第8話:狩人か、あるいは狐か
涼姫は左手に『白椿』を携え、月明かりが降り注ぐ道を歩いていた。
一歩進むごとに軍靴のかかとからカッ、カッ、と小気味良い音が響く。もう、足音を消す必要はない。ひんやりとした夜風が通り過ぎ、涼姫が着ている襦袢の裾がひらひらとはためく。
「蓮史や埜乃が、あれで起きていなければ良いのですが……」
部屋のドアを開く際、ほんの小さな物音を立ててしまったことが涼姫にとっては痛恨のミスだった。足音も気配も呼吸音さえも消し去っていたというのに、あんなことで気づかれてしまっては間抜けすぎる。
若干急いでいたとはいえ、つまらない失敗をしたものだと涼姫は自らを責める。
まあなんにせよ、蓮史達がわざわざ自分を追いかけてくることなどないだろうし、達城家からはどんどんと離れている。相手もその場から動くつもりはないようだし、現状では大した不安要素ではなかった。
涼姫が辿り着いたのは、達城家の近所にある小学校だった。
軽いステップで涼姫は閉ざされていた正門を飛び越え、敷地内に不法侵入を果たす。満月を背景に屹立する公舎からグラウンドに影が伸び、その先にはシーソーやブランコなど年季の入った遊具が並んでいる。
そして、目の前の公舎の屋上に、ひとつの人影が立っていた。
「おやおや、こいつは偶然。お嬢さん、お前も夜の散歩かい?」
その人影が口を利いた。
「……白々しい。これだけ霊気を盛大に放出しておいて、よくそのようなことが言えますね。最初からわたしを誘い出すのが狙いだったのでしょう?」
「否定はしねえが、俺は別にお嬢さんがおびき寄せられなくても構わなかったぜ? まあ結果としてお前はわざわざここまで出向いてきたわけだが、ここでひとつためになるアドバイスだ。男からの夜の誘いに乗るのは、相手が恋人の場合だけにしておきな」
「戯れ言をほざくのはそれくらいにしておきなさい、レイヴン」
「はは、冷たいねェ。そんなすげない態度を取られたら傷ついちまうじゃねえか」
軽薄な言葉遣いでその本性を隠すかのようにして、レイヴンはのどの奥でクククと笑った。
レイヴンは屋上のへりに足をかけると、そのまま躊躇なく宙に舞った。涼姫の前に音もなく着地し、落下の際の突風で乱れた髪を悠然と撫でつける。
「でだ、お嬢さん」
涼姫よりも頭三つ分は背の高いレイヴンはこちらを眺めながら道化のように口元を歪ませた。
「こうしてのこのこと俺の前に現れたってことは、遊んでくれるんだろ? ここンとこ、丈夫な遊び相手に恵まれなかったからなァ。お前は、容易く逝ってくれるなよ?」
両手を左右にゆらりと広げるレイヴン。それはまるで、生き別れだった兄弟を抱き止めようとしているかのような、親しみに満ちた動作だった。
「レイヴン、施設に戻る気はないのですか」
「ああ?」
レイヴンは心底くだらなそうな顔をした。
「おいおい、今更寝言を仰るのはやめてくれよ。そんなこと言われたところで俺がハイと答えるわけがないだろう?」
「何故アルトールに与したのです」
涼姫は質問を変えた。
「あなたは施設にいた吸血鬼達の中でも、特に穏健的な人だったはず。煉月聖教の義損も全面的に受け入れていました。なのに、何故このような真似を」
「勘違いすんな、俺ァ別にアルトールに協力しているわけじゃあねえさ」
大袈裟に肩を竦め、レイヴンは言う。
「ただなあ、あそこは退屈なんだよ。そりゃま、なんの苦労もなく食事も血液も何もかも配給してもらえるっていうのは魅力的な待遇だが、それでもいい加減にあの施設での生活は飽き飽きしていたところだ。そこにアルトールの野郎がタイミング良く登場してくれたもんだから、渡りに船とばかりに便乗したってだけの話さ」
「あなたの目的はなんなのです」
「特にないね。強いて言うなら、今この瞬間を楽しく生きるってことかな」
レイヴンは薄気味悪く笑い、瞳の奥に残虐的な光をちらつかせた。
「さあ、質疑応答の時間はこのくらいでいいだろう? そろそろ始めようじゃねえか」
宣言すると、レイヴンはいきなり自らの手に噛みついた。親指の付け根の辺りに牙が食い込んで皮膚を突き破り、瞬く間に鮮血が溢れて赤い雫が地面に垂れていく。
「矢張り、何を言っても無駄ですか」
涼姫は『白椿』を一息で抜き、その場に鞘を落とすと両手で柄を持って構える。月光を浴びて煌めくその刀身のように鋭い眼光が、真正面からレイヴンを射抜いた。
「ああ、そうこなくっちゃなあ」
彼は迎撃姿勢を取った涼姫を見て満足げに頷く。
「お前は俺の能力を知っていたっけか? まァどっちでもいいが、初撃でサヨウナラなんて白けることにはならないでくれ、よっ!」
声と同時に、地面に染みたレイヴンの血が意思を持ったように蠢き、地表を這うようにして勢い良く移動し、涼姫へと突っ込んでくる。
次の瞬間、涼姫の足元から細く赤い槍が生えた。咄嗟に横に飛ばなければ体のどこかを串刺しにされていたことだろう。
しかし、
「……くっ」
