第7話:騒動の終わり、あるいは始まり
「と、言うわけでだ。暫く間、涼姫もこの部屋を使うことになった。仲良くするんだぞ?」
自室にて、蓮史と埜乃は互いに正座して向かい合っていた。
傍らには涼姫のために用意された敷布団があり、その寝床の主は現在お風呂に入っている。その間に蓮史は埜乃に事の経緯を話していた。埜乃は蓮史の説明を受けてもぼんやりするだけのノーリアクションであり、成り行きを理解しているのかどうかも怪しいところだった。
「こら埜乃、わかったのか? わかったなら返事をしろ」
「まえむきにけんとうする」
だからどこでそんな言葉を仕入れてくるんだ。
「なんだよ埜乃。お前、涼姫のこと嫌いか?」
「んーん、嫌いじゃない」
大きく二度首を振ってから、
「だけど、好きでもない。どうでもいい」
「そうか」
先行き不安の蓮史だった。
埜乃は涼姫と対面してから、彼女のことを拒む風ではないが歓待しているわけでもない感じである。要するに干渉しようとしないのだ。埜乃の人見知りっぷりは重々承知しているが、今日から同じ屋根の下で暮らすのだからなんとかする必要があるだろう。
ただでさえ、埜乃は感情表現が苦手なのだ。子供らしい我が侭というものもほとんど言わない。それに涼姫の方も謹厳実直すぎてとっつきにくい一面がある。誰かのお膳立てなしに彼女達が打ち解けることなどありえないはずだ。
それをやるのは誰だ?
虎次郎と栞に任せるのは色々と不安がある。ならば消去法で残るのは一人のみだ。
「よし、いいか埜乃?」
「なに?」
「もうすぐ涼姫が風呂から戻ってくる。お前、何か話しかけてみろ。湯加減はどうでしたかぁ? とかなんでもいいから」
「なんで?」
「お前あいつと会ってから一言も口利いてないだろ。そんなんじゃ仲良くなれねえぞ」
「別に、なれなくていい。話すならにぃにと話す」
「俺と話したって意味ないってぇの」
蓮史が呆れていると、部屋の扉ががちゃりと開いた。湯上りの涼姫が姿を見せる。その手には刀が握られていた。もちろん鞘に納まってはいるが。……もしやとは思うが、それを持ったまま入浴していたわけではあるまいな。
「上がりました。先に入ってしまって申し訳ありません」
涼姫は小さくお辞儀をする。まだ湿っている彼女の髪が頬に張りついていた。
「いや、いいって。結構遠くからこの町に来たわけだし、それに吸け……あー、あんなこともあったわけだし、疲れてるだろ? ってか……そのカッコーなんすか?」
「? わたしの寝巻きですが、どこかおかしいですか?」
涼姫が怪訝そうな顔つきをすると、両腕を軽く持ち上げて自分の体を見回した。
「ああ」と涼姫。何かに得心がいったように、「わたしはちゃんと最低限の荷物は持参していましたよ。ただ、あなたと初めて会ったときは非常時だったので、その場に放って即座に駆けつけたのです」
「いやぁ……気になったのはそんなところじゃなくてだな」
彼女が身に着けているのは、真っ白で薄い和服のような着衣だった。襦袢というやつだろうか。時代劇で位の高い女性が寝るときに着ていそうな、古式然とした寝巻きだ。パッと見、死装束に見えなくもない。
凛然とした美貌とすらりとしたスタイルを持つ涼姫に襦袢はよく似合っていて、まさに大和撫子といった風格である。それに、まだ涼姫の体が水気を帯びているせいだろうか、生地の薄いそれはところどころで彼女の皮膚にくっつき、肌の色を仄かに浮かばせていて、なんと言うか、エロかった。長い裾から覗いている白い足首がまた妙に艶かしい。
……これから毎日、こんなのがすぐ横で眠ってるっての?
勘弁して欲しかった。
「どうしたのですか、蓮史。わたしの顔に何かついていますか」
「あ、いや……ゆ、湯加減はどうでしたかぁ?」
「良かったですよ」
「そりゃあ何より」
照れていること隠しつつ、なんとか話題を逸らす蓮史だった。我ながら情けないザマである。
気を取り直して埜乃の方を見遣ると、彼女は夕食時のようにまたもや涼姫のことを無言で眺めていた。当然それに涼姫本人も気づいていて、前例の通り対処に困ったような表情で、
「埜乃、あなたは、」
堪えかねて涼姫が口を開くが、
「お風呂入ってくる」
涼姫が何かを言い切る前に、埜乃は小走りで廊下へと飛び出していった。その小さな後ろ姿を見送りながら涼姫は顔を顰めた。
「おい埜乃……ったく、全然前向きに検討してねえじゃねえか。政治家かあいつは」
溜め息を吐きながら蓮史は頭を掻いた。
「……蓮史、わたしは埜乃に嫌われているのでしょうか?」
「嫌ってはいないらしい。だが、好きなわけでもないって言ってたぞ」
「そうですか。無理もありませんね。わたしのような者がいきなり押しかけてきたのですから、好意を持てという方が無理な話です。矢張り、あの子のためにもわたしは廊下で寝た方が」
「それはもういいっつの」
終わった題目を穿り返そうとする涼姫を蓮史は早めに制する。
「そういやその刀だけど」
「これですか?」
涼姫は目で左手の刀を指し示す。
「そう、それ。もしかして風呂場にまで持ち込んでたわけじゃないよな?」
「さすがにそこまでは。ですが、すぐに手が届く範囲に置いておかないと、いざというときに致命的な遅れとなってしまいかねませんから」
「いざというときって……」
じゃあもし入浴中に敵が攻めてきたら、全裸で戦う気なのか? 彼女の性格からしてそれくらい平気でやるかもしれないから恐ろしかった。
