想像を下方向に超えてくる
一晩が経った。
奈緒は自らが宣言したことを一語一句間違えずにバドちゃんを愛でるためだけに私の部屋にやってきた。猫可愛がりするためだけに私の部屋にやってきた。それはそれで利用しようと、バドちゃんの相手をしてもらっている間にシャワーを浴びたり、スキンケアをしたり、グランマから預かった布団を敷いたりしていた。
その途中で気づいたこと――正確には奈緒がバドちゃんを捕まえて歯磨きさせようとしていた時にたまたま目に入ったこと――バドちゃんの犬歯の発達具合が何かの亜人のそれだった。
バドちゃんになんの亜人か尋ねて見たものの、バドちゃんも自分が亜人であることを知らずに過ごしていたため、それを知ることはできなかった。
奈緒が言うには亜人の中には人との婚姻を繰り返し、血が薄くなった結果、亜人の特徴がほとんど発現しなかったり、先祖返りのように両親は人と変わらないのに子だけが特徴を発現したりする人がいるらしい。ゆえに人と見た目がほとんど変わらない亜人では、自分が亜人であると知らずに生きていることが往々にしてあるらしい。
それはともかくとして歯磨きまでバドちゃんにしてあげた奈緒は可愛がりが過ぎたのか、寝る間際になるとバドちゃんに嫌われて、一定の距離を置かれるようになった。人見知りをする猫のようだった。
朝、グランマにバドちゃんを預ける。
次会う時は放課後、神宮寺くんに保護してもらう時だった。
そして、登校したらいつの間にかバドちゃんを預かっているという話が広がっていた。えらく良い話のように脚色されており、白鳥さんの存在が掻き消えていた。話の出所は奈緒しかおらず、奈緒に確認してみると「お嬢様とのツーショット写真もありますが、こちらは保護後に広める予定です」と選挙戦略を語ってきた。そこに映る私はパジャマ姿で恥ずかしいから止めておいた。
昼休みなると、星さんが珍しく私の教室に訪れた。
バドちゃんの件であったため、ひと気がないところに移動する。そこは毎度おなじみ文芸部の部室。奈緒も選挙周りの作業は文芸部で行っているため、もはや私たちの選挙本部みたいになって閉まっている。
生徒会室と比べると庶民的かつ伝統的な金属の骨と木の背もたれでできた椅子に座る。
「バド氏のことでござるが、些か厄介なことになってる模様」
バドちゃんがネグレクトを受けていたことは予想通り。母子家庭で、母は水商売をしていることは想像に難くない。小学校では有名な放置児であったらしい。見窄らしい見た目ゆえいじめを受けていることも予想の範囲内だった。
では何が厄介だったかというと、学区内で多くの小学生が倒れる事件が昨日の夕方起きたことだった。この事件の容疑者としてバドちゃんが名が挙がっているらしい。倒れた小学生が犯人として挙げたのがバドちゃんだという。
「一度、警察に預ける前にバド氏に事情を聞いて、フォローをすべきだと愚考するでござるな」
その言葉にはあんなに良い子が犯人なわけがないという感情が隠れていた。
「小学生が倒れた原因はわかったりしない?」
「もちろんでござる。貧血でござる」
集団貧血なんてものは普通に過ごしていては起き得ない。だから、外部要因を探すのが当然と言える。そこでバドちゃんが容疑者として挙がる理由は二つ考えれる。一つは虐められた腹いせという怨恨という線。もう一つはでっちあげ。ただ、集団貧血という事件が事実起きていることを鑑みるに事件自体は起きていて、犯人に当てはめられたのがバドちゃんだと考えるのが自然だ。
そんな筋読みをして見たが、やはり間違っている気がする。
推理するために必要なパーツを見落としたまま推理しているようだ。
「調べてくれてありがとう。助かったよ」
「そんな普通にお礼言われると照れるでござるな」
「普段からお礼言われるようにしなよ」
「拙者にそれは無理な願いというものでござるよ。お礼でお金貸してくれてもいいでござるよ?」
「グランマに言い付けるよ」
「そ、それは卑怯でござる! 禁止カードでござる! こうなっては三宮殿の秘密を暴いてやるから覚えてやがれでござる!」
そう言い捨てて星さんは去っていった。
放課後になり、寮の談話室に向かう。
バドちゃんは身支度を整え、椅子にちょこんと座っていた。グランマが用意したのであろう白いワンピースに袖を通していた。伸び切っていた髪も整えられて厚みを減らし、しばらく手入れを頑張れば天使の輪ができそうな艶が見てとれた。
