頼りない背中
「いよいよ明日か・・・」
門柱の前でヒルは立ち止まり、イチイの木を見上げた。
ざわわ・・・と枝葉が揺れて大樹は音を立てる。
モミのように針のような濃い色をした葉で、枝ぶりも武骨。
魔導士たちがなぜこの木を選んだかは知らないが、守り神としてはなかなか悪くないと思う。
育ちの遅いこの木が若木からあっという間に大樹へ化けたのはつい先日のことなのに、遠い昔のように感じた。
「あれ、ヒル卿。どうしたの、なにか忘れ物?」
夜はこの別邸の客間に泊まり朝飯を食べてから騎士団へ出勤する生活もすでに二週間近く。
侍女兼護衛のミカが現れた。
「いや。そうではないが・・・。その、大丈夫か?」
「ああ・・・。茨が優秀過ぎてのどかなもんだよ。鶏が一羽足りないから探しに来たんだけど、そこにいるし」
ミカが指さす先へ目をやると、玄関近くのレモンの木の根元で雌鶏が一羽、雑草を食んでいた。
「そうか」
術によって育った門柱と柵に絡まる茨は『悪意のある者』を本当に寄せ付けないらしく、ヘレナを嫌っていることを隠さないライアン・ホランドは、今ヒルが立っている位置から中へ入ることができなかった。
魔導士シエル曰く、『おそらく、何かを敷地内へ持ち込もうとしたのでしょう』とのことだった。それは彼女の害になる『何か』だそうだ。
すぐに、何をしようとしたのか問い詰めようとしたのだが、周囲に止められた。
『ホランドは駒にされていることを気付いていない可能性がある』
首謀者を探るためにもある程度泳がせるしかないと諭され、断念した。
ホランドが茨に阻まれた時その場にいたヘレナの弟のクリスがこの件をウィリアム・コールとヴァン・クラークへ周知した上、更に二人が同じ見解なのには少し驚いた。
そしてなぜか今、シエルとヒルとクリスの三人で客間を共有し寝泊まりし、コールとクラークが交互にミカの作った昼飯を食べに食堂へ顔を出すという奇妙な生活が続いている。
そんな中、肝心かなめのヘレナは魔導士庁騎士団長スカーレット・ラザノと新人魔導士リド・ハーンの結婚式の衣装作りに没頭しており、二階の書斎にこもりきりで食堂に顔を出すことがない。
ミカとクリスが主に飲食の世話をし、シエルが時々ポーションを与えているものの、寝る間も惜しみただひたすら命を削るような仕事ぶりは、鬼気迫るものがある。
白地に細やかなモチーフを織り込んだ高価な絹布を大きな木枠に張り、四日前くらいまで猛烈な勢いでとんでもない精緻な絵を縫い込み、できたと思ったら今度は裁断、仮縫い、縫製。
今朝の段階で二着は完璧に出来上がったとミカから聞き、これでゆっくり休めるだろうと安堵していたらなんと、ヴェールの細工の追加を始めていると知った。
狂気の沙汰だ。
初日にある程度体裁を整えて、ヴェールとして十分通用する状態に仕上げたと聞いていたのに、時間ができたからもっと美しいものにしたいと針を刺し始めたという。
クリスに止めろと言ったが、『それが姉さんなんだよ』と笑って学校へ行ってしまった。
弟が納得している以上、部外者のヒルが口出しするわけにはいかず、とりあえず騎士団へ出勤し、事務や警備の打ち合わせを行ったが、気になって仕方がない。
訓練の監督を副団長に任せ、ここにきてしまった。
「ちょうどよかった。いい加減ヘレナを休憩させたいんだ。ヒル卿やってみる?火の輪くぐり」
「なんだそれは」
「まあまあ。心配なんだろ。ついてきなよ」
意味ありげににやにや笑っているのは気に食わないが、おとなしく彼女の後に続いた。
書斎の中に足を踏み入れると、作業をする音が聞こえた。
トストストストス・・・・。
