嘘はついていないし、騙すつもりもなかった.
閻魔大王の計らいにより、私は転生を果たした。
生まれ変わった私は、当然だが赤子であった。泣くことしかできないのが酷く歯痒く、腹が減っては泣き、股間に嫌なものを感じては泣く。泣くことが赤子の仕事ゆえに仕方ないが、中身は定年間際の男がやっているので世話をしてくれる今生の母に申し訳がなかった。
また、これは赤子になって初めて知ったことだが、赤ん坊は視力はほとんどなかった。白、黒、灰色、それらが遠くで動いているぐらいしか判別できないのだ。数ヶ月が経ち、少しずつ視界が鮮明になっていく。色味が増えて、輪郭がハッキリしていく。
そうして、ようやく見えた母の顔は恐いぐらいに綺麗だった。色白で黒髪、薄い肉付き。まるで怪談で語られる雪女と呼ばれるような方だった。少し漏らした。ただ、私を抱きかかえる時に聞こえる心音はとても優しく、私に安心感を与えるものであった。
父を見て、驚いた。母は固まった私を見て「あなたの顔が濃いから驚いたんじゃない?」と意地悪を口にして、クスクスと笑った。父は頭を掻き、「おいおい、まだそんな驚くとか分かる年じゃないだろう」と渋い顔をした。
父は外国人であった。金の御髪を後ろへ流し、日本人離れした彫りの深い顔は、日本人が持つものとは異なる渋味を醸し出していた。また、父は筋骨隆隆で体格が良い。視力の悪かった時でも母と並んでベビーベッドから覗き込まれると、動く何かの大きさが大人と子供のように違っていたのをよく覚えている。
そんな両親のもとに私は生まれた。
それから数年が経ち、私は幼稚園に通う年になった。
その頃には、この世界のことがなんとなく理解できるようになっていた。
だいたいはテレビの受け売りである。しかし、この時代のテレビは凄い。江戸時代の人間がテレビを初めて見たような衝撃だった。私のような昭和を生き抜き、平成初期で死んだ古い人間にとって、有機イーエルとかいう耳馴染みのない仕組みのテレビはそれに値する美しさであった。
閻魔大王に頼んだ通り、私は平和な時代、平和な国、裕福な家庭に生まれた。ありがたいことに、前世と似た歴史を辿った世界で、ここは日本に該当する国であった。二度と和食を食べられないと覚悟していたもしていた。閻魔大王の気遣いに感謝しかない。
また、美しい容姿も手に入れた。今生の母の美しさ、父譲りの金髪碧眼を受け継ぎ、フランス人形のような見た目になった。母からすると『不思議の国のアリス』のようだと褒め称えられた。私としては長い黒髪の美しさに憧れを持っていたので、少し残念に思ったが贅沢過ぎる悩みと捉えて、方向性が異なる美しさを模索できると前向きに考えることにした。あと、第二次性徴以前ゆえ、男女の境が曖昧ゆえこのように褒め称えられているが、今生でも私は男として生を受けた。
これに関しては感謝半分、愚痴半分といったところだ。心のあり方が男である以上、私は女性しか愛せない。しかし、美を目指す以上、女性の容姿の方が有利なことがあると考えていたからだ。
この愚痴に関しては『多様性が認められている』という願いにも関わっている。
私の願いは女装しても問題のない世界だったのだが、この世界はより深い多様性孕んでいた。それは、人と人によく似た数多の種族が共存している社会だということだ。
エルフや吸血鬼など人とほぼ変わらない種族もいれば、ケンタウロスやアラクネなど下半身に種族の特徴が強く出たもの、スライムのように全身が液状の特殊な種族もいた。
これほどの多様性が孕んた世界が共存できる社会を作り上げるには、過去に何度も血に塗れた戦争を繰り返し、ようやく手に入れたものだという。
人間以外の種、亜人。
言葉の由来で亜人と使うべきではない議論はあるものの、定着した言葉ゆえ私はあえて使っていく。この世界は、亜人差別を無くすための運動は盛んであるがゆえ、他の差別にまで視野を広げるには至ってなかった。皮肉にも、見た目がより異なる亜人がいたおかげで、白人・黒人・黄色人種の差別はほぼないともいえた。
そのため、亜人との共存が進んだ今も『男は男らしく。女は女らしく』という価値観が大事にされている。もっとも亜人によっては、女性優位の種族もあったりするので、人間のそれとは逆になったりもするらしい。
私の周りにも一人の亜人がいる。
同い年で幼馴染でありシルキーという亜人の柴田奈緒だ。彼女は我が家の執事長の孫であり、我が家のメイド見習いのさらに見習いのようなポジションだ。将来は私のお世話係に内定しているが、今は私の遊び相手が彼女の仕事だった。シルキーとは妖精の一種らしいのだが、彼女自身も幼さからあまり理解していないので私も気にすることをやめた。見た感じ、純粋な人間と差が見当たらないのだから仕方ない。しかし、この子はシルキーという洋風漂わせる名を持つ種族ながら、生前の私の価値観だと座敷童といった方が適格な見た目をしていた。黒髪でおかっぱ頭。大きな黒目に細身の体躯。
まさに日本的な見た目だった。
彼女が正しくその容姿を大事に育てていけば、私の目指す至高の美に限りなく近くなると想像がついた。
私の目指す美とは『玉虫色の美しさを持つ大和撫子』だ。
可愛さ、可憐さ、しなやかさ、力強さ、鋭利さ、愛嬌、気高さ。これらが見方によってどのようにも解釈できるものを指している。
浅学ゆえ絵画には詳しくないが、なんでもレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『モナリザ』は、見る人によって異なる感想が出てくると言われている。母性を感じる人がいたり、怖さを覚える人もいるらしい。これは男性と女性を融合したものがモナリザになったからだと言われている。おそらく彼が目指した美とは男女それぞれが持つものを重ね合わせた時のものなのだろう。私自身、男の身で女性の美しさを目指していたので、奇しくも同じ到達地点を目指していたのかもしれない。前世では絵心もなく、身体も極めてよく言い繕えば野性的な美に近しく、美を実現する手段がなかったゆえ、形として残すことができた偉人と比べるのはおこがましいのだろう。
しかし、今ならばどうだろうか。
私自身が丹精な容姿を手に入れ、客観的に見ることができる理想の美を持つ素体がいる。
ならば今生における目標は二つ。
私自身の美しさの追求、そして理想の美の追求、の二つだ。
手始めに女装をするための環境を整えていこうと決意したのであった。




