺のRPGより難しい。
「人と人との間には見えないフィルターがある。権威や権力などの立ち場的なものだったり、自分がその人を好きか嫌いかの好み、過去から来るトラウマ的なもの。千星はあの日の出来事で人の見方が変わり、それがフィルターになった。だから自分の中の認識を変えないといけない。今必要なのは、人に触れて考え方の幅を持たせることだと思う。だから富田雪乃という人間を知ろうとしてほしい。学べることがたくさんあるから。それに、ずっと苦しんできた千星なら、誰よりも人に寄り添うことができる」
拠り所を求めていた私が、誰かの拠り所にならないといけない。
しかも好きな人が好きな人の。
それは辛いことではあったが、蒼空のためならやるしかないと思った。
あのとき私が逃げ出さなければ、蒼空は今も……
「分かった。でもできるかな? 私に」
自信がないから、もう一つ言葉が欲しかった。
躊躇したとき、前に進むための言葉が。
「できるよ。千星なら」
蒼空はなんの迷いもなく答えた。
シンプルな言葉だが、好きな人に言われると『私ならやれる』と思えてしまう。
目を瞑り、大きく息を吸う。
そして吸った以上の息を吐いてから、蒼空を真っ直ぐと見つめた。
「やってみる。自分のためにも」
「ありがとう」
いつものように優しく笑ってくれた。
すべてを受け止めてくれるようなその笑顔は、私の支えとなっていた。
だけどもう蒼空に助けは求められない。
自分で自分を支えないといけない。
未来に道をつくるために過去を払拭する。
たとえ過去の傷に痛みを帯びても背中は向けない。
それは自分のためでもあったが、一番は蒼空に笑ってほしかったからだ。
「もう一つの未練は?」
「一気に言ったら負担になるから、まずは雪乃の背中を押してほしい。それが叶えられたら、二つ目を話す」
「分かった」
富田雪乃のことが好きなのかも聞こうとしたが、やっぱりやめた。
今までと同じ距離で四週間を終えたい。
その名前を蒼空の口から聞けば、たぶん取り繕ってしまう。
余った時間で軽い雑談といつもの冗談を言い合い合ってると、時間になる一分前に結衣さんが来て、目の前でカウントを始めた。
あとで聞いたら、「お別れのキスとかされたらムカつくから」と、見張っていたらしい。
次はしないでとお願いすると、不貞腐れながら「分かった」と呟いた。
最後に蒼空とした「またね」が嬉しかった。
家の前でするいつもの感じが懐かしかったし、また会えるんだと分かったことで安心できたから。
次に会えるのは一週間後だ。
列車に乗ると、結衣さんは運転席に行かず私の前に座った。
指を鳴らすとドアは閉まり、列車も動き出した。
「運転は?」
懐中時計を返したあとに、そう聞いた。
「自動で動く」
「来たときは?」
「この人こんな綺麗なのに運転もできてすごい! ってなるじゃん。だから、運転してる風を醸し出した」
別に思わない。
「あっ、眩しくなるから目瞑ってな」
結衣さんがそう言うと、強い光が窓から差し込んできて列車内を覆い尽くす。
私は両手で目を覆い、光を遮断した。
「もういいよ」
その声でゆっくりと目を開くと、窓の外には星空が映っていた。
「それでどうだった? 久しぶりにあった感想は」
光のせいで目がシュパシュパしたので、何度か瞬きを繰り返したあと答えた。
「嬉しかったです。ずっと会いたかったから。理想を言えば毎日会いたい」
結衣さんは「そうだね」と小さく零したあと、話を続けた。
「四回しか会えないのは私が決めたの。死んだ人を思い続ければ、現世の人間は縛られ続ける。そしたら新たに未練を作ることになるでしょ? だから回数も決めて、会える時間も制限した。人って余裕があると先延ばしにして、言いたいことを言えなくなる。でも決められていれば、何を伝えるか、何を言わなければいけないのか、本当に大事なことだけを選択できる。一週間空けたのは考える時間でもあるの。一時間しか会えないのも同じ理由」
私はずっと先延ばしにしてきた。
言いたいことを言えないまま。
「蒼空くんからルールは聞いた?」
「はい」
「とりあえず、もう一回言うわ」
結衣さんはルールの説明を始めた。さっき蒼空が言っていたことと一緒だが、一つだけ気になっていたことがある。
「何で会えるのは私だけなんですか?」