間髪入れず、二本目三本目と次々と槍は地面から突き出し、高速で逃げる涼姫を追いかけ回す。一瞬たりとも同じ場所に留まることはできない。一発喰らって動きを止めれば、後は無数の槍に体中を風穴だらけにされるだけだ。
――このままではいずれ捕まってしまう。
涼姫はグラウンドを転がって二本の槍を回避すると跳ね起き、数メートル先で佇むレイヴンに向かって一直線に疾駆した。
「あー、そうだ。こういうときは本体を狙うのがセオリーってもんだよな」
砂煙を巻き上げながら滑るように向かってくる涼姫をレイヴンは泰然と待ち受ける。
「覚悟っ!」
『白椿』が閃き、鈍い銀色の軌跡を残してその刃がレイヴンの胴を目がけて走る。
何かが、涼姫の斬撃を防いだ。
血だった。
レイヴンの右手の傷口からこぼれた流血が触手のようにのたくり、硬質化して、『白椿』を受け止めていたのだ。その硬度はかなりのもののようで、血の触手には傷ひとつついていなかった。鍔迫り合いの体勢から二の太刀、三の太刀と斬撃を繰り出すが、そのすべてを触手が阻む。
「相手の手の内もわからないってのに懐に飛び込んでくるたァ勇敢だな」
ハッとして涼姫は大きく後方に飛び上がった。
直後、地面から何本もの槍が飛び出し、その先端が軍靴の爪先を掠めた。
「さあ、て。これでチェックメイトだ、お嬢さん」
レイヴンの言わんとしていることは涼姫にもわかる。きっと涼姫が着地した瞬間を狙ってその地点に槍の集中砲火を浴びせる気だろう。現在、涼姫は自由落下の真っ最中。空中に浮遊することのできない涼姫に降りる場所を変更する術はない。
だから、涼姫は地面に向かって『白椿』を投げた。
地に対して垂直に突き刺さった『白椿』の柄頭を涼姫は着地場所に選択する。ほぼ同時に地面から剣山のように槍が出現するも、その切っ先は涼姫のいる高さに到達する前に止まってしまう。
思った通り、この槍は一定以上の長さを形成することはできないらしい。先ほど涼姫はただレイヴンの攻撃を避けていたのではなく、その中で今の情報を入手していたのだ。
「おっと、こいつは予想外。さすがにやるねえ」
決め手を仕損じたにもかかわらず、レイヴンは悔しがるどころか楽しげですらある。
「そろそろ新しい傷を作らなくては、時間切れなのではないですか」
対峙する涼姫の表情は冷静そのものだった。
「おや? その口振りから察するに、俺の能力は既に筒抜けだったかな?」
レイヴンの言葉が終わると、涼姫の下方で群れを成していた槍達が溶けるように地面へと消えていく。それを見届けてから涼姫は飛び降り、再び『白椿』を手に取る。
レイヴンの能力とは、自身の血を操ることだ。
これは吸血鬼なら誰でも所有している能力ではなく、あくまでもレイヴン個人の特技だった。
血を媒介にして分身を生み出すこともできるし、血の一滴一滴を操作して涼姫を追撃し槍のように形状変化することだって可能だ。だが一滴だけでは変化できる大きさに限界があるし、血が固まってしまえばそれはもう操ることはできない。更に吸血鬼特有の回復の早さが祟って、自傷してつけた傷もすぐに塞がってしまうのである。
「燃費の悪いチカラだよなァ、おい。折角血を飲んでも、こんな能力じゃあすぐにのどが渇いてしまう。まったく、不便なもんだよ。お前もそう思うだろ?」
自嘲しながら同意を求めてくるレイヴンの言葉を涼姫は無視した。
「レイヴン、最後にもう一度だけ問います。施設に戻る気は、ないのですね?」
「はん、もしここで『ある』って答えたら、お優しい浄伐者様はどのような取り計らいをしてくださるので?」
「あなたにこれまで通りの生活を約束します」
「じゃ、答えはやっぱり『ない』だな」
「そうですか」
チャキ、と涼姫は刀を構えなおして、
「ならば、この町の住人に害を及ぼすあなたを放置するわけにはいきません。残念ながら、あなたとはここでお別れです」
「お別れ、ねェ。果たしてどっちがこの世か――」
ふと、
「――ら退場するのやら」
レイヴンの姿が掻き消える。
「なっ!?」
涼姫が目を見開く。
途中で途切れたレイヴンのセリフは、真後ろから聞こえていた。涼姫を飲み込むように、何者かの影が彼女の体を覆う。
まさか、今まで戦っていたのは分身!? そんな……っ、あの手強さで!?
路地裏で一戦交えたレイヴン分身はお世辞にも強いとは言えなかった。そして今回のレイヴンは間違いなく能力を駆使し、涼姫の斬撃も難なく防御している。だからこそ涼姫は今の今までレイヴンは本体であると信じ込んでいたのだ。
「お前の血は、どんな味がするかな」
その手が涼姫の首に回されようとした、まさにその瞬間だった。
「涼姫ええぇぇぇぇぇぇぇええええ!」
最近聞き覚えたばかりの声が乱入してきたのは。
「あ……? 少年?」
レイヴンの手が僅かだが確実に止まる。涼姫はその隙を見逃さなかった。
「はっ!」
「お……っと、あぶね」
振り向き様に『白椿』を一閃。それを仰け反りながらかわすレイヴンを見据えつつ涼姫は後ろに跳び退った。
眼前の敵から意識を逸らさないようさっきの声がした方を一瞥すると、一人の少年が遊具エリアを囲んでいるフェンスをよじ登っているところだった。