第三章:『神は人のために世界を作り、人の上に姫を作った?』あるいは『姫と魔王』
第三章:『神は人のために世界を作り、人の上に姫を作った?』あるいは『姫と魔王』
ぺがさすに乗って一度人間の領地に向かった勇花は、もう一頭のぺがさすに跨ったふたりの人間を伴って魔王城に戻ってきた。
どらごんの飼育スペースがどらごん乗り場も兼ねており、勇花の滞在中はぺがさすもそこで預かられていた。そのため千平たちはそこで彼らを迎えた。
その場には千平のほか、ココロに加えて三魔騎士が揃っていた。世話係なども日常業務をこなしている。
自分たちの方へと飛んでくるぺがさすがまだ米粒のようにしか見えないとき、手持無沙汰だった千平は思いついたことを深く考えずにココロに言った。
「白井さんが信用できるかって話さ、聞いてくれたのはうれしいけど、結局ココロは、大した根拠も無いのに俺のことを信用しすぎてない?」
ココロはふふんと笑った。
「甘いな。お前がおらず、ユーカと風呂に入った時、我は気になっていたマシュマロの件をユーカに尋ねたのだ。センペーの行動の意味がわかれば教えてほしいとな」
千平はおどろいて見返した。ココロはしたり顔で続けかけ、聞いたその内容を思い出したように苦渋の表情になって言い淀む。
「お前は……その……あのマシュマロを袋詰めか何かにされた我が民だと……魔族だと……思ったのだろう?」
口にするのもはばかられる様子で、三魔騎士には聞こえないようにしながら、なんとか彼女は言い終えた。うっすらと涙を浮かべているようにも見える。
実際はウサノには聞こえていたのだが、彼女は何のことかは知らないので聞き流していた。
ココロは咳払いをして気を取り直し、威厳を取り戻すようにはきはきと言う。
「お前はあれだけの火傷を負いながらも構わずに、マシュマロが食べたかったのではなく、民を助けようとしていたわけだ」
千平としてはあの勘違い自体も恥ずかしかったし、あらためて褒められるようなことも気恥ずかしく、気まずくなって視線を逸らす。
ココロは愉快そうに笑った。
「お前を信用するには、それでじゅうぶんすぎよう?」
千平は無言のまま、反論はしなかった。
ぺがさすが二頭が到着し、地面に降り立った勇花は小柄な少女がもう一頭の背から降りるのに手を貸した。
空色の瞳に金髪ツインテールの、十一、二歳ぐらいに見える小柄で細身の少女だった。纏うドレスそのものはとても凝っている高級品という感じなのだが、手入れなどあまりされていないのか、傷みや汚れによれなどが見られるのがなんともこの世界の人間らしい。
続いて、彼女を抱くようにして手綱を掴んでいた長身の女が降りる。やはり傷んだ服をだらしなく着こんでいるその女は、体格的にウサノとイヌミの間ぐらいだった。長い直毛の蒼い髪を適当に束ねている。やや瞼が閉じがちで、あたりを油断無く睥睨するような様子に千平は不穏さを感じた。
勇花は特に人間と魔族の衝突を警戒する素振りは見せず、小さい少女を手の平で示した。
「というわけで、彼女がミコナ・クリスチネ・ダアク。人間のお姫様です」
勇花に紹介されたミコナは、敵地も敵地、本拠地で魔族に囲まれているにも関わらず、まるで臆する様子もなく一歩前に出た。
自身満々、態度とは対照的に非常に控えめな胸を張る。
「そうよ。わたしが姫よ」
彼女は顎を軽く上げ、魔族や千平たちを品定めするようにじろじろと見る。
特に気圧されたりする理由も無いココロは、にこやかに進み出た。
「我が、ココロ・ホワイト・ピューア。魔王だ」
「あんたが!?」
ミコナはどういう意味か、非常に気にくわない様子でココロを睨んだ。一方で少し不安になったのか、傍らのお付きの女を引き寄せる。
女は不機嫌そうな眼差しでココロや千平たちをざっと見た。
ココロは余裕を持って受け止めたが、三魔騎士はそれぞれに警戒する様子を見せた。
「……ねむい」
目つきがわるいのは眠いだけだった。
ミコナが彼女の腕を掴んで揺する。
「自己紹介しなさいよ!」
「……一の騎士、クナイ・フミン」
ココロが軽くおどろいたように眉を上げる。
「名前だけは聞いている。相当強いらしいな」
「……そう」
強いということの肯定ではなく、実力を伝え聞いているということへの感想のようだが、本人としてはどうでもよいようだった。
ココロは少し愉快そうにイヌミたちを促す。
「三魔騎士がひとり、餓狼師団、軍将、イヌミ・ドクだワン」
「同じく脱兎師団、軍将、ウサノ・ラヴィだピョン」
「同じく猛虎師団、軍将、ネコエ・ミャオゥだニャ」
イヌミはきっちりと礼をして、続くふたりは順に適当くささを増した。
「あんたたちが……」
始めの威勢はどこへやら、ミコナはクナイの後ろに隠れるように顔だけ出した。
クナイは眠そうなまま、何も変わらない。
全員の視線を受けたミコナは気まずいと思ったらしく、あらためて堂々と姿を現して咳払いをした。
眉を寄せ、勇花とココロを交互に見る。
「で、一体どういうことなのよ?」
ココロはにっこりと笑う。
「なに、我々はお互いのことを意外と知らぬとユーカに指摘されてな。お互いを知れば、争う理由も無くなるかもしれないだろう?」
これが勇花のした提案だった。魔族と人間の統治者同士の直接接触による相互理解の促進。
ミコナは憮然としてココロを睨んだ。
「この世界は人間のためのものなんだから、あんたたちがわたしに従えばいいだけでしょ」
彼女が微塵の迷いも無く本気で言っていることに、千平は思わず勇花に視線を送った。彼女は困ったように苦笑して見せる。こちらに来てからの彼女の苦労が偲ばれる。彼は自分が召喚されたのがココロの側でよかったと、わりと真剣に思ってしまった。
「ふむ」
傲岸な物言いにも、ココロは鷹揚に構えていた。この程度は想定内か。
「まあ、我らの歓待を受け、しばらくこちらの街で過ごし、お互いに今後どうすればいいかを考えればよかろう」
中庭から街門へ向けて城の中を歩いている最中、ミコナは目に入るあれこれに驚きっぱなしだった。手入れの行き届いた城内に、立派な調度品や装飾類。それらは皆、魔族から奪った町や村で彼女が見てきたもののように傷んだり汚れたりしているということはまずない。奪いたての頃なら、新品同様のものも時にあるが、そういう感じではないことにおどろく。クナイは彼女に引きずられるように歩き、すごいだのキレイだの言ってあれこれを見せられても眠そうなままだった。
「これも全部人間のためのものなんだから、つまりわたしのものってことよね!」
彼女が一息ついてしあわせそうに言った言葉に、千平は頭が痛くなった。微妙にココロに似ている思考のような気もするが、やはり全然ちがう。
流石のココロでさえも呆れて何も言えないようだった。
城壁に囲まれる街の入り口に立ち、ミコナは目を見開いて呆然としていた。その横のクナイは相変わらず眠そうにぼーっとしている。
「なんなのこの街の大きさ……!! 人も多すぎじゃない、何人ぐらいいるのよ!」
「この街は大体五万人だな。他から一時的に来ている者たちもいるし。我が国全体の話であれば、およそ十万人と少しか」
ココロが当たり前のように言い、ミコナは愕然として彼女を見つめた。
「万って、あの、千の上の万? 千の十倍の?」
ココロは何を言っているのかという様子で苦笑してうなずいた。
ミコナは呆然として人並みに視線を戻す。
「……十万人」
