母の遺言
「・・・先ほどは、急に取り乱して、すみませんでした。皆さんさぞ驚いたでしょうね」
足元のパールの白い毛が、炎の色を映してほんのり赤みがかって見えた。
すっかり寝入っているようで、ゆっくりと背中が上下する。
「うん・・・。いいや。嫁入り前の女の子に聞かせて良い話じゃなかった。悪かったな」
「話を切り出したのはもともとミカですよ。それに私、一応、嫁入り後です」
くすりとヘレナが笑うと、はあ・・・とヒルがため息をつく。
「・・・それに関しては、本当に申し訳ない。俺がどうかしていた。ヴァンもそんな男じゃないんだが・・・。いつからか、深く物事を考えられなくなっていたような気がする」
「そう・・・ですか」
それを言うなら、コールもだ。
彼も誠実で真面目な性格に思える。
どうしてこんなことの片棒を担ぐ羽目になったのか。
あの、奇妙な結婚式をどうして容認できたのか。
つじつまが合わない。
「ミカの言う『本邸で会った男』たちですが、おそらく一階のクロークたち、二階の従僕、馬車の馬丁と考えて十人前後。彼女の能力を疑う気はありませんが、そんなに簡単に全員と本当に関係を持てたのでしょうか。ましてや本邸全体の男性の数を考えるとそれで掌握するのはちょっと・・・」
「そうだな・・・。たまたま、すれ違ったやつらがそうだとしても、女主人が全部の男と寝るのはなかなか・・・」
「多分、シエル卿とテリーも考え始めていると思いますが…。やはり、心を操る何かが存在しないと無理な気がします。でもそんな手段があるのかも私は知らない」
ヘレナは狭い世界で今まで生きてきた。
これとはっきり言えるものがないのがもどかしい。
考えを巡らせているうちにふと思った。
「・・・コンスタンス様の『たいせつなもの』って、何でしょう」
「たいせつなもの?」
「はい。核となるもの、というのでしょうか。私の核の一つはクリスの未来と幸せですが、そういった譲れないものがあるのかなと」
あるから、手段を択ばないのか。
ないから、なのか。
それにしても。
「実は・・・。これは叔母とクリスしか知らないことなのですが・・・」
続きを言いかけて、ためらってしまった。
打ち明けてしまいたい。
だけど。
なんと言えば。
「ちび」
しっかりと回された両腕に包まれて、身体を前後にゆっくりゆすられる。
まるで、ゆりかごの中の赤ん坊のように。
「・・・無理して言わなくていい」
耳元に、優しい声と暖かい息を感じる。
「さっき色々話したのは、俺が聞いてほしかったからだ。合わせることはない」
「そうではなくて・・・。ちょっとびっくりする話なので・・・。あのですね」
「ああ」
「帝都の隅に母の墓があるのですが・・・」
深呼吸をしてから、続ける。
「そこに、母の遺体がないのです。何者かに暴かれ、持ち去られました」
「は?」
ゆりかごが停まった。
「あり得ませんよね。でも、叔母に人を雇ってもらって掘り返して確認したので間違いないです」
そこには、母の入った貴族の棺ではなく、粗末な空の棺があるだけだった。
「母が亡くなって…。クリスと毎日墓参りをしました。でも、四日目の朝、異変に気付きました。前日と様子が違って・・・。母のために球根を埋めたはずなのにどんなに探ってもそれがどこにもなくて」
すぐに叔母に連絡を取って調べてくれるよう頼んだ。
結果は予想通り。
「誰か、母に悪意を持つ、誰かが・・・。母の遺体を、辱めるために盗んだのだろうと思います。貧民の共同墓地に投げ込まれたか・・・。山に遺棄したか・・・。探したけれど見つからなかった」
「そんな・・・」
「父には言えませんでした。『ご学友』の可能性がありましたから」
「・・・そうか」
また、ゆっくりと揺すられ、ヘレナは肩の力を抜いた。
「母は・・・。そうなるのをおそらく予感していたのだと思います。余命わずかと知った時に、髪と爪を切って小箱に納め、私に託しました。父には内緒で持っていてって。そしていつか・・・。出来ることなら、故郷の山のどこかに埋めてほしいと」
墓を暴かれたと判明してすぐに、その小箱は叔母に預けた。
父にもご学友にも手の届かない所はストラザーン伯爵家しか思い当たらない。
今思うと、ほかの遺品も預けるべきだった。
でも、まさか思わなかった。
あれだけ母を愛した父が、酔った勢いで妻の遺品を金に換えるなんて。
酒におぼれていた。
そそのかされた。
金に困っていた。
我に返った父は泣いて後悔したが、衣類と装飾品の類は何一つ戻らなかった。
辛うじて母が縫ったものと道具がヘレナに残され、それは今手元にある。
「そうか・・・」
きゅっと腕の力を込められた。
「御母上様の故郷はどこだ」
「北の・・・。カドゥーレという集落です」
「ああ、砦の近くの。そうか。なら、馬で長時間移動するのに慣れないとな。あそこは麓までしか馬車が使えない。だが、馬でならたどり着ける」
「・・・馬?」
「すぐには無理だが・・・。俺が連れていく。いつか、必ず」
「え?」
思わず背筋を伸ばし、思いっきり振り返った。
「すごく遠くて、すごく山奥ですよ?途中に崖があって、帝都から行くのはとても大変だと聞きました」
叔母が言うには、よくぞ母が帝都へたどり着いたものだと。
国境ゆえに隣国へ行く方がまだ楽な場所らしい。
「ちびが望むなら」
紅茶色の瞳を細めて、こともなげに言う。
「一緒に行って御母上様の願いをかなえよう。クリスも一緒にな」
「・・・っ」
母は。
帰りたかったのだろうか。
故郷の山が恋しかったのだろうか。
難路を超えて帝都に出て来たけれど、辛い事ばかりだったのではないだろうか。
箱を受け取った時、聞けなかった。
あなたたちが大好きよ。
愛してる。
生きられなくて、ごめんなさい。
守ってあげられなくて、ごめんなさい。
あなたたちの幸せを、心から願っている。
やせ細った指先で頭を撫でられ、言葉に詰まった。
私とクリスは、母の足かせになったのではないか。
尋ねたくても、もういない。
「ちび。我慢するな」
母とは違う、大きな手が頭を撫でる。
「・・・っ、ふっ・・・」
ああ、だめだ。
なんだか、いろいろだめだ。
とっさに毛布を当てて顔を覆う。
「・・・っくっ・・・」
息が、声が、漏れてしまう。
歯を食いしばる。
「・・・ほら。ちょっと動かすぞ」
毛布ごと膝裏を抱え上げられて横抱きにされ、いつの間にか額が彼の胸元にくっついている。
「とにかく、息をしろ。歯を食いしばるな。口が開かなくなるぞ」
また、小言。
この人はいつも。
頭を優しく撫でられて、
背中をゆっくり叩かれて。
小さなこどもになってしまったような気がしてくる。
「がまんするな、ちび」
ちび、と呼ばれるのに慣れてしまった。
このぬくもりにも。




