第6話:一家団欒、あるいは縁の下の苦労人
「まあ、大体のことは一応理解したが、そういや母さんはこのことについてどのくらい知ってるんだ?」
蓮史が虎次郎に向かって尋ねると、
「あらぁ? あたしのこと呼んだ~、蓮くぅん」
カウンターの奥から弛緩しきった、骨がふやけるような間延びした声が飛んできた。
「みなさ~ん、美味しいミルクティーが入りましたよ~」
見ると、ティーカップを載せたトレーを危なげなく運んでくる、エプロン姿の女性がいた。いつものように意味もなくニコニコと笑っており、四十歳手前だというのにやたらと若々しい笑顔を浮かべている。
「母さん……なにやってんだ? ていうか今までどこにいた?」
「ん~? あたしはずっと晩ご飯の準備をしていたわよぉ? あと少しで出来上がるからちょっと待っててね~。それでぇ、はぁい。のどが渇いてるだろうと思って、ミルクティー淹れてきました~」
「なんでそんなに暢気なんだよ……」
「だって、ねえ? 折角今日から家族が一人増えたんだから、お祝いしなくっちゃ。お母さん、今日は腕を振るうわよ~」
能天気極まりない調子で、蓮史の母――達城栞はご機嫌に語ってくれる。
彼女はお祝いとなどと言っているが、今の状況を楽観することは蓮史にはできなかった。明確な危険が近い未来に待ち構えているのだから。早くも家族の一員としてカウントされている涼姫も、蓮史を同じく複雑そうな顔つきをしている。
もしかして、栞は今の状況をわかっていないのではないか?
訊いてみた。
「なあ、親父。母さんはどこまで知ってるんだ?」
声を潜める蓮史に、虎次郎は空気を読まず胴間声を響かせる。
「栞は俺の生涯の伴侶だぞ。隠すことなどひとつもない。何もかも心得ているに決まっているだろう」
その上で、栞はこの余裕らしい。大者なのかアホなのかどっちだろう。
「あらぁ? みんなどうして立ってるの? ここは喫茶店なんだから、椅子に座ってゆったりとほんわかとお話しましょうよう」
子供のような声音でそう言うと、栞は手近なテーブルにトレーを置くと、蓮史達に腰かけるよう促した。
「それもそうだな。ほら、お前達も座るといい」
虎次郎はアンティーク風の素朴な椅子にどっかりと腰を落ち着けた。
「うむ、矢張り栞の作ったミルクティーは最高だな。一滴一滴に心の疲れを癒される思いだ」
「まあ、ほんと~?」
「本当だとも。吸血鬼達が現れたら奴らにもこれを振る舞ってやろうではないか。これを一口飲めば奴らの敵意も消え失せるだろう」
「愛は暴力よりも強しですね~」
「その通り、愛は世界を救うのだ! これぞ、ラヴ&ピース!」
「いえ~い」
拳を突き上げて吼える虎次郎と拍手をして囃し立てる栞。そして蓮史はと言えば、
「テメェらもっと緊張感を持て!」
あまりの悠長ぶりに憤慨していた。
「あぁん、あなたぁ、蓮くんが反抗期に~……」
「こら蓮史! 母親を泣かせるとは何事だ! そんなじゃじゃ馬な息子に育てた覚えはないぞ!」
「ダメよう蓮くん、不良さんになんてなったら。素直だったあの頃のあなたに戻ってぇ」
「そうだぞ蓮史! 本当にお前はもっと清らかな心を持っていたはずだ! 己の中の邪心に打ち勝て、明鏡止水を極めるのだ! そう、この偉大なる父のようにな!」
「きゃ~、あなたカッコいい~」
両親が仲良くありがたくない説教をかましてくる。この二人はいつもどこまで本気なのかがわからないのだ。そして気がつけば相手のペースに呑まれているのである。この辺り、蓮史は一生この二人には敵わないのだろう。
いかん、ツッコんだら負けてしまう。
その心理に気づいた蓮史は渋い顔で頭を抱えた。この判断は正しかったようで、食いついてきてくれない息子に虎次郎と栞は少し寂しそうだった。蓮史はそのまま眉間をほぐすように指で揉む。
「なんだ蓮史、考える人の物真似か?」
「あーそうだ!」
ヤケクソ気味に蓮史が返答を投げ飛ばす。
達城一家のそんなやりとりを端で眺めていた涼姫は、その光景にやや面食らいながらも微笑ましそうに目を細めていた。
ж
そして夕食の時間は訪れた。
蓮史の家ではいつも喫茶店のフロアで朝夕の食事を取っていた。栞が厨房で作った料理をテーブルに運び、達城家の四人に本日からは新たなメンバーを加え、普段よりもやや遅めとなった食卓をみんなで囲む。
「それでは、我が家にやって来た新たな家族を祝して、かんぱーい!」
「かんぱぁい」
虎次郎と栞が二人で盛り上がっていた。
ふと横を見る。その席に座っている埜乃は対面の涼姫をジーッと見詰めていた。その様はまるで小動物が目の前の生き物を安全か否か見極めようとしているようだった。
唯一事情を知らない埜乃だが、彼女には涼姫のことをこう説明していた。店の前で行き倒れていた記憶喪失中の旅芸者、と。行くアテのない彼女に同情し暫くの間この家に置いてやることにした、と。無論、こんな設定を口走ったのは虎次郎である。
