国語の授業にTwitterを取り入れて欲しい
先日、なろう随筆界隈というものがあることを知った。
私はエッセイを読んだ経験も浅ければ、書いた経験など皆無なのだが、一つ常々考えていたことがある。いずれどこかに書き留めておきたいと思っていたので、この機会を利用させて頂く。
おそらく、読みづらく、主旨も分かりづらい単なる駄文になると思われるが、読者諸兄に置かれてはお目汚しをご容赦いただきたい。
さて、本題に入る前に表題についてお話しておこう。
「コイツは何を言っているんだ」と思われた方が大半かと思う。むしろ、「確かに」と思われた方は、余程独創的な思考の持ち主か、私の同類(どちらも同じ意味かもしれない)なので、ここでブラウザバックして頂いて構わない。
この表題を付けたのは単純に目を引くからだ。私は決して、国語は眠くなるから授業中の暇つぶしにどうかだとか、IoTの進む今、リアルタイムでネットワークの繋がりを持つべきだとか言うつもりは無い。
ただ、Twitterという固有名詞を用いたのは、私の日常生活で最も「国語」を感じるコンテンツだったからだ。さて、それを踏まえて本題に移ろう。
私は、それこそ中学あたりから「国語の授業に意味は無い」と思っているような子供だった。
初めは「書いてあることを書いてあるままに述べる事になんの意味があるのか」「むしろ、誰も思いついてない独創的な解釈の妨げではないか」といった事を朧気に考えていた。
高校生くらいになると「読めるやつは読めるし、書けるやつは書ける。逆にできないやつはやれるようになりたいと思っていないのでは?」と思うようになった。
この考えは、多少比重が変わっているが、今でも根強く私の中に残っている。
では、今私の心を占めている国語に対する思いとは何か。
それを言語化するならば「国語ができない事はかなり根深い問題である。しかし、現行のままでそれが改善できるか疑問だ」といったところだろう。
この思いを抱くに至った最たる原因こそTwitterである。
先日、このようなツイートを見た。ぼかして書くが、鮮度の高い(?)ツイートなのでわかる方もいるかもしれない。(ツイートに著作権が生じるか明るくないので、もしもの場合は文章ごと削除します。)
元ツイ
「重役5人(内、男4人、女1人)での会議中、「女性差別は今はもうない」という発言があった。それに対女性が「あなたたちは次の重役に女性を指定できるか?」と問いかけ、他4人を沈黙させた」
本人の連ツイ
「上記は4人いた男性のうち一人から聞いた話である。次代の女性を育てる環境が整っていないことを共有したのはフェアだと思う」
これに対して以下のようなリプライが付いていた。
「重役を選ぶのに女性優遇措置はやめてほしい」「女性ってだけで重役に抜擢していいのか」
話題となっている元々の呟きのどこに「女性優遇」に関する話があったのか。ツイ主の主張は在野に居るはずの優秀な女性を、上長の候補としてピックアップできる、ひいては、そこまで育てられる環境は未だ整っていないのではないか、という問題提起ではないか。少なくとも、私はそう読み取った。
一時期隆盛だったフェミニストもどき達への反論が染みついていたのかもしれない。アンチ「フェミニストもどき」の条件反射であれば気持ちは分かるが、最後まで相手の主張を聞かずに自分の意見を押し付けるのは適切なコミュニケーションとは言えないだろう。
ちなみに私は、男女平等は実現不可能だと思っている。目指すべきは男女平衡、互いにプラスマイナスがあれど、それが釣り合って見える状態だと考える。本旨に関係ないので、ここでは深く触れないが。
紹介したのはあくまで一例に過ぎない。世間一般に言えば、私の解釈の方が間違っているのかもしれないが、同様にツイートの趣旨を理解していないと思われる返答を見かけたことは、少なくないのではないだろうか。Twitterのヘビーユーザーであるほど、そういった場面に遭遇したことは多いと思う。
ここで国語の話に戻ろう。このエッセイもそうだが、国語の授業などで題材に上がるのは、自分の主張をある程度制限のない文字数で伝え切ろうとしている文章だと思う。
そういった文章は、「読み込む」人からすれば主張は伝わりやすい。対して、Twitterは140字ジャストですら「長い」と思われる世界だ。何度文章を読み返しても、真意を「確実に理解」できることの方が稀だ。だからこそ私は、Twitterを国語の授業で取り入れてほしい。
理想を言えば、Twitterというサービスをそのまま使うのが望ましいが、それも難しいというのは分かる。であれば、似たような教材、それこそ在りし日の交換ノートや学級日誌程度のモノでもいい。100字前後の短い文章でその日のできごとや、授業のまとめを書いて、他者から反応を貰えるような仕組みがあれば良いと思う。
そこで洗練されていない文章の意を汲み取ることの訓練と、その難しさを知ってほしい。
そして願わくは、短い文章で何かを表現することの難しさまで踏み込んでくれると、非常に良いと思う。その難しさが分かれば、最初の一文だけでなく、最後まで読むことの大切さがわかるのではないだろうか。
さらに、許諾が取れるかは怪しいが、私が示したような的外れなやり取りの例、誤字脱字や紛らわしい表現というだけで炎上してしまった例などを見せてほしい。もちろん、Twitterの悪い面ばかりでなく、140字の小さな枠に存在する深く美しい文学の世界を前提にして、だ。(こういう一文がよく読み飛ばされる)
慣れない文章を書いたため、つい冗長になったように思うが、そろそろ結びにしようと思う。
結局、学生の頃の私は「国語」というものに夢を見過ぎていたのだ。それは、創作や批評といった高尚なものではなく、もっと生活に根差した身近なものとして捉えなければいけなかったと思う。
その一例がTwitterの的外れなリプライであり、一つの主張を呟くのに10分以上をかける私の日常である。我々の後に続く少年少女たちには、「国語ができない」ということがどういう意味をもつか、より自分たちに即したものとして考えてほしいと切に願う。
◇◇
蛇足
万が一、いや、極が一だが、このような取り組みが実施され、「いいね」が欲しいからと言ってネタに走り出す風潮が出てくる可能性もある。
それに対しては、教科書の一番後ろにそれらを戒める物語を載せて教訓とし、指導者用の教科書にはそういった風潮を温かく見守り、最後に釘を差す方針としてほしい。
そうして彼ら彼女らは知るのだ。現代社会が生んだ悪魔、私や同輩の心を鷲掴みにして離さない「承認欲求」というものの恐ろしさを。
第二幕
論理回路・プログラミングの授業にマイクラを取り入れて欲しい(書かない)
第三幕
地理の授業に桃鉄を取り入れて欲しい(書かない)