どうして。
食堂の中に痛いほどの沈黙が下りた。
「気分転換に、コーヒーを淹れよっかね」
「あ、手伝います」
ミカが立ち上がったので、ヘレナはパールをシエルに預けて新しいカップを棚から降ろす。
「だからアタシは、娼婦の中の娼婦と言ったんだ。アレはその客ごとに心の中の一番深い所に入るコツを知ってる。すぐに相手の一番弱いところを掴んでモノにしてしまうんだよ。すごい才能だなーと思うけど、そうならざるを得ないんだろうな、仕事柄」
ヴァン・クラークは平民育ちの庶子と言えども十分に恵まれた子供時代を送り、クラーク家でも待遇は悪くなかった。しいて言えば片親が平民である劣等感と貴族社会での身の置き所のなさと時々沸き起こる刹那的な衝動を突かれた。
ベージル・ヒルは流行り病で母と妹を亡くした喪失感とまっとうな倫理観を利用された。
しかも、二人とも口が堅い。
『二人だけの秘密』と言われれば素直に応じると解っていた。
共通点は『かわいそうな女』。
しかし、クラークの『コンスタンス』とヒルの『コンスタンス』は全く別の人格だった。
「執事さんだけ無事なのは、もし団長さんと同じ手を使ったら、数日以内に遺書書いて首をくくるのが容易に想像できるからじゃない?この先はわかんないけど、今のところは生かしておいた方が利用価値がある」
「つまりは、用無しになったら殺す手段の一つとして有効ってことかな」
テリーはつやつやと黒光りするコーヒー豆を丁寧に挽き、ミカが用意したフランネルの布の袋の中にそれを入れた。
そして、沸騰した湯を少しずつ注入していくと湯気とともにコーヒー特有の深い香りがたゆたう。
「ま、そうなるね」
「やっぱり、俺も食われる予定だったかな」
「うん、そうだね。アタシたちがついて来たって聞いて断念して、ご当主様抱き込む方へ変更したんじゃない」
最初は女主人の部屋へ連れていくよう指示されていたと、階段を上ってクラークが言った。
迎えに出た侍女からテリーが一人ではないと聞いたから、部屋が変わった。
ほんの数刻の間に戦術を変えてしまえるほど、機転が利くということか。
「え?そんな話なんですか?」
ヘレナはカップを温めながら驚きの声を上げた。
「うん。こう見えてテリーは奥様連中に狙われがちでさ」
「こう見えて…って心外だな。まあ、うちの商品を安くか独占かで手に入れたい人とか、若い男なら何でもいい人とか色々なんだけど、そういうのは割と紅茶に媚薬突っ込むね。金と伝手さえあれば割と簡単に手に入るから、使ってみたくなるみたいで」
「わあ、キゾクコワイ」
「貴族だからじゃないよ。いいヤツもわるいヤツも身分関係ないからね」
「あ・・・そうですね。浅はかでした」
ヘレナが肩を落とすと、テリーがぽんぽんと頭を撫でる。
「まあ、俺が御用聞きだからそんなこともあるだけで、みんながそうじゃないってミカは言いたいんだ。そういやヘレナもそのイチイの指輪に媚薬と毒を盛られたときの対処薬を仕込んどいた方が良いだろうな」
両肩を押してテリーはヘレナを椅子に座らせる。
「え・・・?私も必要?」
「うん。薬を商っている従兄から一通りもらって今度持ってくる。今まで考えもしなかったなんてうかつだった。むしろ今までブライトン子爵のご学友が使わなかったことが不思議なくらいだよ」
「・・・ああ。そうですね。本当に」
ミカが置いてくれたコーヒーに目を落とした。
焦げ茶の液体の上を白い湯気がゆらゆらと揺れる。
軽くスプーンでカップの中をかき混ぜてからミルクピッチャーを少し傾け、生クリームを落とした。
くるくると回りながら馴染んでいく白い線を目で追いながら、ヘレナは口を開く。
「あの。コンスタンス様の望みとは何なのでしょうか」
ナッツと果実を合わせたようなコーヒーの香りと、クリームの甘い匂いがまじりあう。
「みなさんのお話を聞く限り、あの方がリチャード様を愛しているようにも、独占したいようにも見えないし、かと言って貴族になりたいのかと言うとそれも疑問です。狡猾なようで稚拙。計画性があるようで、行き当たりばったり。破滅したいのでしょうか」
「だから油断ならないとしか、今は言いようがないね。読めないから」
椅子に座ったミカはお手上げの仕草をした。
「そうですね。でも」
すっかり溶け合って白茶色になったカップの中の液体を見つめたまま、ヘレナは言葉をつづけた。
「彼女は、やってはならないことをしました。少なくとも、一つだけは」
言いながらも、頭の隅で別のことを考える。
しまった。
思考がどんどん暗いほうに引っ張られていく。
頭の中がぐるぐる回る。
考えれば考えるほど、こみあげてくるものが抑えられない。
人は。
どうしてそれほどに。
「ヒル卿の心が欲しいなら、手に入れたいなら、あの手段だけは選んではいけなかった。大切な日の大切な思いを土足で踏みにじる行為は・・・あれだけは・・・、大切な家族を亡くしたのに・・・」
かたん。
突然大きな音を立てて、ヘレナは立ち上がる。
「すみません。何言ってるんだろう、私」
早鐘を打つ胸元をぎゅっと握りしめて、なんとか詫びを入れた。
皆が心配そうに自分を見ているのが分かる。
「ちょっと・・・。ごめんなさい。頭を冷やしてきます」
そのまま、後ろを振り返ることなく、食堂を出た。
一人になりたくて、階段を駆け上がり、書斎へ飛び込んでドアを閉じる。
部屋の真ん中の床にぺたんと座り込んで、気が付いた。
「あ・・・。コーヒー・・・。せっかくテリーが淹れてくれたのに・・・」
申し訳ないことをしてしまった。
しかし、足に力が入らなくて、動けない。
最初は軽い調子で会話をしていたのに、突然取り乱して飛び出て、皆、あきれただろう。
でも。
このままでは叫んでしまいそうだった。
許せない、と。
「どうして・・・」
ヘレナはそのまま突っ伏した。
感情移入しすぎている。
彼と自分の境遇は全く違う。
混同してはならない。
だけど。
「おかあさん・・・」
歯を食いしばった。
泣いてはいけない。
今までそうしてきたように、これからも。