千平はふと気になって勇花に小さな声で尋ねる。
「そう言えば、人間ってどのぐらいいるの?」
「たしか、三百人以上もいるって自慢するみたいに言ってた……」
勇花が気まずそうに小声で応じ、ふたりは目を合わせて黙りこんだ。
領地の外縁で人間にちょこちょことちょっかいをかけられても、全体から見れば大して影響は無かったのかもしれない。為政者や、現地に住むなどしている当事者にしてみれば迷惑極まりないのだろうが。だが、そうでなければ適当に奪った村や町を交代で使う人間の生活を支えきれるものでもなかったかもしれない。
ココロがミコナとクナイの装いを見ながら言う。
「とりあえず、服屋だな」
服屋のひとつで、ミコナはあれやこれやに目移りしてはしゃいでいた。
「これ、どれでもいいの!?」
「今回は我が金を払うから、好きにしろ。本当は労働をして、その対価と交換するのだぞ」
幼子のように目を輝かせていたミコナが一瞬で顔を曇らせる。
「どうしてわたしが働かないといけないのよ。全部わたしのものなのに」
「いや、我が渡すなと言えばお前のものにはならんのだが」
ココロに呆れたように言われ、ミコナは不満そうにクナイに縋りつく。
「クナイ、やっつけちゃってよ! わたしたちが勝てば、好き放題よ!」
「……無理。たぶん三魔騎士全員に勝つのは無理だし、勝てても街にいる全員相手にしたら絶対勝てない」
クナイがぼんやりと言い、ミコナは膨れた。
「ユーカも手伝ってよ!」
勇花は困ったように微笑む。
「さすがに何万人相手じゃ勝てないよ」
ミコナは手に持っていた最有力候補のドレスを見てぷーっと膨れる。
「それでいいのか?」
ココロはものをねだる幼児をなだめる親のように尋ねた。
ミコナはプライドが許さないのか激しく葛藤し、最後には渋々うなずいた。
「うん。……わたしのものだから」
ココロは後半を聞かなかったように店主を労い、金を渡した。
別にいらないと言うクナイにも適当に見繕い、それらを一度店員に預ける。
ミコナは手放すことが不安そうな不満そうな様子だった。
「お前の身体に合わせて調整するのだ。少しぶらついて、何か食べるか。新しい服を汚してもなんだしな」
食べ物と聞いて目を輝かせたミコナの細い身体に、店員が巻き尺を当てた。
街中のテーブルスペースで、ミコナは大量の料理にがっついていた。
「……なんでこんなにおいしいの!?」
また一皿空にして、放心したように言う。
クナイは眠気と戦いながら食べており、ペースこそ遅いがそれまでと比べるとやや興奮しているようにも見える。
すでにココロの政策で人間は街にそれなりに溶け込んでいるため、ミコナたちについて魔族が反感を持っているような様子は無かった。人望のあるココロたちと一緒にいることも大きいだろう。
勇花が自分の料理に熱烈な視線を向けられ、笑いながら取り分ける。
「やっぱり出来たてとかは美味しいでしょ。そもそもこういう凝った料理とかは食べてないもんね」
うんうんと頷き、ミコナはまた必死に食べる。
千平の問いたげな顔に、勇花は尋ねられるまでもなく答える。
「パンとかはそのまま奪えたら食べてるけど、あとは魚とかは焼いたり、野菜とかはそのままちぎったり適当に切ったり、ハーブなんかは個人で好きに散らしたり、適当に煮込んだり、そのぐらいなんだよね……」
「……こういう料理は、村を襲撃して運がいいときにありつける。けどここまでのは初めて」
「──!? あんたたち、こういうの食べてたの!?」
ミコナが衝撃を受け、信じられないようにクナイを睨む。
「……襲撃についてくればよかったのに、いつも面倒だから行かないって言ってたし。冷めたり古くなったりしたら勿体ないし、持ち運ぶのも面倒だし、その場で食べるのが一番よかった」
まるで意に介することなく、クナイは淡々と述べた。そしてまた一口ほおばる。
人間たちの上下関係や組織体制は、魔族とは別の形で緩いようだった。
食べ終えて一息ついてから、一同は服屋へと戻っていた。
クナイはイヌミに補助してもらって新しい服へと着替えた。
ミコナは勇花とココロに手伝われ、ココロに手を貸されるのは不満そうながらも受け入れる。
着替えを終えたミコナはむすっとしていた。
「……苦しいんだけど」
ココロは肩をすくめた。
「あれだけ食べればそうだろう」
ミコナは生地が張っている腹を無言でさする。
イヌミに手伝ってもらったクナイは、軍服風の衣装をきっちりと着こなしていた。
「……ぴったりしすぎて落ち着かない」
やる気の感じられない彼女の視線の先には、イヌミのものと似ている服をだらしなく着崩しているウサノがいた。
じっと見つめられ、ウサノが近づく。
「ピョンみたいな感じにするピョン?」
こくりと頷かれ、ウサノはクナイの服を適当に緩めた。
「……ありがとう」
腹が晒されたりして肌の露出が増え、見ている千平としてはどうかと思ったのだが本人的にはよかったらしい。
ミコナは改めて店の姿見に向き合い、きつい腹が気になるのかさすりながらもまんざらではない様子だった。
店から出て、ココロは軽く思案する。
「あとは娯楽系か?」
ミコナはどんなものがあるか想像ができないようでむしろ反応は芳しくなく、千平と勇花の方が興味を表した。
「俺、こっち来てけっこうなるけど、全然知らないな。どんなのがあるの?」
「絵物語とか、音楽に踊り、演劇の類を始めとしていろいろあるな。すまないな、お前にはいつも我のそばで過ごさせているから」
「いや、俺は結局何もしてないし構わないけど、ココロは趣味とかないの? 休み無しってことだよね」
ココロはにやりと笑う。
「支配が我の趣味であり、生きがいだからな。非常に充実している。とは言え、民が娯楽を楽しんでいるのを見るのもまた我の幸せだから、お前も楽しみを見つければ、ある程度は配慮もしよう」
それは真面目なだけなのではないかと千平は少し思った。
金銭を稼ぐ方法を説明する流れで、一行は学び舎を訪れていた。
「あんたたち、何してるのよ!」
机に向かって一生懸命何かを書いたり計算したりしている人間たちの姿にミコナは憤慨した。彼女にとっては、自分の配下が魔族の管理下に置かれているような状況は許し難かった。
「ひ、姫様……!」
にじり寄られた人間の少女は顔をひきつらせて怯えた。
ほかの生徒たちもミコナを見て動揺している。
勇花がミコナに歩み寄って、やや引きはがすようにしながらなだめすかすように言う。
「姫、みんな、ここで勉強したら仕事をさせてもらえて、お金がもらえるんだよ」
「なによそれ! この世界は人間のものなんだから、魔族が作ったものを全部好きに使えばいいじゃない!」
勇花は狼狽しつつも辛抱強く説得するような姿勢を見せる。
「あのね。魔族たちが人間を追い出したら使えないんだよ。それに、もしも人間が十万人いて魔族が三百人しかいなかったら、魔族だけの仕事じゃ人間は暮らせないよ。人間は、魔族が作った畑とかを手入れしないから途中で使えなくなるんでしょ? 魔族と一緒に仕事をしたら、きちんとした畑をいつまでも使えるんだよ」
ミコナは膨れる。
「じゃあ、勝手にしたらいいじゃない。私は働かない」
「じゃあ、姫はお金をもらえないよ」
「なんでよ」
勇花はがっくりと頭を垂れた。
「魔王は仕事してるの?」
不満そうなミコナに話をふられたココロは自信たっぷりに微笑む。
「我は全体の統括と管理だな。それなりに計算ができて、知識なども無いとできないぞ」
