第3話:予定調和、あるいは偶然という名のデスティニー
「はぁ……」
何度目かわからない溜め息をつきながら、蓮史はガリガリと頭を掻いた。
あの女性は目立つ場所に寝かけさせておいた。そして携帯電話で119番通報して、あの場に救急車が来る前にとんずらしていたのだ。残っていたら第一発見者として色々訊かれるのだろう。蓮史はそれが嫌だったのだ。事情聴取などと言われても、正直こっちが教えて欲しいくらいである。
吸血鬼?
浄伐者?
なんだそれは。
その少女は、そしてあの男は、一体なんだって言うんだ。
「あー、くそ」
むしゃくしゃして蓮史は足元の小石を蹴飛ばした。
自宅へと帰る途中、蓮史はずっとこんな調子であった。命が助かったという安心感よりも、ついさっき体験した不可解な出来事についてなんの説明もされないことの不満の方が勝り、気がかりで理不尽で、故に蓮史は不機嫌だった。
しかし、あの少女が言っていたことも一理ある。
こんなこと誰に話したところで信じてなどもらえないだろう。ならば一刻も早く忘れ去ってしまった方が精神衛生上良いのではないか。
今の蓮史の心境は一種の好奇心と同じなのだ。ホラー映画などに対する怖いもの見たさと大した差はない。実際、蓮史はあの男との再会など断じてお断りだし、あの少女とも二度と出会うことはないだろう。ならば、知ったところで意味なんてない。今の人生観が崩壊してしまうだけだ。いや、実は既に崩壊しかけているのだけれども。
「……もういいや、忘れよ」
吹っ切れたようにぼやき、先刻の怪事を夢だと思うことにした。それが一番幸せになれる選択肢だろう。
考えを改めた途端、急にお腹が空いてきた。早く家に帰って何か食べよう。蓮史はひとつ嘆息を落とすと、足取りを速めて家路を急いだ。
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蓮史の実家は喫茶店を営んでいた。
その名も喫茶『ラヴ&ピース』
ラブではなくラヴな点がキモである。特に意味などはないが、言い間違えると父親が怒るのだ。なんとも微妙なネーミングだといつも思うが、あの能天気な両親のセンスならば納得できてしまう。
一階がまるまるフロアと厨房になっていて、寝室などの生活スペースはすべて二階にある。内装はそれなりに凝っていて、観葉植物や絵画を飾り、意図的に薄暗くしてノスタルジックな雰囲気を演出している、全体的に西洋風の小洒落た感じの店だ。
従業員は店長の父親と料理長の母親、アルバイトが三人、暇なときは蓮史も手伝っている。時給は発生しないが。
「ただぁいま」
家の裏にある勝手口から蓮史は家に入る。徹夜勤務から戻ったサラリーマンのように疲れた声であった。自覚はなかったが精神的に結構きていたらしい。倦怠感丸出しの顔つきで扉を閉めると、奥の方からスタタタタと軽い足音が近づいてきた。
「にぃに、おかえり」
「おー、ただいま、埜乃」
やって来た小さな女の子は蓮史の後ろに回り込むと、蓮史の背によじ登った。慣れているだけあってその動きはかなり身軽だった。慣れているのは蓮史も同様で、背中に彼女を貼りつけたまますぐ近くの階段を上っていく。
この子は達城埜乃。蓮史の妹で、つい先週九歳になったばかりだ。
人見知りが激しいが一度好きになった者にはとことん懐き、何故だか相手に乗りたがる癖がある。本人曰く肩車が一番好きらしい。次点はおんぶ。抱っこはあまり好みではないとのことだ。
「今日はたくさん客来たか?」
「来た。埜乃も手伝った」
埜乃が身を乗り出し、蓮史の横に頭を突き出す。身長百三十センチにも満たない埜乃の体重は非常に軽く、部活でそれなりに鍛えている蓮史にとっては大した重荷にはならない。
実のところ、この喫茶店で最も人気があるのは埜乃だった。
手伝うとは言ってもせいぜい水を運ぶくらいなのだが、コップからこぼさないようにと、両手でトレーを持ってゆっくり歩いてくる姿は可愛らしく、常連の女子学生には特に評判で、よく頭を撫でられたり飴玉をもらったりしていた。
埜乃と共有している私室に辿り着くと、蓮史は学生鞄を机の上に放り投げた。いつもなら蓮史は帰ってきてすぐに着替えるため埜乃は背中から飛び降りる。しかし今日はその限りではなかった。
「……はぁ……」
気だるげな吐息を吐き出しながら、蓮史は二段ベッドの下側に倒れ込んだ。
見慣れた空間にいるというだけで妙に居心地が良く、その反動で疲れがドッと押し寄せてきたのだ。つい十数分前まで例の珍妙な騒動に巻き込まれていたことが、本当に幻のように思えてくるほど、この場所は平和だった。
「そっち、埜乃のベッド」
怪訝そうな顔をしながら埜乃もベッドに上り、うつ伏せる蓮史の背中に正座した。蓮史は無言で顔面を枕に押しつけているだけった。埜乃は相手をしろとばかりに蓮史の頭をゆさゆさと揺らす。
