第10話:九死に一生、あるいは決着の先延ばし
そして蓮史は、『白椿』をその手に取った。
瞬間、
「――――――――――――――――――っ!?」
全身を電流が駆け巡った。頭の芯がビリビリと痺れ、目の奥で火花が散り、内臓が締め付けられるように軋みを上げる。大きく開けられた口から吐き出るのは、なんの意味もない真っ白な絶叫だった。
あまりの衝撃に蓮史の意識は途絶し、
「蓮史!」
涼姫の呼びかけに再び覚醒する。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。一瞬にも無限にも感じられる流れの中で、蓮史の体は不意に違和感をなくした。麻痺していた脳髄が復帰し、視力を取り戻し、意識が冴え渡る。
世界が、変わった。
体が弾むように軽い。ジャンプしたらそのままどこまでも飛んでいけそうな錯覚を感じるほどに。右手の『白椿』は重量を腕に与えることはなく、まるで体の一部と化したかのような一体感がそこにあった。
「おや、死ななかったか。そうこなくっちゃな。そうでないと、面白くない」
レイヴンは最初から結果がわかっていたかのように落ち着いていた。
「さあ、少年。お前の可能性はどんなもんだ? 俺に見せてくれよ」
「……お前……」
「あ?」
「お前……どうしてそんなに遅いんだ?」
「なに?」
その声は終わる前に蓮史は動いた。
レイヴンに続く間合いを一瞬で詰める。自分の意識さえもついてこれない超高速の移動。そして剣術の心得をまったく理解していない素人丸出しの袈裟斬りを見舞う。レイヴンはそれを半身になって避け、返す刀を血の触手で打ち払った。
「これはこれは……いやァ、随分と野性味溢れる男になったな、少年」
顔色を少しも変えることなく、依然としてレイヴンの余裕は消えない。
蓮史は自分の身に起こっている異常を実感していた。
どういうことなのか、目に映るものすべてが遅く見えるのだ。まるで水中にいるかの如く動きは緩慢、その中で蓮史だけは獣のような速度で走ることができていた。しかしそれは勘違いで、実際は動体視力が著しく上昇したせいで脳の情報処理が追いついていないだけなのだ。
つまり、スローモーションに見えてその実、これは今までの早さとなんら変わり映えはしていない。変わったのは、蓮史の方なのだ。
この際、我が身の異変に対する心配は後でいい。
今ならばレイヴンに勝てるかもしれないのだ。
そう思った矢先、再び脳味噌がスパークした。
「あっ……が」
強烈な頭痛に蓮史は額を押さえる。割れるような痛みに目が眩み、ふらつく足が危うく蓮史を転倒に導こうとする。景色がぼやけるように波打ち、そのくせ体は血液が沸騰したかのように熱く、一瞬でも気を抜けば意識が吹っ飛びそうだった。
「どうしたんだ少年」
興が削がれたような声で、レイヴンはまるで蓮史を叱咤するように告げる。
「まさか、その程度の苦痛で音を上げるわけではないだろう? そんな無様は勘弁してくれよ。それでは殺す価値すらもない。そのお嬢さんを助けたいんだろう? さあ少年、死ぬ気で俺を殺しにかかれ。そして俺に殺されてくれ」
こちらが立ち直るのをレイヴンが待ってくれているのは不幸中の幸いだった。生憎と今は神経を鑢で削るような痛みに耐えるのが精一杯で、他のことなど何も手につかない。蓮史は下唇に犬歯を刺し、その痛みにすがりついてなんとか意識を維持していた。
「あー、やれやれ。真剣さが足りないなァ。人間、死ぬ気になればもっと足掻けるものだ。要は気持ちの問題さ。そう、例えば……そこのお嬢さんがもっと大きな傷を負えば、やる気も跳ね上がるというものだろう?」
「なっ……」
「少年、お前の成長を手伝ってやろう」
レイヴンは両手を逆さまに合わせ、爪で思い切り手首を引っ掻いた。左右の手首の動脈から派手に出血し、流れ落ちるそれは次第に固体化して姿を変え銛のような形を取ると、倒れ伏す涼姫に向かって猛然と発進した。
「やめ……ろぉ!」
激痛の相手をしている暇などない。
蓮史は刀を振り上げて片方の銛を斬るつけるがその勢いを殺すことはできず、逆に吹き飛ばされてしまう。その間にもう片方の銛は涼姫の胴体目がけて突き進んでいく。
「涼姫!」
叫んだ。
この声が彼女を守ってくれれば……そんなことを思ったが、当たり前のように目の前の現実は変わらなかった。涼姫はなんとか立ち上がろうと寝返りを打って地面に両手をつくが、力ないその体はふらふらと揺れるばかりで動こうとしてくれない。