「わたしだって、読み書きに、計算ぐらいできるわよ」
膨れたミコナに、ココロは少し感心した様子を見せた。勇花はおどろき、ミコナには計算などはできなそうなイメージを抱いていた千平も意外に思う。
「読み書きとか計算ができる人間は少ないし、掛け算ができる人間なんてほとんどいなくて、きちんとできるのはわたしぐらいで、それが姫の権威のひとつなんだから。全部覚えるまで母様に仕込まれるのは、大変だったのよ!」
胸を張るミコナに対し、千平たちは三者三様に眉を寄せた。
勇花が試すように口を開く。
「八かける九は?」
ミコナは自信満々だった顔を少しひきつらせた、不安そうな表情でやや必死に記憶を辿る。
「えーと、七十……さ……、ん、んーあれ……?」
言いかけて途中で言葉を切って自信なげに唸る彼女に、勇花たちは肩を落とす。
「七十二です」
近くで推移を見守っていた人間が思わず口にした。
「そう、七十二だわ!」
晴れやかな顔で叫んだミコナだが、ココロは同情するような顔で見ていた。
「……姫の権威?」
ミコナははっと気を取り直した。
「どうして……どうしてあんた、知ってるのよ!」
責めるような物言いに、人間の少女は怯える。
「ごめんなさい、姫様。ここでおしえてもらったんです。計算の基礎だからって」
「基礎……? どういうこと?」
理解できない様子のミコナに、ココロは気まずそうに言う。
「ここでの学習に区切りをつけて仕事をするためには、三桁以上の掛け算もおよそ間違わずにできるようになることがひとつの条件だからな。一桁の掛け算の暗唱は基礎というか、前提だ」
ミコナは愕然とした。
「三桁のかけ算?」
ココロはどう説明しようか悩む素振りで視線を泳がせた。
ちょうどそばの机、生徒の一人が使っているテキストに目を止める。
「これを借りてよいか」
生徒は頷いた。
「うむ。ありがとう」
ココロはページの中の文字の塊、みっつの記号で一列となっている、縦に並ぶ二列を示した。
「これは読めるか」
「八百五十二と二百三十四でしょ」
ミコナは憮然として答えた。
千平が腑に落ちない顔で勇花に耳打ちする。
「オレは、読めるっていうか、わかったんだけど、白井さんもあれ読める?」
勇花も困惑しながらうなずく。
「うん。書けないけど読める漢字みたいっていうか、何が書いてあるかはわかった」
ココロは千平と勇花のやりとりを耳に入れた後、純粋に能力を推し量る様子でミコナに言う。
「この並んでいる三桁の数字、上の数字と下の数字をかけるといくつになるか、紙と鉛筆を使ってよいが、解けるか?」
「足すんじゃなくて……?」
ミコナは理解できないということを顔全体で示した。
ココロは諦めたような顔になる。先程聞こえていた内容を確認するように千平たちを見た。
「センペーとユーカ、お前たちはどうだ?」
「書くものと紙を貸してもらえるなら、だいじょうぶだと思うけど」
千平が言い、勇花がうなずいた。
周りの生徒たちが自主的に余白のある紙片と鉛筆とを差し出してくれ、ふたりはそれを受け取った。
千平がココロの持つテキストに目を凝らす。
ココロがはっきりと読みあげる。
「八百五十二、かける二百三十四、だ」
千平と勇花は、それぞれにそばの机を使ってアラビア数字で計算を始めた。
真似するように、人間たちや魔族の生徒もこの世界の文字で計算を始める。
「ひさびさ過ぎて、なんか手順に自信ないし、緊張する。繰り上がりとか間違えたらどうしよう……」
千平のつぶやきに、勇花は計算しながら笑みをこぼした。
先に計算を終えた勇花に手元を覗きこまれ、ますます千平は緊張した。なんとか最後まで辿りつき、検算をしたいと思いながらもこれ以上待たせるのも申し訳なく、勇花に見せる。
勇花の走り書きなのに整った字の数値と、久々でやや丁寧に書いたつもりでも乱れて汚い千平の数値とは一致していた。
ほっとした様子の千平から、同じく自力で計算を終えていたココロは状況を察したようだった。彼女の計算は、暗算でかなり途中を省いたようで、千平たちと比べると書かれた数字(当然この世界のもの)も少なければ、かかった時間もわずかだった。
答えが一致して微笑みあった千平と勇花は、周りに計算を続けている者がいる様子を見てしばらく待った。
皆が手を止めたのを見て、ふたりは顔を見合わせ、勇花に促された千平がココロに言う。
「十九万九千三百六十八、でいい?」
ココロはにっこりと笑った。
「合っている」
周りの生徒たち、人間も含めてほっとしたり喜んだりする者たちの中、ちらほら間違ったらしいものもいる。
ミコナは戸惑ったように千平と勇花を見た後、よろこんでいる人間、そして魔族を見て、わなわなと震える。
「何よこれ、みんなこんな計算ができるの!?」
ココロはどうなだめすかそうか考えるように言う。
「まあ、働いている魔族は大体できるな。こどもでも、できる者は少なくはないだろう」
勇花が助け船を出すように続く。
「だからほら、そういう人たちがいっぱいいるから、畑とかもちゃんと維持したり、大きい街も作れてるし、いろんな複雑なものも作ったりできてるんだよ。美味しい食べ物とかきれいな服とか、こういうことの積み重ねだよ」
「……わかったわよ」
人間よりも魔族の方が優れていると受け入れがたいように俯いてやや腹立たしげなミコナだが、それでも少し納得したようだった。
千平がココロに尋ねる。
「でも、今みたいな計算は、さすがにふつうの人は普段はあんまりする機会ないんだよね?」
前の世界にいた時の学生として各科目で習うことに対して抱くそれにも似た純粋な疑問だったのだが、ミコナもまたすがるようにココロを見つめる。どうしても、今つきつけられた内容は、あくまで特殊事例だと思いたいのだろう。
「まあ、なかなか無いだろうな。普段から使うとなると、精々、足し算や引き算だろう。仕事によって桁数はかなり多くなるだろうがな。今のような計算となると、建築などに絡む設計関係とか、帳簿計算系の一部の仕事とか、全体から見るとわずかかな」
「そ、そうよね……」
「そのあたりの仕事になると、もっと複雑な計算をしているだろうが」
ちょっと安心しかけた様子のミコナは、もっと複雑な計算という話にやや挙動不審になった。
「ま、魔王、あんたはどうなのよ」
「ん、我か。十万の民すべての生活をふまえて、国全体の動きをいろいろと想定して生産物などの動きや流れの全体をも模擬計算してまつりごとなどをするからな。建築などの担当よりは簡単だろうが、帳簿管理と比べるとやや複雑だったりややこしい計算などもしているぞ」
ミコナは考え込むように押し黙った。
彼女はふと顔をあげ、先程の計算で正解していたらしい人間の方を見て口をとがらせる。睨まれたように感じた少女は委縮した。
ミコナはココロたちを見た。
「わたしも、ここで教えてもらえば、もっとむずかしい計算もできるようになるの?」
「まあ、当然本人の能力次第ではあるが、望めば教えてもらえるぞ」
ココロは安易には肯定できない口ぶりで言った。
ミコナはぐぐぐと唸った。席に座っている人間たちをきっと睨む。
「なんであんたたちは、おとなしく魔族の言うことを聞いてるのよ!」
人間たちは非常に困惑した。
「……その、だって、おいしいものとか食べたいですし」
「かわいい服とか着たいし」
「お風呂だって、気持ちいいんですよ! 働いたらお金もらって、そういうの自由に使えるんですよ!」
