一 平穏な日常に別れを
五月。桜が散り、春も終わりを迎え、夏が顔を覗かせる時期。
長期休みが終わり、生徒たちが久しぶりの勉学に励んでいる。放課後になり、連休明け初日の疲れを癒すかのように生徒たちが急いで学校を出る。
そんな中、俺は屋上に向かっていた。緑川高校では、昨今では珍しく、条件付きだが屋上を開放している。
本来なら他生徒と同じく、早く家に帰りたかったのだが、生徒会に呼び出されたのだ。生徒会とは一年冬に転校してきた際に少しお世話になった程度だ。問題行動は起こしていないし、赤点など勉学に関しても問題ない。
なにか書類の不備が起きたのだろうか。いやその場合は生徒会ではなく、教師から呼び出しを受けるだろうからないか。
……ではなぜ呼び出されたのだろう。
そんなことを考えながら、いつの間にか扉の前に来ていた。普段鍵がかかっている扉を開き、屋上に出る。
屋上は椅子や机もなく、転落防止の金網のフェンスがあるだけだ。そのフェンス越しに外を眺めている先客がいた。
モデルのようなスラリとした長い手足。癖のない艶のある黒髪を背中まで伸ばした女性は、来訪者に気付くと振り返った。
その時、ちょうどタイミングを見計らったかのように風が吹き、片手で靡いた髪を抑える。その場面はさながら映画のワンシーンのようだった。
「……冬月……会長?」
思わず声が出た。
屋上にいた女性は我が校の生徒会長だった。直接話したことはなかったが、全校集会やイベントでことあるごとに見かけるため、顔を知っている。有名人だ。
会長はこちらを確認すると微笑んだ。
「麻倉くん。今日は来てくれてありがとう。連休明けに呼び出してごめんなさいね」
会長はそう言うと頭を少し下げた。
「……いえ。なにか俺にご用でしょうか?」
生徒会に呼び出されるのは覚えがない。それに生徒会長に呼び出されるなんて何かしてしまったのだろうか。そもそも会長と話した記憶すらない。
単刀直入で申し訳ないのだけど、と前置きして会長は続ける。
「副会長になってもらえないかしら?」
え……?
副会長?
……生徒会の?
思わずまじまじと会長を見る。
まるで吸い込まれるような大きな目に、潤いを帯びた唇。触れるだけ傷がついてしまいそうな透明な肌。
そして胸元まである枝毛ひとつない綺麗な黒髪。その胸元には、高校指定のセーラ服の上から、高校三年生を示す紫色のリボンが結ばれている。
長すぎず短すぎない適度な長さのスカートから伸びた、黒いタイツに包まれた、モデル顔向けの細長い足。
友人が事あるごとに話題にしていたが納得だ。
「……もしかして聞こえなかったかしら?」
ぽかんと見つめていたこともあって、会長が少し怪訝そうな顔をする。
「え? ああ、すみません……もう一度聞いても大丈夫でしょうか?」
生徒会副会長なんてきっと聞き間違えだろう。
「生徒会副会長になってほしいの」
「……生徒会副会長?」
「そう。生徒会副会長。生徒会長である私の補佐になるかしらね」
聞き間違えではなかった。
「え、どうしてですか?」
会長は、転校してきたばかりで詳しくないとは思うのだけど、と前置きして、
「緑川高校は、四月に生徒会長が決まり、五月に生徒会長が他役員を任命して、正式に活動を開始するのよ。だからこの時期に副会長を決める必要があったの。私は麻倉くんを指名したいと思っていたのだけど、もちろん、本人の承認なく勝手に決めることはできないから、今日この場を用意させていただきました」
「……なるほど。あ、いや聞きたいことはそれではなくてですね」
思わず納得したが、聞きたいことはなぜ俺が生徒会副会長なのかだ。会長どころか、生徒会とはまともに話したこともないし、今までの学校でも生徒会には入っていなかった。
「なぜ俺なのですか? 今まで生徒会に携わったことないですし、会長に直接お会いしたのも今日が初めてかと……」