地面に這い蹲る涼姫と一瞬だけ目が合う。その瞳が語るのは何か、蓮史に読み取ることはできなかった。蓮史の頭は完全に真っ白となり、もはや間に合わないとわかっていても涼姫の方へと走り出そうとして、そして、
「待たせたな、息子よ」
蓮史には、それが神の声に思えた。
辛うじて見えたのは、上空から降ってくるひとつの黒い影。続いて衝撃音が宵闇を引き裂いて響き渡る。
グラウンドの地盤が爆発するように砕け散り、その余波で二本の銛も粉々に破砕した。いや、本当はその反対で、銛を狙った攻撃の余波で地盤が爆ぜたのかもしれないが、どうでも良かった。肝心なのは、砂塵の向こうで涼姫が生きているとことなのだから。
大量に舞い散る土埃のカーテンから、見覚えがありすぎて見飽きてしまっているシルエットが現れた。そいつは唖然とする蓮史に向かって豪快に笑いかける。
「よくぞ生きていた、蓮史よ。後はこの絶対無敵の父に任せ、休んでいるがいい」
そう言って、達城虎次郎は左手に持っていた刀を肩に担いだ。
「お、親父……?」
蓮史はそこにある虎次郎の姿が信じられなかった。
「涼姫、大丈夫か」
「あ……はい、なんとか」
涼姫は虎次郎の背中に返事を寄越す。もう治癒の方はだいぶ進んだのか、その声にはさっきまでののどが掠れるような感じは混ざっていなかった。彼女もまた唐突に現れた虎次郎に戸惑っているようだが、冷静さは保ったままだった。
「そうか。ならば良い。俺は霊気の探索が不得手ゆえ参上が遅れてしまった。許せ」
「いえ、それより、」
「達城……虎次郎かァ?」
涼姫の言葉をレイヴンが遮った。
「聞いた話じゃ除隊した後は隠居して細々と暮らしているとのことなんだが……何かの間違いだったかな?」
虎次郎とレイヴンはそれぞれの顔に種類の違う笑みを貼りつけながら、
「いや、何も間違ってなどおらんぞ。今の俺はしがない喫茶店の長であり、こいつら家族を守るべき一介の父親に過ぎん。ゆえにこうして家族の窮地に駆けつけた次第である。スーパーマンのようでカッコよかろう?」
「はっ、十三年前と大して変わってねえなァ。だが、腕前の方はどうかな?」
レイヴンがオーケストラの指揮者のように両手を捻り、宙に弧を描いた。
それに反応して地面からレイヴンの血が浮き上がった。それは元々、粉微塵になる前の銛だったのだろう。ひとつだけではなく、無数の細かな血塊が虎次郎を取り囲むように配置されていく。
「さあ、俺が満足いくような踊りを見せてみろ」
レイヴンが両手をグッと握り締めた瞬間、虎次郎を包囲していた血の球が嵐のように中央へと押し寄せた。
ガガガガガガガ! と、一瞬と呼ばれる時間内で鈍い音が断続的に連鎖し、虎次郎の周囲に幾重もの閃光が走る。虎次郎はその場から一歩も動くことなく、それも左腕一本で、すべて弾丸を打ち落としたのだ。
ひゅう、とレイヴンは口笛を吹いた。
「及第点の遥か上だぜ、達城虎次郎。十三年も前に戦線を退いた奴とは思えねえが、煉月聖教を離れてからちゃんと凡人として暮らしていたんだろうな?」
「ふん。我が魂は不滅なれば、我が肉体もまた不滅。一號隊隊長の称号は、十三年如きで薄れるほど安いものではないということだ。さて、それでどうする? まだやるか? 残念ながら今宵の俺は素敵に無敵だ。怪我をする前に帰った方が懸命だぞ」
「さあて、ね。どうしたものか。数字上では三対一なわけだが、お前達は大勢で一人を嬲るのが趣味なのかい?」
「その言い分が通じるのは弱者のみだ。貴様の場合は当てはまらん」
「それはそれは……身に余る評価、痛み入るね」
レイヴンは舞踏会に参加した紳士のように恭しく一礼すると、大きく伸びをして首の骨をコキコキと鳴らした。
「ま、今夜はそれなりに楽しめたことだし、そろそろ帰るとするか。血を使いすぎると貧血になっちまうしな。ここだけの話、低血圧なんだよ、俺」
「朝食をしっかり取るのだ」
「はいよ、アドバイスありがとさん。じゃあな」
くるりと回れ右をして、後ろ手を振りながらレイヴンは徒歩で去っていった。まるで買い物の帰り道のような気楽な足取りで、一度も振り返ることなく。
「……たすか……った?」
急転直下の幕引きに蓮史は安堵を通り越して拍子抜けしてしまっていた。しかしすぐに思い出したようにあの痛みが体中を蝕み、反射的に『白椿』を放してしまう。
「く、そ……だめだ」
それでも頭の中に根づいた痛みは失せることなかった。辛抱する必要性がなくなった途端に忍耐力は脆くも崩れ去り、蓮史はそのまま卒倒してしまった。
完全に地面に倒れ完全に気を失う直前、誰かが自分の名を呼んだような気がした。