「魔族から奪うだけだと、食べ物だって作りたてのとかよりおいしくないし、服とかだって選べないし、ぼろぼろになっていくだけだし」
一通りその素晴らしさを味わっていたミコナは言葉に詰まり、反論できなかった。
「それに、姫様のわがまま聞かないといけないのに比べたら、魔族たちはやさしいし……」
思わず言ってしまった少女は、はっと口を噤んだ。
ミコナはわなわなと震え始めた。
皆が気まずそうにする中、勇花は彼女に悩ましげに問いかける。
「姫、どうする? 帰る? ココロさんは、魔族のルールに従う限り、いていいって言ってくれてるけど」
ミコナにふてくされたような顔で見られた人間たちはおどおどする。
それでもひとりが勇気を振り絞るように言う。
「……あの、姫様、姫様が帰るとしても、あたしはこっちにいたいです」
「わ、わたしもです!」
わたしもわたしもと言い始める人間たちに、ミコナは激昂する兆候を見せた。
勇花が咄嗟に、彼女の前に身体を滑り込ませる。
「姫さ、支配者としては、こう、ココロさんの様子を見て、うまく支配する方法を学んだらいいんじゃないかな。ココロさんは、国民に不満をいだかせずに思い通りに動かしてるみたいだから、それを参考にしたら、姫もこんな風に逆らわれたりしないで支配できるようになるんじゃないかな。同じように支配できるようになっておいしい食べ物とかを食べれるなら、みんなだって素直に従うようになると思うよ。魔族が作ったものをうばうみたいに、ココロさんの支配の仕方を自分のものにするといいと思う」
ミコナはぅぐと黙りこんだ。支配者としての能力がココロより下であるという現状は受け入れがたく、ココロのように統治できるようになるということが魅力的ではあるようだ。
勇花はここぞと畳みかける。
「ここで学ぶ限りは、外よりもおいしいもの食べたりできるしさ、大体真似できると思うぐらいになったら、外で作ればいいじゃない?」
昼に食べたあれこれを思い出し、ミコナは悩み始めた。
ココロは苦笑して肩をすくめる。
「いやだと思えば、その時にいつでも帰ればよかろう」
魔王の言葉にミコナは嫌悪するような顔をしつつクナイを見た。眠そうな彼女はいつも通りだ。
「……おいしいもの食べたい」
ミコナはその反応に、観念したように言う。
「しばらく、こっちにいて魔王とか魔族のことを学ぶことに決めたわ」
勇花はほっとしたように微笑んだ。
「じゃあさ、他の人たちも全員連れて来ていいかな。みんなの能力が向上すれば、後で人間だけで暮らすようになるとしても、今までよりいい感じになるでしょ?」
ミコナはふてくされたように頷く。
「いいわよ」
勇花はココロに申し訳ない様子で言う。
「勝手に話すすめてごめん。ココロさん、そんな感じで、人間たちを受け入れてもらっていいかな。今までの人たちと合わせて三百人ぐらいだと思うんだけど」
ココロは思案して答える。
「くるしゅうない。全員をこの街では賄いきれないかもしれん。例外的に学習よりも先に街や村の労働力を兼ねて生活をしてもらって交代で入れ替わる形になるかもしれんが、それはそれで技術の習得にもなるだろうし、構わんだろう?」
「うん、それはいいんじゃないかな。一応全員に説明して、希望者だけという形かな。それでいいかな、姫?」
「どうでもいいわよ」
ミコナはふてくされたままだ。
勇花は苦笑いをした後、ココロに笑いかける。
「じゃあ、ココロさん、申し訳ないけどお願いするね」
「うむ。後ででも、具体的な人数や受け入れ場所などについて相談だな」
学び舎の部屋の一角でミコナは魔族の教師と向かい合い、真剣に教えを請うていた。彼女が苦戦する問題を、横にいるクナイがめんどくさげながら解いてしまって機嫌を損ねる。
千平と勇花はココロにあれこれと数学的な問題を出されて解いていた。その経過でわかったことは、ふたりともやはり文字は読めないのに意味は理解できる、勇花が言ったように「読めるけれど何も見ずには書けない漢字」のような状況であることがわかった。
意志疎通に問題は無いので普段は意識していないが、会話の際にはそもそもふたりは日本語で話し、魔族や人間はこちらの言葉で話している。その延長のように、意味は理解できるがこちらの発音で読み上げることはできない。ゆえに朗読の形式をとると、意味はあっていてココロたちに伝わるが、文章を直接読み上げた内容とは一致しないという形になった。
ふたりの解ける問題、解けない問題やその水準をおよそ確認して、ココロは頷いた。
「ふむ。興味深い。ふたりとも、一般的な魔族よりもそれなりに水準は高いな。前に言っていた通り、同じ学び舎で学んでいたということも頷ける」
彼女は少し表情を曇らせた。
「しかし、センペーは滅びの魔物で、ユーカは人間の勇者だ。ふたりともが同じ文化で育ったということがまず気になる。敵対していたわけではないのだろう?」
「無い無い」
「そんなことないよ」
千平と勇花は困ったように笑いながら応じた。
ココロはなお気を揉むように言葉を続ける。
「そして滅びの魔物、おぞましき恐怖を撒き散らしたというそれが、見方によってはもしかすればわれわれよりも優れた文明の中にいたということも気にかかる」
千平は、以前勇花と交わしたやりとりを思い出した。
自分がやろうと思えばできることのいろいろを考えれば、「滅びの魔物」というのはあながち間違いでもないだろう。
千平は慎重に言葉を選ぶ。
「ココロというか、この世界の人たちはさ、俺たちから見ると、すごくいい方に他の人のことを見るから。今までに俺が会った人たちとかを考えると、この世界ではそれでいいんだろうけど、俺たちの世界ではちがったんだよ。たしかに見方によっては、俺たちがいた世界の方がすぐれていた部分もあると思う。けど、ほら、俺が剣をもらったときなんか、みんなをひどい目にあわせたでしょ? あんなの、俺たちのいた世界ではなんてことの無いことでさ。ココロたちには想像できないぐらいひどいこともいっぱいある世界だったんだよ。前にココロが言っていたみたいに地獄のようなというか」
ひどい目にあわせたという部分に勇花は興味を持ったようだった。
ココロはあれがなんてことのないことである世界と聞いて、珍しくひどく真剣な顔で沈思黙考した。そして何かに思い当たったようにふたりを見る。
「そのような世界で生まれ育ち、お前たちのような人柄になることができるのだな」
千平は、やはりうまく伝わっていないと思って苦笑して勇花を見た。どういうわけか、勇花は泣きそうにも見える苦悶するような表情を浮かべていた。
数日後、人間たちの各地への受け入れが終わった。
ミコナ自身がこちらにいること、その姫が了承していること、勇花がいること、すでにこちらに馴染んでいる人間たちが橋渡しを受け持ったことなどから、特に混乱や滞りは無かった。
日ごろの業務時間をその作業の立案や監督に費やしていたココロは、夕食後などの普段の自由時間などにも溜まっていた書類の処理を進めていた。彼女の場合、そういった時間も常日頃から仕事に関わる知識をつけたり政策の検討などをしたりするという、実際的な書類仕事ではないものの実質的には業務に充てているので、あまり普段と変わらないと言えば変わらないのだが。
ココロの仕事にもこの国の全体にも興味のある勇花は書類の内容のチェックをするなどの手伝いをし、千平は簡単な雑用などをこなしていた。