迎えにきた私の姿を認めると、立ち上がり駆け寄ってくる。
その姿は放置児、ネグレクトを受けた子供といった印象は薄くなった。非常に細い手足に注視すればその印象を受け取ることはできるが、そうでなければわからない。パッと見ではどこぞの裕福な家の子供にさえ見える。
バドちゃんが私の腰に抱きつき、お腹に顔を埋める。
「ただいま。良い子にしてた?」
バドちゃんは抱きついたままで返事をしない。それの代わりに談話室の奥にあるキッチンからグランマが出てきて答える。
「良い子だったけど、三宮さんに会いたくて、何時に会える、あと何時? って何回も聞かれて困ったかしらねぇ」
自身の恥部を共有されて、バドちゃんはようやく顔を離して穏やかに笑うグランマに「言わないでって言ったのに!」と抗議を口にした。
「あらあら、そうだったかしらねぇ」
とぼけるグランマ。
とぼけながら私に視線を送る。
「その服と髪、どうしたの?」
「うん、服はグランマが持ってきてくれたし、髪もグランマがやってくれた。……変じゃない?」
「変じゃないよ! 綺麗になってて見違えちゃった!」
「……ありがとう」
そう言って、照れ隠しでまた腰に抱きつかれた。
それから私とバドちゃんは一緒に昨日会った公園へ向かう。その公園で神宮寺くんと落ち合い、警察に保護してもらう予定だった。その道すがら、バドちゃんに星さんが教えてくれた件を聞いてみることにした。
手を繋いだバドちゃんに「ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」と切り出す。バドちゃんは私を上目で見る。
「昨日、私と会う前ってどこで何してたの?」
繋いだ手が強張った。
合わせてバドちゃんの足が止まる。
「……言いたくない」
俯いたまま出た拒絶の言葉。知らないと言えば避けられるソレと比べると、誠意のある言葉だった。だから、追求はしない。繋いだ手も離さない。
「そっか。言いたくないか。なら仕方ないね。じゃ、この話は止めよう!」
その手を引き、公園へと歩き出す。
隣に並んだバドちゃんは私の顔を恐る恐る伺う。
「言わなくてもいいの?」
「言いたくないなら言わなくて大丈夫。みんな、秘密の一個や二個、当たり前のように抱えているのだから」
女装癖と女装しながら女子校に通っている私に人の秘密をとやかく言う権利はない。
もしかするとバドちゃんが集団貧血の重要参考人なのかもしれないが、一緒に過ごして分かったが彼女は良い子だ。この年にしては思慮深い。それでいた甘えん坊。だから、事件ではなく事故の可能性が高い。その子を下手に問い詰めることはないだろう。
それに私は尋問が苦手だから。
こういうのは上手い人がやれば良いのだ。
適材適所だ。
神宮寺くんに「あとは任せた」と言う未来に思いを馳せていると、繋いだ手が引っ張られる。
「どうしたの?」
「覚えてないの」
唐突な告白に狼狽える。その狼狽に構わずバドちゃんは続ける。
「いつもみたいに学校でいじめられてた。お腹が減って逃げる元気もなくて、囲まれて叩かれた。フラフラして目の前が真っ白になった。目が覚めたら、いじめてた人たちみんな倒れてて、怖くなって逃げ出したの。それで公園に逃げたらお姉ちゃんたちに会った」
一呼吸置いて「これが公園来る前にあったこと」と締めた。
その突然の告白に、悪い心臓の鳴り方をしていた。ホラー映画を鑑賞した時のような大きく衝撃が胸を打ち、その波が徐々に弱くなり消えるまでその気持ち悪さが体に重く纏わりつくものであった。
「なるほど……ちょっと考えたいから少し待ってね」
そう取り繕い、黙ったまま公園へと歩き出す。心臓の鳴り方を整えることに七割の時間を使い、残り三割は公言通りに考えた。
バドちゃんが事件に関わっているのは間違いない。それは確かだ。だが、みんなが貧血になった理由が不明だ。スタングレネードでも投げ込まれたとかでみんな気絶したとかの方が納得はしやすい。小学校にスタングレネードを投げ込まれる世も末な事件になってしまうのでそれはないだろうが。
なんにせよ私では全容は見えなかった。
これは前提となる知識がなければ解けない類だろう。女装用の下着は、胸パッドを入れる場所ではなく、擬似的な胸そのものを入れるためのスペースがある。そういう前知識がなければ解けないだろう。ちなみに明華女学院に転入するにあたり、どうせならと胸を大きく盛ろうと画策したが、奈緒が自分より大きくするとは何事だと控えめな胸を張って怒ってきたので、自粛するハメになってしまった。お気持ち程度しか盛れなかった。