胡坐をかいて薄絹を張った大きな木枠の台に身体を預けて作業をしている、小さな少女がいた。
黒髪は緩く一本の三つ編みに編まれて背中に垂らし、長いチュニックとぶかぶかのズボンを履いていて、とても令嬢のなりではない。
何かを口ずさんでいるのか、かすかに声のような音のようなものも足を進めるうちに聞き取れてきた。
「なな・・なな、なーな・・・な・・・」
何の曲なのかはわからない。
しかし、彼女の柔らかで透明な声を心地よく思った。
「ほんっと・・・ちいさいな・・・」
ちいさなちいさな頭でとんでもなく大胆な服を構想して作り上げ、今度はその小さな指先をさらに酷使して繊細なヴェールを仕上げようとしている。
「ほら、見とれてないで止めて休ませて」
「止めろって、どうやって・・・」
水灰色の眼を布に向け、唇が歌を紡いでいるものの表情が全くなく、ただ糸を上下させるヘレナは近寄りがたく、とても気安く声を掛けられる状態ではない。
「騎士やってるヒル卿の方が絶対、止めるべき間合いが分かると思うのよね。クリスが言うには、ちょっと別の作業へ移ろうとする瞬間があってそこがねらい目だって」
「ねらい目だって…って、ミカも今までやっていたんだろう」
「それは刺繍の糸の色が違ったし、縫い合わせの時はもっとわかりやすかったんだよ。よりによってヴェールは全部白い糸じゃん?もうお手上げよ。あいにくシエル卿も魔導士庁へ行って不在だしどうしようかと困っていたところに、火に入る夏の虫のヒル団長」
ぽん、と肩を叩かれため息をつく。
「わかった・・・。やってみる」
無意識のうちに足音を忍ばせ、ヘレナの体温を感じる距離まで近づく。
ゆっくり背後にしゃがむと、肩の薄さに驚いた。
もともと小さい子なのに、仕事に魂をつぎ込んでますます小さくなった気がする。
あまりにも頼りない背中に、間合いなどというものは吹き飛んでしまった。
とにかく、やめさせなければならない。
それだけだ。
「ちび」
低く、耳元にささやく。
「そこまでだ。いったん針を置け」
ぴたりと、指と歌声が止まった。
運よく針は布の上に来たところだった。
「ヒル卿?」
「ああ、そうだ」
布の下に回していた左手がぱたりと落ちたので、後ろから両手を回し、抱き寄せた。
胡坐をかいた上にヘレナを載せ、腹にヘレナの背の温度をしっかりと感じて、ほっと息をつく。
「お前はやりすぎだ。ちょっとは指と目をいたわれ」
両腕の力を少しこめた。
壊れそうで力を入れるのを一瞬ためらったが、そうしないと消えてしまいそうでもっと怖い。
「はい・・・」
軽い返事のあと、ふいに黙り込んで静かになった。
「あ・・・?」
覗き込むと、すう・・・とヘレナは目を閉じ眠っている。
「うわ、すごいね。さすがはヒル団長。今度からクリス二号って呼ぼうかな」
「は?」
「アタシじゃこうならないね。せっかくだから一時間くらいこのままいてくれる?」
「それは構わないが・・・」
一時間か。
ちょっと様子を見に行くだけのつもりだったヒルは、どうしたものかと考える。
「何なら、今から騎士団にひとっ走りして、団長は腹を下して戻れませんって言ってくるけど」
「それだけは勘弁してくれ・・・」
結局、ミカに紙とペンを持ってきてもらい、二時間ほど戻れないこととその間の指示書をしたため、それを預けた。
ちなみにその間ヘレナは例によって毛布でぐるぐる巻きにしたうえに片手で抱いたままで、まるで夜泣きの乳児を抱く父親そのものだ。
「ねえ、書く間くらいヘレナを横にしといたら?」とミカは突っ込んだが、
「大丈夫だ」の一点張りで、
のちに事の次第を聞いたクリスは口を押さえておおいに悶えた。