執務室で仕事をしていたココロは、机の上の書類を整えて決裁箱へと入れてふたをした。
整理をしながら勇花たちを見る。
「今日はここまでだな。すまぬなふたりとも」
「うん。ただ、ココロさん、何かを間違えたりする様子は無いし、私はかえって邪魔になっていないかな」
勇花は書類の内容の確認や検算などを行なっているが、わからないところや気になったことを質問しているため、無駄に時間を使わせているのではないかと気に病んでいた。
「なに、そんなことはないぞ。我と異なる視点というのは実に参考になる。魔族たちは本当に困っていること以外の政策的な観点では受動的になりがちだからな。あまり改善などについて参考意見というのは期待できないのだ。彼らの感想を元に我が考える形になるが、どうしても個人の想定できることなど限られるからな。我と対等のようなものの見方は貴重だ。そういう意味では、センペーの存在も、我にとってはそれだけでありがたかった面がある」
勇花はなんとなく状況を察した。ココロの統治がすぐれているがゆえに民は不満を抱かないのだろう。
彼らは現状に満足しているがゆえに政治などに対する興味を抱く必要が無く、ただ与えられるものを受け入れる。皆が皆それを受け入れて満足しているのならそれはユートピア的でありながら、しかし真面目なココロが実質ひとりでその責務を負っている形だ。
ココロは時折、本気ともつかぬ様子で彼女の政治が悪だくみであるかのように語るが、事実、悪意が介在したのなら、とんでもないことになる可能性がある社会であるようにも思える。それこそ、以前千平が言った、幼い子供だけで留守番をしている家のように。
そして民に不満はあまり無いのなら現状維持でも問題無いと言えるだろうに、この魔王はたゆまずにさらなる改善を目指しているのだ。
彼女はほかの者たちと異なり、孤独だ。民から慕われているのはわかる。イヌミたちも目に見えて敬意と親愛を持っていることはわかる。だが実質、彼女と同じレベルでものを見て、考える者はいなかったのだろう、これまでは。
勇花は、自分が来た、そしてその前に千平が来た、それまでにココロが置かれていた状況を想像して切なさを覚えた。課題や悩みを相談できる相手も無く、ただひとりで他者のために働き続けるそのありよう。
「うがーー!!」
今はいない秘書の席を借りて書類とにらめっこをしていたミコナが唐突に叫んだ。
中身の確認などを手伝っている勇花と書類の運搬などの雑用係の千平と異なり、彼女は単純にココロがどういった仕事をしているかを知るためにここにいた。
クナイは部屋の隅に置かれた椅子に座って眠っており、ブランケットがかけられている。
「なによ、なんなのよ! ただ見てたら書類にぽんぽんハンコ押してるだけに見えるのに、こんな書類を全部読んで、確認してるわけ!?」
ココロはどう反応していいか困惑していた。
「まあ、そうだな。そもそも大体の手続きは引き継いだものに我が手を加えているから、どういった内容が書いてあるかの大枠は元々把握しているということはあるが。だが逆に言うと、書類を確認するだけが我の仕事ではない。手続きや実際の制度などは我が考えたり手を加えたりしているということだ。そういう時にはめんどうな計算などもする必要があったりするわけだな」
ミコナは愕然としてぷるぷる震え始めた。
「なんでそんなことしないといけないのよ!!」
ココロは疲れたような顔になる。
「まあ、ざっくり言うと、おいしい食べ物やかわいい服などのためだな……」
ミコナはぅぐと黙りこんだ。
「社会を維持して回すためには誰かがせねばならぬのだ。この国は我の国であり、我が責任者であるがゆえに、我が為している。先代は苦手だったので、他の者たちに任せがちだったのだ。もしも向いている者がほかにいて任せられるのなら、支配者が直接行なう必要はあるまい。責任はミコナが負うのであれば、他の者に任せてもよいわけだ」
「そう……?」
ミコナはめずらしく真剣に思案する様子を見せた。
勇花は微笑んで続ける。
「姫が他の人、向いてる人に任せるならさ、今とあんまり変わらないんじゃない? 姫がココロさんにむずかしいことを任せて、いい感じの国を維持してもらって、姫はおいしいものを食べたりできるわけでしょ?」
ミコナは眉を寄せた。
「うーん、そう、かなぁ……」
少し唸って考えた後、何かに気づく。
「じゃあわたしは何もしなくていいのかな」
勇花はがっくりと肩を落とし、ココロは苦笑し、千平は呆れた。
勇花は気を取り直し、素直に聞き入れてくれそうな状況を少しよろこぶ風に言う。
「他の人がやっていることに問題が無いかの判断はできる必要があるよ。姫がなにもしない間、知らないうちに社会がめちゃくちゃになっちゃったりしたら困るでしょ? ココロさんほど管理とかに関わらないとしても、確認とかぐらいはしないと」
ミコナは膨れた。
勇花は辛抱強く言いくるめようとする。
「ココロさんを見たらわかるように、支配者としてやるべきことをしてるってみんなは認めてるから言うことを聞くんじゃないかな。姫は、力で言うことを聞かせようとするだけで不満を持たせるから、この前、逆らわれちゃったじゃない? 自分でできることはして、お互いに支えあう役割を果たすことは必要だと思うな」
ココロは不意ににやりと笑う。
「そうだな。支配者たるもの、配下には自ら仕えさせてこそだ。不満を抱かせず、いいように使われていると気づかせぬことこそ最上よ」
民のために全力を尽くしている彼女こそ、見方によっては民にいいように使われているようにも思える千平と勇花はこれに苦笑した。
彼女の能力に全幅の信頼を置いているからではあるものの、魔族たちはその働きを確認するような手間を費やすこともせず、余暇を全力で自分のために使っているだろう。本来は、彼ら自身もまた社会、制度などの改善のための努力などを行なってもよいのだ。千平たちがいた世界の、民主主義の国であればそれは当然と言える。しかしこの国は、形の上では専制君主制の独裁国家だ。権限が民に無いのであれば、彼らに責任は無いとも言える。まして現状に不満を持つ民がまずいないのだろう。
勇花は思惟をめぐらせる。
「つまりさ、姫。やっぱり、何かしらの仕事はしないといけないなら、大変なことはココロさんに任せてさ、ココロさんがどういうことをしているのか、姫の気に入らないことをしていないかチェックしたいときにして、普段は姫もできることをしてお金を稼いで好きなことをしたら、結果的に、姫がココロさんを部下として使ってるのと同じだと思わない?」
ミコナはむくれつつ、考える。
「なーんかちがう気もするけど、どっちにしても、いばるためにはきっと、わたしももっといろんなことができないとダメなのはたしかよね」
全員集めても三百人ほどという環境でトップとして君臨していた彼女は、城下だけで五万という人口と、街の者たちに慕われているココロとを見て、考えを改めつつあるようだった。実力行使で叩いて言うことを聞かせるとしても、あまりの人波を見て限界を感じた部分もあるかもしれない。
勇花はほっとしたように微笑んだ。
その様子を見たココロもまた笑みをこぼし、ミコナを促す。
「では、風呂に入るか。好きな飲みものを買ってやろう」
「……うん」
魔王におごられるということが納得いかない様子ながら、ミコナは頷いた。