だから、笑う。朗らかに。
「話してくれてありがとう」
バドちゃんは不安を打ち消した顔で「……うん!」と歯を見せてくれた。
こうしているうちに公園に到着する。
待ち合わせ時間まであと少しという時間帯。神宮寺くんはちょうどに来るつもりか、それとも何かあって遅れるのか、まだ彼の姿はなかった。
それに少しホッとした。
情が移ったのだ。
だから、神宮寺くんにバドちゃんを保護してもらうまで時間の猶予をもらえたことが嬉しかった。
二人で公園のベンチに座ってたわいもない話をした。白鳥さんに話しかけられたときに不審者だと思った話とか、グランマが良い人だったとか、奈緒がベタベタしてきてうざかったとか、そういうたわいもない話。星さんに関しては話題にも上がらなかった。
宴もたけなわではありますが、と締めるぐらいに盛り上がっていた。笑顔が溢れる、そんなバドちゃんがいきなり固まった。ドメスティックバイオレンスから逃げ出した被害者が加害者と対面してしまった時に見せる顔。思考は恐怖で塗り潰される。呼吸さえできなくなる。
ソレは女性だった。若く、厚塗りの化粧、着飾った衣類にハイブランドの手提げ鞄。一眼で水商売とわかる様相の女性が、疲労感を携え、憤怒の表情で立っていた。
「バドォっ! アンタのせいでこっちは大変な目にあったんだからなぁ!」
高いヒールをものともせず、ずかずかと近づいてくる。
私は遮るように立ち塞がる。
「どきなさいよ。その子の親よ」
当然の権利と言わんばかりに睨みを効かせてくる。
「どきません」
「こいつ良い服着てるみたいだけどアンタが着せたの? こいつを勝手に着せ替え人形にしたレンタル料百万払って消えろ」
「払いませんし、消えません」
「ま、別にいいけど……ねっ!」
女は手提げの鞄を横なぎに振り回し、私の頭にぶつけようとしてきた。
急なことであったが私は横に飛び、頬に掠るも回避できた。いや、してしまった。
女は私がバドちゃんの前から退いたのをいいことにバドちゃんの前に立ち、鞄から取り出した小型ナイフを私に向ける。
「避けたのは凄いけど、それだけね。んじゃバド連れて帰るからアンタも帰んな。もし近づいたら殺す」
勝ち誇った女。ナイフを持っており、バドちゃんを人質にとるのも辞さないだろう。すぐに神宮寺くんが来るこの場に押し留めることが私が今やるべきことだった。
その思惑は、私の頬から滴る血が全て消し去った。
沸騰したのだと思う。
長年大事にケアしてきた肌を傷物にされた。
それは許されざることだった。
女との距離は七メートルほど。それを一息で駆け抜けた。
女は小型ナイフを私に向かって突く。
それを小さく横にステップして避けて、その腕を掴み、引く。
バランスを崩した女の顎目掛けて掌底を繰り出した。
結果、女は倒れた。
気絶した女の手を踏み、こぼれたナイフを蹴飛ばす。
安全を確認したあと、押忍、と小さく構えた。
その直後、遠くから慌てた様子で神宮寺くんと婦警さんが駆けてくる。
「何があった!」
怒られるだろうと覚悟して事情を話したら、やっぱり怒られた。
危ないことはするな、とごもっともなことを一言だけ貰っただけだったが。
そうしてバドちゃんの保護よりも先に、女を銃刀法違反でしょっ引くため、迎えのパトカーが往復が終わるまで、再度待ち時間が発生した。
婦警さんから傷薬をもらったので、待っている間、バドちゃんに処置してもらうことにした。
傷口を公園の水道で洗い流し、貰った大きなバンドエイドを頬に貼ってもらおうとした。
水道で洗い流したら、血小板でできた塊も洗い落としてしまい再びポタポタと血が流れ出した。仕方なく先にバンドエイドを貼って、あとは隠しきれない血の跡だけ拭いて隠そうとした。
バドちゃんに「お願い」とバンドエイドを渡すと、彼女の目は私の傷跡を見てトロンとしていた。
バドちゃんが手に持ったバンドエイドと、その顔がゆっくりと近づいてくる。
次の瞬間、傷口の痛みと怖気が襲った。
バドちゃんは舌舐めずりをした。下先には血がついていた。
彼女は舐めたのだ。
頬を、傷口を、血を。
血を好む亜人もいるのだと、今、足りなかった知識を体験してしまった。