「そうね。……ここだけの話、私ね、生徒会を変えようと思っているの。今までの生徒会って良い意味でも悪い意味でも内輪で完結していたの。基本的に、例年のものを踏襲する形で運営されていたのよ。限られた時間だし、仕方ないことだけれどもね」
会長はそう言うと、転落防止の金網のフェンスに向けて歩きながら続ける。
「でも私が生徒会長に就任したら、新しいものにどんどん取り組みたいの。せっかく素晴らしい提案があっても前例がないからできないなんて、そんな勿体ないことないでしょう?」
会長は一呼吸おいて話を続ける。
「……だから緑川高校に染まってない風が、新しい視点が、欲しかったの。そう思っていた最中、麻倉くん、冬に転校してきたでしょう? これはまたとないチャンスだと思ったわ。緑川高校は転入試験の難易度が高いこともあって転入生なんて滅多にいないの」
会長はフェンスに手をかけると、振り返った。
「だから麻倉くん。貴方をスカウトしたの」
会長がなぜ俺を指名したのか、なんとなく理由はわかった。ただ俺は生徒会に入れる器ではない。自分のことで精一杯だし、それに生徒会なんて色々な人と関わることになるだろう。人間関係を深めるのは少し怖い。
「理由はわかりました。ただせっかくのお誘いですが――」
「あ!」
断ろうとしたが会長の声が遮る。
「他の生徒会メンバーには麻倉くんのこと頭出ししているから安心してね。面識ある子もいるからすぐに生徒会には慣れるはずよ」
「……ご配慮ありがとうございます。ただせっかくのお誘いですが――」
「あ!」
「……」
「生徒指導の栗木先生にもスカウトする旨伝えているわ。とても喜んでいたわよ」
……栗木先生。転校してきた一年生の時のクラス担任で、とても親身になってくれた先生だ。転校して右も左もわからない状況で色々と助けてくれた。二年生になり、担任ではなくなった現在でも時々気にかけてくれる先生だ。
ただある理由で苦手だった。なにせ毎回顧問しているラグビー部に入らないかと誘ってくれるのだ。
ラグビーは楽しいスポーツだと思うが、いかんせん俺のキャラではない。自分がラグビーをしている姿がまったく思い浮かばない。もし生徒会に入ったらあのしつこい勧誘はなくなるだろう。
「もちろん、麻倉くんが入ってくれたら私もとても嬉しいわ。もし断られたら今日は寝れないかもしれないわね」
「……」
「生徒会になったら存外に忙しくてね。副会長がいれば少しは休めるわ」
「……」
「もし断られたら一から探さないといけないわね……ゆっくり眠れるのはいつになることやら……」
「……」
少し逡巡して、
「……やります」
自然と口に出た。
まあ部活にも入っていないし、現在は転校する予定もないとは親からは聞いている。
そもそも今までまともに部活に入ったことがないのだ。転校ばかりで、入るタイミングがなかった。なのでちょっとそういうものに憧れはあった。それにここまで勧誘してくれるのは何となく嬉しいものだ。
「ほんとに? とても嬉しいわ」
会長はそう言うと満面の笑みを浮かべた。
この笑顔を見たら誰でも惚れるんじゃないか。そんな笑顔だった。
「ちなみにいつから始動する形ですか?」
「明日からよ」
「明日!?」
「ふふふ。詳しいことはまた明日連絡するわね。ってもう時間も遅いわね。今日は遅い時間まで引き止めてごめんなさい。……私はこのあと生徒会関連で呼び出しを受けていてこの辺で失礼するわね」
会長はそう言うと、屋上唯一の扉まで歩く。
そのままいなくなるかと思ったが、ドアノブに手をかけると、振り返った。
「そうえば、直接会ったのは今日がはじめてと言っていたけれど――」
少し微笑むと、
「――会ったことあるわよ……前に」
そう言うと、屋上から姿を消した。