「本当は、自分で仕事をしてその報酬で買うのだぞ」
ミコナは膨れて黙りこんだ。
あきらめたように微笑んでいる勇花に、千平はそっと言う。
「お疲れ様」
「ありがとう」
勇花は苦笑を漏らした。
千平がココロの露天風呂に浸かって夜空を見ていると、突然、おもむろに戸が開けられた。
そこに全裸で立っていたのは勇花だった。まるでなんでもないことのように入って来ようとする彼女に、千平は咄嗟に背を向ける。なんだかんだ、彼女は就寝前後に例のネグリジェ姿でうろついたりすることは多く、そのたびに千平は目を逸らしている。そのために見慣れつつあると言えば見慣れつつある。月明りと星明りの中なので、今回のほうが見え方はぼんやりしていたのだが、全裸というインパクトは強かった。
「ちょっと、白井さん、いい加減からかうのはやめてよ……」
千平がげんなりして言うと、まるで無視するように彼女は桶で身体に湯をかけ始めた。
無言のまましばらく時が過ぎると、勇花は湯船に遠慮なく入り、外をずっと見ている千平の横へと滑りこんできた。
「昼にしっかり身体は洗ってあるから」
千平は彼女の身体に押された湯の流れを強く意識してしまう。
彼女は肌と肌が触れ合うぎりぎりまで近づき、浴槽の縁に腕をかけて顎を乗せ、千平の方を見ることもせず、ただ外の風景に視線を向けて溜息を洩らす。
「きれい……」
千平が思わず彼女の横顔を見ると、湯を浴び、浸かった影響だろうか、その頬は上気していた。半裸のような格好で千平をからかうときにも照れる様子などない普段の彼女を考えると、千平には少し新鮮に見えた。思わず見とれた後、暗い中、水面にはばまれてまともに見えないとはいえ彼女が全裸であることを思い出し、千平はあわてて勇花の視線の先を探すように外に目をやった。
勇花は軽く悩ましげな溜息を吐いて、あらためて口を開く。
「本当は、姫のそばにずっといてあげないといけないと思ってたんだけどね。彼女自身とか、ココロさんたちのためにも。……だけど、クナイさんとココロさんたちにお願いして、任せてきちゃった」
後悔もにじませるような物言いに、千平は思わずそちらを向きかけ、すぐに思い直して首を固定した。
「ふふ」
千平のそんな様子に笑った後で、勇花はさらに言葉を紡ぐ。
「別に、君をからかいに来たんじゃないんだよ。姫とか、ココロさんたちといると、どうしても気が休まらないから」
千平はおどろきながらも、顔は外に向けて固定したままだ。
「じゃあ、オレは出るよ。ひとりでゆっくりしたいでしょ」
立ち上がろうとした千平の方を向き、勇花は彼の腕を掴んで引きとめた。
「いてほしいんだ」
千平は驚愕してそちらを見てしまい、水面から出ている胸元に思わず視線をやり、真っ赤になって顔をそむけた。
勇花の真剣な言い方とその表情に、黙って座り直す。
彼女は少し気まずそうに話を続ける。
「ちょっと、疲れちゃったんだ。いろいろ考えて。ずっと、こっちの人間たちと一緒に過ごしている間にもいろいろと悩んでたけど、相談できる相手なんかもいなかったしさ。クナイさんとかみんないい人ではあったけど、他の人と話しても私が言うことをきちんとは理解してもらえる感じではなかったし。だから、ただ聞いてくれるだけ、というか、私が考えていることをなんとなくでもわかってくれるだろう君がそばにいてくれるだけでいいんだ。それでも、きっと黒野くんは今いちばん、私の悩みをわかってくれる人だと思うから。それだけですごくありがたくて」
感情をこめて言われ、千平は戸惑った。恐らくこれは彼女の本音で、そしてそれが意外だった。常に凛として強い印象の彼女の弱音。博識で、気が利いて、頭の回転が速い。文武両道、人格も文句なしの絵に描いたような優等生のクラスメイトだった彼女がこんな風に弱気になることがあるとは想像がつかなかった。
「まあ、白井さんが思ってるほどオレはわかれてないと思うけど、君がそれでいいならいいけど。それにしたって、状況はもっと選んだ方が……。オレだって男なんだしさ」
勇花は楽しそうに笑った。その後で、少しいたずらっぽく言う。
「君は、私がこの世界に来たからひとりでお風呂に入るようになったんじゃなくて、ココロさんが身体を洗うように命令しても断って、始めからずっとひとりで入浴してたって聞いたから、信用してるんだよ」
勇花の先程の言葉は、同じ世界の出身者であればわりと誰でもいいような、千平である必要は無いような言い方だった。そしてこの発言は、自分の身が安全だと思ってここにいるという宣言であり、つまり、
「勘違いするなということですね」
千平が降参したように言うと、勇花は吹きだした。
「君はそう受け止めるんだね」
愉快そうに笑われ、千平は閉口した。信頼されていることに限ればよろこばしいだろうが、状況は非常に居心地がわるい。
勇花はひとしきり笑った後で、穏やかな笑みに表情を変えた。
「私が今来たのはさ、ココロさんにとっても君は唯一対等のような、特別な感じなのかなと思って。そう考えるとあんまり独り占めもできないでしょ? だから、元々君がひとりの時間ならいいかなって思ったんだ」
「ココロにとって?」
千平は意外な言葉に、思わず聞き返した。同時に、ココロが実際に対等のようなものの見方が貴重だと言っていたことを思い出す。
勇花は当然とでも言いたげにすんなりと頷く。
「うん。ココロさんなんて、私よりももっといろんなことをずっと考えていたんだろうし。魔族の人たちって、政治的な部分は彼女に全部任せきりみたいだし、みんなから人気だけど、ココロさんとしては案外、孤独だったのかもしれないなって思ったんだ。同じようなことを考えたり共有できる人がいなくて、もしかしたらつらかったり、さびしかったりしたんじゃないかなって」
千平は言われるまで考えもしなかったことについて検討する。
彼が今までに見て来た魔族でココロと一番親しげなのは、恐らく三魔騎士だ。ウサノとネコエは彼らなりにココロに対して敬意を表しつつ親しく接しているが、マイペースすぎて、保護者と子どものような関係である印象がある。イヌミは献身的に尽くしてココロとともに行動することを喜びと感じて、ココロもそれをうれしく思っているようではあるが、どうにもイヌミ側が主従という関係を重視しすぎているために、こちらもやはり友人という関係とはやや異なる気がする。秘書のふたりなどにしても、親しくはあるが、仕事上の付き合いという印象だ。別に冷たいとかそういうことではなく、やはりココロを慕ってはいるのだが、目上と目下という感じが強い。
千平は眉を寄せた。
「んー、対等って言うと、たしかに俺、めずらしいポジションだったのかな。やってたことは小間使いっていうの? 基本雑用係だから、そんなこと気にしたことなかったけど」
「でしょ?」
勇花の言葉に、千平はさらに思案する。
「うん、けどさ、今までにないものの見方っていう意味では重宝されたかもしれないけど、ココロがさびしかったりつらかったかっていうのは、どうかな」
勇花は小首を傾げた。
千平は浴槽のお湯のわずかな動きとしてしか感じ取れなかったが、言葉を続ける。
「なんせ、支配を趣味と言い切るぐらいだし。あれはもう、国民をしあわせにすることが生きがいで、すごく充実した人生を送ってるような気もするからさ。政治のために頭を使ったりすること自体、けっこう楽しんでそうじゃない? てごわいゲームとかクイズを楽しむみたいな。俺のことは、今までに無かった便利な道具がふえたぐらいにしか思って無くてさ」