「にぃに、眠いの?」
「んー……そうかもなぁ。ちょっと面倒なことがあって、本日はちょっと、くたびれた」
蓮史のくぐもった声。
「ん、わかった。それじゃあ一人で遊んでる」
こちらの都合を聞き入れると、埜乃は自分が使っている小さな掛け布団を蓮史の体にかぶせた。というか、蓮史の上に乗せたというか、置いたというか。とにかく蓮史を寝さしてあげようという埜乃の心意気は伝わってきた。
ああ、聞き分けの良い妹を持って俺は幸せ者だなあ。
まどろみの中、そんなことを思いながら眠りに落ちていく――はずだったが。
「れぇんじいいいぃぃい!」
クソやかましい声が部屋に乱入してきて、蓮史の眠気は瞬く間に吹き飛んでしまった。
バァン! とけたたましい音を上げながらドアが開け放たれ、喫茶店の制服を着た大柄の男がドタバタと突入してくる。狸寝入りでもしようかと考えたが、結局蓮史はむっくりと上体を起こした。
「なんだよ親父。なんの用だ」
恨みがましい息子の眼差しにめげることなく、達城虎次郎は蓮史の両肩を掴んでベッドから引きずり出すと、全力で抱きしめにかかった。さながらサバ折りの如く。ぎゃああああああああああ!? と蓮史の口から痛みと気持ち悪さによる絶叫が放たれ、意識が一瞬飛びかける。
「おぉう、無事に帰っていたか我が愛しき息子よ! 父は心配したぞ!」
何を言っているんだこの馬鹿は。
「埜乃もやる」
後ろから埜乃が飛びつき背中に抱きついてくる。こっちは遊んでいるわけではないんだぞ。そんなことをしている暇があるならこのアホ親父の股間に蹴りでも入れて動きを止めてくれ。
「――な……ぇろ」
「ん? どうした蓮史。聞こえんぞ。男ならばもっと大きな声で喋れ」
「離れろボケ!」
息も絶え絶えな蓮史の精一杯の叫びである。
「何をそんなに怒っているのだ?」
虎次郎は不思議そうに、
「む、そうかなるほどわかったぞ。そんなに顔を赤くして、さては父とのスキンシップに照れているのだな? いやはや、お前にもまだそんな可愛げが残っていたのだな、このこのー」
虎次郎が右の頬をつついてくる。
「このこのー」
埜乃が左の頬をつついてくる。
そして蓮史はキレた。殴った。吹き飛ぶ虎次郎。つい暴力に出てしまった。ときにはそんなこともある。だって人間だもの。あのウザさを耐えられる奴などそうそういないだろう。
「おー、どめすちっくばいおれんす」
蓮史の背中に引っ付いたまま埜乃が呟く。そんな単語どこで覚えてきた。
「蓮史、貴様! 一家の大黒柱に手を上げるとは何事だ! それがお前の身を案じて駆けつけた父に対する仕打ちかぁ! 父は悲しいぞ!」
「お前のような奴を親に持った俺の方がもっと悲しいわ」
「なんと!? いかにお前と言えど栞の悪口は許さん! 断じて許さんぞ!」
「テメェに言ってんだよ!」
火を噴くように蓮史が怒鳴り散らす。
「ったく……ところで、今のはどういう意味だ」
もがき苦しみながらも蓮史は虎次郎のセリフをちゃんと聞いていた。『無事に帰っていたか』とか『身を案じる』とか、まるで蓮史が危ない目に遭うことを予知していたかのような口振りだ。
まさか、路地裏での一件を知っているのか?
「おお、そうだった。そういえばお前に会わせなければならない者がいるのだ」
「会わせなければならない者? 誰だよ」
「下にいる。とにかくついて来い。おっと、埜乃はダメだぞ。ここで大人しく待っているのだ」
「や」
埜乃は蓮史にギュッとしがみついて不満げに唇を突き出す。
「なんで埜乃だけ仲間はずれ?」
「大人しくしていたら今日の夕食は埜乃の好きなチーズハンバーグだぞ」
「待ってる」
欲望に忠実な埜乃だった。
埜乃を置いて階下に向かう道すがら、蓮史は虎次郎に尋ねた。
「そういや店はどうしたんだよ」
「今日はもう臨時休業だ」
軽い驚きに蓮史は目を見張った。蓮史の両親は勤労意欲旺盛で、滅多なことでは臨時休業にはしないのだ。過去の事例としては、去年埜乃がインフルエンザに罹患したときに看病のため仕事を休んだことがあるが、蓮史の記憶ではその一度限りだ。『娘が苦しんでいるのに仕事などしていられるか!』と苦情を述べた客に逆ギレしてたのを思い出した。
「で、俺に会わせる人って誰なわけ」
「そこにいるだろう」
虎次郎はフロアを指差した。人気のない店内は静まり返っていて、気配が希薄なそいつを見つけ出すのに、蓮史は十秒ほどの時間を要した。
「……ん?」
目を疑った。カウンター席に腰かけていた彼女を見て、目を疑わずにいられるはずがなかった。
端整だがどこか冷たい感じのする容貌。艶やかな漆黒の長髪。軍服に刀。
見覚えがあるどころの話ではないが、蓮史は他人の空似だと信じたかった。