「たまにね、期限を過ぎても会えると思い込んで、ずっと列車を待っている人がいるの。だから一人だけにした。未練を叶えるために呼んだのに、その人が未練を作ってたら意味ないでしょ? そういう場合は流星の駅での記憶を消すの。胸糞悪いからやりたくないんだけど、それしかない」
「記憶を消せるんですか?」
「できるよ。流星の駅に関する記憶だけなら。だから四週間後には会えなくなるっていうのは覚悟しといてね。私との記憶が消えるのは嫌でしょ?」
普通、蒼空の方だろ。
「他の人にこのことを言っても記憶を消す。さらに言えば、喋ったことを後悔するくらいの苦痛を与えるから、気をつけてね」
気をつけてねの『ね』の後ろにハートマークが付いていた。
語尾と言ってることの内容に整合性がない。
「はい。おっしゃる通りにします」
怖いから、丁寧に約束した。
「本当にかわいいね、千星ちゃんは」
と、髪の毛をクシャクシャにされながら頭を撫でられた。
さんざん掻き回したあと、結衣さんは真剣な顔つきになる。
「伝えたいことがあるなら、ちゃんと伝えないとダメだよ。未練は呪いにもなるけど、成長の種でもあるから」
意味は分からなかったが、とりあえず頷いた。
岬公園に着き、「じゃあ来週の今日、また同じ時間にくるから」と言って、結衣さんは空に帰っていった。
家に着いても眠れず、星を見ながら今日を迎えた。
そして今、憂鬱な気持ちで学校に向かっている。
こっちの世界に蒼空はいない。
今の私は結び目が解かれた状況だ。
その上、富田雪乃の恋も応援しないといけない。
校門に足を踏み入れたとき変な緊張があった。
入学初日みたいなソワソワとした胸騒ぎに近い。
あのときは隣に蒼空がいたが、今日は一人だ。
二年近く通った学校が、まるで初めて来る場所に思える。
それほど奥村蒼空という人物が自分の世界で色を作っていたということだ。
教室に入ると、いつもより少し重たい空気が漂っていた。
それは現実世界で蒼空が亡くなったことを実感させる。
蒼空は学年の中心にいて、みんなから慕われていたように思う。
そんな人が急に足跡を消せば消失感は否めない。
まるで桜の咲かない春を迎えたようだった。
いつもなら教室の中央は人が賑わっている。
蒼空の席を囲むように笑い合っていた場所も今は空虚が佇む。
廊下側に富田雪乃の姿も見えた。その背中に哀愁を感じる。
周りに人が集まっているが、自分の居場所を探して来ているというより、ぽっかりと空いた穴を埋めるために、富田雪乃の側に来たと見受けられる。
蒼空は自分だけではなく、他の人にとっても大きな存在だったことがこの教室から感じとれた。
この空気に押しつぶされそうだったが、私には富田雪乃の恋を叶えるという約束がある。
今はそれに集中しよう。まずはどう話しかけるかを考えないといけない。
最初の壁からものすごく高いが、それを越えないと先には進めない。
*
今日一日、富田雪乃を観察することにした。
まずは人となりを知らなければいけない。
とりあえず彼女のことで私が知っている情報をまとめてみた。
成績は学年トップであり、バスケ部のキャプテン。
蒼空と同じく学年の中心にいて慕われている。
教師や同級生、先輩後輩からも信頼は厚い。
周りの生徒が聖母と呼んでおり、性格は優しく明るいらしい。
学級委員長を務めていて悔しいが美人。
良い匂いがする。
よく笑っているところを見る。
モテる。
完璧すぎて心が折れた。
領域展開ができ、写輪眼を開眼させ、念系統をすべて完璧に習得し、四十ヤードを四秒二で走り、亀有公園前の派出所に勤務しているようなものだ。
私はこんな怪物と競い合っていたと思うと、鳥肌が背伸びする。
一限目の英語では彼女は完璧な発音で英語を話していた。
二限目の体育では二位の人に一周差をつけて校庭五周をゴール。
三限目は指数関数と対数関数を教科書よりも上手く説明。
四限目は自らの解釈を添えて古典を解説していた。
大人が理想とする高校生とはこういうことだろう。
勉強ができて、運動もこなす。教科書通りの優秀な生徒だ。
私が担任の教師なら自慢したくなる。でも同い歳となれば別だ。
富田雪乃が空を優雅に飛ぶ美しい白鳥だとすれば、私は地下で走り回るドブネズミのようなもの。
ここまで格差があると嫉妬すら烏滸がましい。
もう別の世界の生物に見えてきた。
出身はたぶん暗黒大陸だろう。
こんな人が一歩進めない恋なんてあるのだろうか?
蒼空の言っていた根本にあるものってなんなのだろう?
表面からは奥にあるものまでは見えなかった。
やっぱりちゃんと話してみないと分からない。