「ああ、そうです。あなたに言い忘れていたことがありました」
「なんだ?」
「この刀……名を『白椿』と言います。これはただの刀ではなく、霊刀という浄化の力を強めるものなのです」
「れいとう? なんだそれ」
「わかりやすく言えば、わたしに霊力を与えてくれる供給パイプのようなものです」
「わかりやすいのかどうかは知らんが……とにかくそれを持ってると霊力とやらが漲ってくるのか?」
「はい。そのような解釈で構いません。そして問題なのが、この『白椿』を一般人が手にすると、体に溢れ返る霊力をコントロールできずに危険な状態になってしまいます」
「えっと、具体的にはどうなるんだ?」
「脳が壊れます」
「……」
蓮史の額を一筋の冷や汗が伝った。
「ですから、これには絶対に触らないでください」
「おう、わかった。他の連中にも厳重注意をしておくよ」
脳味噌が破壊されるだなんてぞっとしない話だ。忘れないようにしかと胆に銘じておく。
「にしても、お前のその格好はどうにかならんのか?」
さっきから直視しないようにしていた涼姫の姿をちらりと見た。蓮史の質問の意図がわからないというように、涼姫は小首を傾げる。その衣装が扇情的すぎてチェリーボーイの僕には目に毒です、などという事実を語りたくはないので、蓮史は別のことを喋った。
「いやまぁ、ほら、お前だっていい年の女の子なわけだし、いくら仕事とはいえよく知りもしない男の身近で寝る気になれるなあって、そういう話だ。他意はない」
どうしてこんなどうでもいいことで虚勢を張るのだろうか。男の悲しい性である。
蓮史のクエスチョンに涼姫は事も無げな様子で、
「自惚れて言うわけではありませんが、わたしにも自分の身を自分で守るくらいの力はあります。それにそもそも、わたしのような女に劣情を催す男性がいるとは思えません」
「それは、なんだ? 世の中の女性の大半にケンカを売ってるのか?」
「なんのことです?」
「……いや、わからないならいい」
自分の家族は変わり者ばかりだという自覚はあったが、銀涼姫という新たな家族もまた変り種だったことに、蓮史は苦笑いを隠せなかった。
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入浴から戻ったパジャマ姿の埜乃は、部屋に入るや否やベッドに潜り込んでしまった。ロクに髪の毛を拭いていなかったので仕方なしに蓮史が拭いてやると、埜乃は今度こそ布団に包まり、一分と経たずに眠りについた。父親からの遺伝なのか、埜乃の寝つきの良さは昔から凄まじかった。
蓮史はなんとか二人の仲を取り持とうと考えていたのだが、それを予測していたかのように埜乃は速やかに睡眠してしまい、取り付く島もない。
やむを得ず蓮史は本日中の説得を諦め、明日に備えて早めに寝ることにした。今日一日で失った精神的な体力をちょっとでも多く回復しようという魂胆である。
そして、時刻が深夜の二時を回った頃だった。
二段ベッドの上段で寝ていた蓮史は、立て付けの悪いドアが微かにキィと鳴る音に目を醒ました。豆電球が照らす薄暗い室内に目を凝らすと、廊下に出て行く涼姫の背中を一瞬だけ捉えることができた。その手には、霊刀『白椿』を持っていた。
彼女はドアをゆっくりと閉める。今度は完全に無音だった。
「……涼姫?」
その呟きが声に出たかは蓮史自身もわからない。しかし涼姫からの返事がないのは確かだった。蓮史はしょぼしょぼする目をこすりながら上体を起こし、涼姫の布団を見下ろした。当然、そこは無人である。
「トイレ、か?」
涼姫は『白椿』を肌身離さず持ち歩いているみたいだし、トイレに行く際に携帯するのだとしてもなんら不思議はない。
だが、涼姫の目的は別にあると、蓮史の直感が告げていた。
目を閉じ、耳を済ませてみる。壁掛け時計の秒針が動く音と、埜乃の寝息しか聞こえなかった。それから五分ほど待ってみたが、涼姫は一向に帰ってこない。
「……トイレだよ、な」
蓮史の嫌な予感は加速する。
何かに急き立てられるかのように梯子を降り、埜乃を起こさないよう忍び足で部屋を出た。暗闇が支配する廊下は静寂そのものであり、家中で誰かが動いているような気配はない。それとも、蓮史が鈍いので勘付かないだけなのか。
蓮史はまずトイレに向かった。明かりはついておらず、もちろん中を確かめても誰もいなかった。次に蓮史が足を運んだのは勝手口だった。そこにはちゃんと涼姫が履いていた軍靴が、
「……ない」
蓮史は息を呑んだ。
思った通り、涼姫は屋外に出てしまったようだった。それは何故だ? こんな時間に刀を持って外出する理由として考えられるものは? 真っ先に蓮史が思いついたのは、吸血鬼絡みの事柄だった。涼姫が持っていた刀、まさかあれで、また吸血鬼と戦っているのか?
そして、仮にその憶測が的中していたとして、自分にできることなどあるのか。
ここで涼姫が出て行ったことを気づかなかったことにするのは簡単だ。このまま部屋に戻って眠りこけていればいい。後は素知らぬふりを貫き通せば完璧だ。
だが、本当にそれでいいのか。
本当に。
「……くっそ、俺のバカ野郎、なんで気づいちまったんだよ。大人しく寝ていれば良かったのに」
蓮史は頭を振って眠気と迷いを吹き飛ばすと、下駄箱から愛用のスニーカーを引っ張り出し、胸中で渦巻いている心配事が笑い話で済むことを祈願しつつ、涼姫を追って家を飛び出した。