しかし埜乃はそんなプロフィールになどなんの興味もないのだろう。肝要なのは、ここにいる銀涼姫という少女がどのような人間なのかという一点のみなのだ。
だからこそ埜乃は、それこそ何かの観察でもするようにひたすら涼姫のことを、それも無言で凝視し続けていた。
「……埜乃、どうかしましたか?」
居心地の悪さに負けて涼姫が埜乃に話しかける。
「……」
埜乃からの返答はなし。ただ、首を左右にふるふると振った。なんでもない、というジェスチャーだった。
「そうですか」
涼姫は食事に戻る。だが埜乃は依然として視線を涼姫に固定したままである。
「あの……なんです?」
埜乃はまた首の水平移動を繰り返した。涼姫は困ったように眉をひそめる。どうにも子供の相手は慣れていないような風情だった。見かねて、蓮史は涼姫に助け舟を出してやった。
「あんま気にすんな、涼姫。埜乃は初対面の人間には大抵こんな感じだ。別にお前がどうしたっていうわけじゃない」
「そうですか……」
と言うものの、涼姫は釈然としない様子であった。
そんなこんなで年長者二名がやたらに騒いでいた夕飯を終え、蓮史は涼姫に家の中を案内していた。とはいえそんな大きくもない一軒家だ、大して時間はかからない。普通の民家と異なる点といえば、せいぜい屋根の上に庭代わりの開けた空間があるくらいだ。そこも物干し竿があるだけ特に珍しいものもない。
「まあ、見せる場所はこんなもんだ。何かわからないことがあったらその都度誰かに聞いてくれ」
「わかりました、ありがとうございます」
トイレや風呂場の位置を教え終わった頃、蓮史はとある問題に気づく。
「そういやお前ってどこで寝るんだ?」
この家には空き部屋など存在しない。
「さあ、わたしは何も聞いていませんが。ですが、別に気を遣わなくとも廊下でも貸してくだされば結構です。雨風さえ凌げるのならば、それで」
「いやいや、いくらなんでも廊下で寝させるわけにもいかんでしょうよ。つっても、他に場所もねえしなあ」
「お前の部屋があるではないか」
「うおっ!?」
背後から突如として虎次郎が湧き出てきた。仰天する蓮史だが、さすがと言うべきか涼姫は眉ひとつ動かさなかった。
「俺と栞の寝室は手狭だが、お前と埜乃の部屋ならば布団を一枚敷くくらいのスペースは余裕であるだろう。涼姫にはそこで寝てもらえば良い」
「はあ? 俺にこいつと同じ部屋で寝ろって言うのか?」
「何か問題でも?」
「あるだろうが! いくら埜乃もいるとはいえ同じ部屋で寝ることなんてできるかよ」
「思春期真っ盛りの中学生か、お前は。だからいつまで経っても童貞のままなのだ」
殴りかかった。かわされた。クソが。
憤る蓮史に虎次郎はやれやれと呆れるように、
「そんなに気にするようなことでもあるまい。それとも何か? お前は無防備に眠っている少女が横にいたら、自分は間違いなくいかがわしい行為に走ってしまうと確信しているのか?」
「……あァ?」
「ふむん、据え膳食わぬはなんとやらと言うが、それではあまりに節操がないと言わざるを得んな。いかんいかん! いかんぞ蓮史! 男子たるもの健全な異性交遊を送らねばならん!」
「ええい、黙れっ」
蓮史の唇から重低音が漏れる。
「それで、結局のところわたしの処遇はどうなるのでしょうか」
今の会話にもまったく動じない涼姫。蓮史の同室になってもまったく構わないような素振りだ。そりゃまあ、トチ狂った蓮史が夜這いを仕掛けたところで彼女の手にかかれば容易く捻り潰せるだろうが。
「……よし、わかった。俺が廊下で寝てやる。それで万事解決だ」
決意する蓮史だったが、
「ほう、埜乃と涼姫を二人きりするのか? 随分と奇抜な組み合わせだな」
虎次郎の指摘に「うぐ」とたじろぎ、意思が揺らぐ。
確かに彼女達だけではまともなコミュニケーションなど取ることはできないだろう。下手をすれば一言も対話が成立しないかもしれない。かといって埜乃を追い出すのは論外である。
「蓮史、虎次郎さん。お心遣いはありがたいのですが、わたしの寝床など本当にどこでも構いません。屋上で寝ろと言うのならそれでも結構です」
「こっちが構うんだっつーの」
「何故です? わたしとしては、極力あなた達に迷惑はかけたくないのですが」
大真面目な顔で訊いてくる。何故ってそんなもの、良心とか人情とか色々あるだろう。大体そんなところで寝させた結果、風邪でも引かれたらそっちの方がよっぽど迷惑だ。
「……はあ……しょうがねえか。涼姫、悪いが俺と同じ部屋で我慢してくれ」
「わかりました」
二つ返事で承諾する涼姫。欠片の抵抗もなさそうだった。もしかしたら蓮史は男として認識されていないのかもしれない。それはそれで、そこはかとなく虚しかった。
「涼姫よ、万が一この愚息が野獣と成りてお前に襲いかかった場合は股間を砕け。この俺が許可する」
「しねえよそんなこと!」
「了解しました」
「すんな!」