勇花は呆気にとられて固まった。千平の発言について真剣に思案・検討し、今までのココロの言動を思い出して苦笑した。
「そうかもしれないね。ココロさんはココロさんなんだし、私の基準で考えるのが正しいとは限らないか。私も、見識をもっともっと広げないと。ありがとう、黒野くん」
礼を言われて思わず千平は視線を向けた。
それを咎めるようなことはなく、悩みが少し吹っ切れたような勇花の笑顔に千平はほっとした。役に立てたならいいことだ。
クラスメイトだった頃の彼女は、優等生ではあったが何かを背負っているような緊張が常に感じられた。
人よりも色々なことを考えることができてしまい、真面目であるがゆえに考えてしまう彼女にとって、この世界は元の世界よりも心労の要因は少ないのだろうかと、千平は思った。
ここ数日、ミコナは洗脳施設とも呼ばれる学校で授業を受けていた。
本来は大体四人前後の生徒にひとりの教師というバランスで、ひとりひとりの能力の傾向や習得速度に応じた個人指導の形式だ。今は受け入れた人間が多いため教師役も普段より増えているのだが、それでも教師の割合は落ちる。
ミコナとしてはほかの人間たちに劣るということでは示しがつかないし、姫としてのプライドが許さなかった。
しかし数日通ってわかったことは、ほとんど同時に受け入れられたために数がいる人間の中では能力的にトップクラスだが、飛び抜けたトップなどということもないということだ。まして同時に通い始めた、それもやる気が感じられないクナイの方が全般に出来がいいことが、ミコナのプライドをいたく傷つけていた。
それどころか、同じような内容を教わっている魔族は基本的に幼い子供が多い。そして時に彼らはミコナと同じか、それ以上に出来がいい。
それなりの年齢の魔族の場合、より難しい仕事をこなすために自主的により高度なことを学びに来ていると言う。「仕事をするため」「よりむずかしい仕事をするために」「自主的に学ぶ」ということは、ミコナにはまったく理解できない感覚だった。
学習にも手当がつき、達成度か授業時間が一定に達することで給付される。
労働はその日に望めば誰でも与えられ、学習よりも報酬がいいために誰もが労働を望むことが前提である。労働解禁後の学習は高度な学習ほど給付額はいい。ただし、やはり同じ前提をクリアした者しかできない労働をする場合の報酬よりは安い。
ミコナは当初、新しいことができるようになること、実力を示すことが楽しく、達成度が手当の基準を満たしても構わずにどんどんと課題をこなした。魔族にもそのような者が多いので、それがふつうなのだとも思っていた。
しかし、難易度が上がるにつれてつまずくことが増え、おもしろくなくなっていった。集中力も散漫となり、手当給付条件の達成度に達するや帰ってしまうような魔族もそれなりにいたり、あるいは普段はみっちりこなしているのに、日によって気分か何かで帰る者がいたりすることにも気づいた。
昼食は皆、外へ出て食堂街で食べることになる。昼食券は手当とは別に配られ、ただこれだけだと本当に最低限のものしか買えないため、皆自分の手持ちから足して使う。
ミコナは毎日新しい店や新しいメニューを試すことが楽しくて仕方がなかった。どれもまず食べたことはなく、そしてどれも「美味しい」と「とても美味しい」の間に納まるのだ。ここに来る前など、「美味しい」食べ物はとても珍しく貴重で、姫の特権だった。クナイの発言によると、前線で魔族の村などを襲っていた者たちは案外食べていたようだが。
ここでは魔王どころか、民がまるで当たり前のように食べているのだ。この世界は人間のためのもの、すべては人間のものであるのに。
矛盾のようなものに少し気を揉みながら、買った食べ物を載せたトレーを持ち、ミコナはクナイとともに広場で空いたテーブルを探す。
和気あいあいと幸せそうな魔族たちに混じり、同じように楽しそうに談笑しながら食事をしている四人の人間を見つけた。彼らは互いに自分が買った食べ物を食べさせあい、うれしそうに感想を述べている。そのテーブルにちょうどふたり分の空きを見つけたミコナは歩み寄った。
人間たちは彼女に気づくと固まった。それまでの楽しそうな雰囲気は消えてしまい、怯えるような困惑するような様子に、ミコナは戸惑った。
彼らの反応は今まで通りだ。今までも彼らはミコナに何か言われるたび、命令されるたびそのような反応を見せ、それでも言うことを聞き、ミコナはそれしか知らず、それが当たり前だと思い、それでいいと思っていた。
でも魔族たちの豊かな社会を見て、ココロという支配者とやりとりする魔族という被支配者たちを見て来て、ミコナはそれに馴染みつつあった。
彼女は空いた席に座らせてもらって、そこに混ざれたらと思っていた。
少しだけ言いづらさを感じながらも、ミコナは口を開いた。
「わたしにもそれ分けてよ」
ちょうだいではなく分けてと言ったのは彼女なりの譲歩だった。今までとはちがう。
一番近くのピンク色の髪の人間の少女は葛藤するような素振りを見せた後で、勇気を振り絞るように小さな声で言う。
「……自分のお金で買ってください」
彼女は涙を浮かべ、ミコナに何をされるか、あるいは言われるかに恐怖しているようだった。それでも思い切って言ったのだ。
震える手で少女はトレーを持ち、席を立った。ほかの少女たちも、表情を曇らせながら席を立った。
ミコナは呆然として彼らを見送った。
力なく席に座る。
向かいに無言で座ったクナイはいつも通りだった。
ミコナはのそのそと、食べ物を口に運ぶ。
「なにこれ……すっごいおいしい」
言った彼女の表情は泣きそうで、その手はあまり進まなかった。
昼時で込み合う街区の人波の中、ココロと千平、勇花をイヌミが先導していた。
「あ、本当にいた」
千平がテーブルに座るクナイをまず目にし、向かいにミコナの背中を見つけた。
「本当に臭い辿れるんだ……」
勇花が唖然として少し引いたような顔になる。
「これぐらいは簡単ワン」
「じゃあ俺の臭いとかも……」
「独特だからすぐわかるワン」
「独特って……」
「じゃあ、私も……」
千平と勇花がそれぞれに絶句し、イヌミは当然という顔で勇花に頷いた。
犬歯が目立つことなども一応あるが、基本的にイヌミは耳と尻尾以外は人間に見えるので、千平と勇花には違和感が強かった。
魔族と人間の違いは他に瞳の個人差や毛髪の質の違いなどもある。ネコエあたりは瞳のネコっぽさが顕著だし、ココロの秘書などは角も生えている。
彼らが近くまで行くと、クナイが気づいて顔を向けたが、ミコナは気づいていないようだった。勇花が代表して歩み出て声をかける。
「姫」
振り返ったミコナの顔は食べ物をほおばったまま不機嫌そうに歪んでいた。そのままもそもそと口を動かす。
「あにひょ……」
涙ぐんでいる顔を見て、勇花たちは熱いものか辛いものでも食べているのかと思った。
ココロたちはミコナたちが食べ終わるのを待つついで、適当に食べ物や飲み物を買ってきていた。
ココロは街を行き交う人々から笑顔で気さくに、あるいは敬意を持って丁寧に挨拶をされていた。彼女もまたにこやかに応じる。
そんなやりとりを、ミコナは食べ物を口に詰め込みながらじっと観察していた。
「魔王様!」
バンダナを巻いてエプロンをつけたキツネ耳の魔族がひとり、焼き菓子のようなものを籠に入れて駆けて来た。
「この前新調させていただいた窯で焼いた新作です、是非お試しください!」
ココロは微笑んで応える。
「ああ、たしか、お前のところのは新型だったな。問題点などの報告も頼む。これはタダでいいのか?」
ひとつ摘まみながらココロが言うと、キツネ耳の少女は笑う。
「ええ、試作分ですので。お連れの方もどうぞ!」
イヌミと勇花が手を伸ばし、うれしそうな勇花は遠慮している千平にもひとつ手渡した。
勇花は、じっとココロたちを見つめているミコナの皿にひとつ載せ、眠そうな視線で菓子を見つめていたクナイにもひとつ渡した。
突然、タヌキ耳の少女が籠を振り回すようにしながらものすごい勢いで駆けて来た。
「魔王様!! ウチのパンも食べてください!!」
ココロは喰いつかれそうな勢いに面食らった。
「あ、ああ、そんなに売れていないのか?」
タヌキ娘は衝撃を受けた顔になる。
「そういうことじゃないです!」
と、彼女の動きがきっかけになったように、周りの店の食堂や屋台から、様々な食べ物や飲み物を持った店員がココロを中心に詰めかけ始めた。
イヌミが学校へ伝言に行き、一行はミコナたちを伴って城へと来ていた。
ココロとミコナ、千平と勇花だけがとある部屋に集い、いろいろな試食に付き合ってお腹がパンパンになったクナイは自室に戻った。
ミコナは滞在するにあたって、姫、支配者として城に住みたがり、一番いい部屋を希望した。ココロの寝室はどういうわけかココロだけではなく千平も、今は加えて勇花が使っており、ひとり増やすのはきついだろうという意見が出た。千平はいろいろおかしいと感じたが、反論できる空気ではなかった。結局、空き部屋の一番広い部屋をあてがわれ、ミコナとクナイが共同で使っているのだ。
今、千平たちがいるのは、ココロの寝室の隠し通路から通じる空間だった。
十五畳ぐらいの部屋に、ちょっとした祭壇のようなものが端にあり、床には大きく幾何学的な模様が刻まれている。
その何カ所かには、動物を模した小物が置かれている。
ミコナは身ぶりを交えていろいろと説明をしていた。
「──こんな感じ」
一通り終わり、熱心に聞いていたココロは深く考え込む。
不安そうな勇花がじっと彼女を見つめ、結論を待つ。
やがてココロはゆっくりと口を開いた。
「うむ。ユーカの指摘通りのようだな」
「……やっぱり」
勇花が何かに確信を得た様子で柳眉を寄せ、それを見たミコナも眉を寄せた。
「なんなのよ!」
勇花は真剣な顔で彼女を見つめた。
「姫、二度と英雄召喚の儀を使ったらダメだよ。絶対」
ミコナは意味がわからず、一層眉を寄せて膨れた。納得はいかない。だが、
「どうせ、もう使えないよ」
彼女が口を尖らせて言うと、勇花は少し眉を上げた。
「そうなの?」
「うん」
その理由がわからないことに引っかかりを感じながらも、勇花は安心したようだった。
「ねえ、なんなの?」
尋ねたミコナに勇花は誤魔化すような微笑みを向ける。
「ちょっとね。ありがとう。もういいよ」
ココロもまた労うように笑みを見せた。
「うむ。礼を言う。好きに休んでくれ」
ミコナは蚊帳の外に置かれている気がして不満に感じた。むっとしながら千平を見る。
睨まれた千平は困惑した。
「えぇと……、おつかれさま」
機嫌を取るようなぎこちない微笑みを見て、ミコナはぷいと顔を背けた。
千平はますます当惑して勇花を見ると、彼女は困ったように苦笑していた。
ミコナは城の中をひとりで歩いていた。
彼女はここのところ勇花がココロたちと一緒にいることが多いのが不満だった。
勇花は人間を幸せにするための「勇者」だ。
この世界は人間のためのもので、人間の長はミコナだ。だから何より勇花は彼女のために動くべきなのに。
当初、勇者である彼女はその呼称に足る能力を十分に発揮して魔族を翻弄していた。ミコナは、順調にいけば魔族を完全に自らの支配下におけると思っていた。
でも、ある日から勇花はまるで魔王のために働いているようだった。以来、ミコナのプライドが傷つけられることが何度もあり、人間の多くは今やすっかり魔族の言いなりで、挙句に姫であるミコナに逆らった。
ミコナは歩きながら泣いていた。
さっきも、勇花は聞きたいことをミコナから聞き出す一方、ミコナが尋ねても言葉を濁して答えてくれず。勇花はミコナではなくココロの味方なのだ。
言われなくてもどうせ新しい勇者は呼べない。儀式に使える樹の実の大きさと数が揃うことは滅多にないのだ。勇花を呼べたのは、非常に稀な機会を利用できたからなのだ。
その時、彼女は何かを運んでいる魔族とすれ違った。
執務室で書類を処理するココロの手は珍しく動きが鈍かった。
勇花から可能性を指摘され、ミコナに協力してもらって確認したこと。あれは一体、どういう意味を持つのか。
思案に耽る彼女を、それぞれに仕事をこなす勇花と千平は心配そうに見つめていた。
「魔王様大変です!!」
突然、チワワ系らしい雰囲気と耳、尻尾を持つ小柄な魔族が飛び込んできた。彼女に視線が集まる。
「あ、あの、天慧樹の実を拾い集めて、休憩を挟んでから質で分類して振り分けようとしたら、拾った時より減ってるんです! 運んでる途中で人間の姫とすれちがったから、もしかしたら……」
ココロたちの顔に緊張が走った。
その時、何か衝撃波のようなものが空間を揺るがした。
しかし城や調度品などに変化は無く、あくまでココロや千平たちが感じ取れただけだ。
ココロが深刻な顔で走りだしながら叫ぶ。
「これは……まずい!」
ココロの後を追って彼女の寝室、その隠し部屋へと向かいながら勇花は悔やむ。
「私がココロさんに協力してばかりいて、姫のことをきちんと見ていなかったから……」
ミコナが我慢強くないことは知っていた。自分がココロや千平のそばにばかりいて彼女の望みをおろそかにしていることを不満に思われていたこともわかっていた。
それでも、彼女のためだからと自分に言い聞かせ、誤魔化し、自分がしたいだけの行動を結局とっていた。
ミコナが呼び出した勇者。その立場をもっと自覚してきちんと行動していれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
ミコナは隠し部屋に案内されたとき、その図案に驚いた。それは人間の領地の遺跡、その奥にある、秘密の場所にあるものと同じだった。
城に来た際、天慧樹を近くで見たときには、姫の一族しか食べてはいけない実をつける特別な樹とそれが同じらしいことにも驚いていた。
召喚の儀は、その図案の各所に、ある程度育ったその実を配置した状態で行なう。説明の際に動物の小物で代替して示していたのがその位置だ。
ココロたちが走り出す少し前、ミコナは儀式の準備を終えて強い決意を抱いていた。
先程勇花から言われた言葉、もう二度と使ってはいけないという言葉を思い出す。
どうせ彼女はミコナの味方ではない。ココロたちの、魔王や魔族の味方なのだ。
ミコナは、昼食の時、彼女を拒否した人間たちの姿を思い出す。あの時、クナイはまるで当たり前のようにいつも通りで、それを受け入れているように見えた。
ミコナの顔が歪む。涙を浮かべ、プライドを杖に歯を食いしばる。
「今度こそ、絶対に、わたしの味方になる、ちゃんとした勇者を呼ぶんだから……」
そうして儀式は始まった。