契約内容の確認と情報の整理をしよう
「この契約書を返しておく」
母娘の騒動が落ち着き生姜入り紅茶を配り終えた時に、ヴァン・クラークが一枚の紙をヘレナへ手渡した。
「ああ、これって・・・」
本邸の一室でクラークと食事をした際に、二人の間で結んだ契約だ。
「あの時点ではそれが最良だったが、結局、全く効力をなさなかったな。すまなかった」
彼が言いたいのは、その後続いた嫌がらせの件だろう。
「いえ…もう、終わったことですし」
「あんたは、寛容すぎる」
クラークは苦いものを飲んだかのように眉を寄せてため息をついた。
「先日、ストラザーン伯爵夫人が訪問された際、俺とコールがサインした別の契約書が改めて作成された。
それとその後ここで夫人とコールとヒルが交わした条項も付け加えている。
それに関してはあんたも知っている内容だな。
現時点でまとめておいた方が良いだろうという話になって作り直した。
正式文書は使いを出してストラザーン伯爵夫人へすでに送付済みだ」
そう言いながらもう一枚紙を差し出してくる。
「これが写しだ。あんたも持っていた方が今後のためにも良いだろう」
相変わらずの『あんた』呼ばわりだが、曇りないまなざしのせいだろうか、なぜかすんなりくる。
「それは・・・。ありがとうございます」
ヘレナが書類の末尾に視線を落とすと、コールとクラークのサインが記入されている。
「見てわかるように、月に一度の里帰りとカタリナ夫人との手紙やりとりの保証、それからラッセル商会の出入りとクリス・ストラザーン及びテリー・ラッセルのこの別邸のおける不定期面会の黙認。
あとラッセル商会から護衛及び侍女等の人材派遣。
最後にここでの暮らしに関する諸経費はストラザーン伯爵夫人持ちということだ」
叔母が経費を持つことに関してはヘレナの中で抵抗がある。
しかし、ない袖は振れぬ。
「私が裁縫で稼ぐ件は・・・」
「それは暗黙の了解で良いだろう。俺とコール、そしてヒルさえ知っていれば十分な気がするんだよ」
「・・・ところでこの件、リチャード様はご存じですか」
この契約結婚の当人であるというのに、今まで一度も書類作成に関わりがない。
「ああ・・・。すまない。御者の自殺時の第一発見者が動揺していて・・・」
「コンスタンス様ですね」
「・・・そうだ。あの時、魔力切れを起こしている御者のために高名な医師の手配をコンスタンス様が指示をして、たまたま全員御者から離れていた」
「全員?」
「いや、コンスタンス様が最後に残っていたはずだが、水を飲みたいと言われて汲みに行き目を離した隙に自殺したらしく、俺が彼女の悲鳴を聞いて駆け付けた時には既にこと切れていた」
「そういうことだったのですね。コンスタンス様は驚かれたことでしょうね」
「ああ・・・。人事不省に陥って俺ごときではどうにもならなかったから、急遽リチャード様に指示を仰ごうとしたのだが・・・」
報せの従僕の馬を奪って本邸へ駆け戻り、それからは二人で寝室に籠りきりらしい。
予想通りというかヘレナがここに来て以来の通常だ。
「そうなのですか。衝撃が大きかったのですね。リチャード様もさぞ心配でしょう」
色々飲み込み頑張って言葉を選んだが、空々しく聞こえなかっただろうか。
「まあな。俺たちは戦場で死体など見飽きているが、彼女は籠の鳥だ。痛々しい程だった」
どこからか『うわ、チョロっ・・・』という呟きがヘレナの耳に届いたが、運よくクラークまでは大丈夫だったようだ。
「あれは油断した俺のミスだ。最後に見たジャンは身体の制御がままならず指一本動かせなかったように思えた。ほとんどまともにしゃべれなかったのに・・・」
「クラーク様。彼の魔力切れの症状はどのようでしたか。私は彼の魔力を全部吸い取ったつもりでしたが」
御者の腕を切断し魔力も奪ったシエル自身が尋ねると、一瞬、クラークは複雑な表情を浮かべたが、素直に答えた。
「俺が最後に見た時は空っぽだった。せめて少しでも足してやれたなら楽になれただろうが、そうなると逆に脱走しかねないから、そんな能力が俺になくてよかったよ」
「ああ・・・。あなたは戦場で魔力切れを見た経験があるのですね」
「空っぽになって死にかけている将校階級の男を、魔導士が術をかけて助けたのを見たことがある。俺の魔力は半端でね。目の前の人間の魔力の有り無しはわかるんだが、そこまでだ」
「それだけでも十分と思いますが・・・」
シエルの反論にクラークは首を振る。
「いや。土属性が少しある程度で戦功をあげるほどの絶対的な身体強化ができない。それに、動体視力と瞬発力はある方だが、戦いのセンスと筋力がない。だから最終的には騎士ではなく、従僕になった。それでも今の屋敷の差配も混乱したままで制御できていない」
「その件に関しては、お前のせいじゃねえよ・・・」
それまで黙って聞いていたヒルがぼそっと口をはさむ。
戦士の家の出のヒルは風属性の魔力を豊富に持ち、戦闘能力もある。
「戦う以外の能力はないし、そもそも補佐官だったクラークの差配のおかげで数年前の戦闘は生きて帰れたのだから、すごいのはお前だ」
隣に座るヒルが真剣に言うと、クラークは少し眩しいかのように目をすがめた。
「補佐と言えば、こっぴどくカタリナ夫人にやられた秘書官のホランド殿はあの後どうされていたのですか?お見掛けしませんね」
シエルが強引な会話運びでホランドの名を持ち出す。
カタリナがゴドリー邸へ乗り込んだ時に彼は臨場していた。
秘書官なのに今回の書類にも彼の名のサインがないことに疑問を持ったようだ。
叔母とホランドになんらかの齟齬があったと少し聞いていたが、こっぴどくやり込めたくなる何かがあったのだなとヘレナは理解する。
そもそもリチャードのお付きの男たちの中で一番ヘレナを敵視しているのは彼だ。
叔母に対してもあからさまな態度をとるのは想像に難くない。
「カタリナ夫人に無礼を働いた罪で、コールが執務室で謹慎するよう言い渡した。ジャンが運び込まれたとき本邸にいたが、コンスタンス様を使用人室まで案内した直後に席を外してしまい、現場に居合わせていない」
「そういえば、ホランド家は土魔法の大家ですよね。魔導士庁に一門の方が何人かおられて魔道騎士団に所属されていたような」
土魔法は軍において盾を担うことが多い。
特に、魔獣討伐に対して有効だ。
「ああ・・・。ライアン・ホランドは養子だ。俺と同じで訳アリで籍を入れさせてもらっているが、おそらくホランド家の血は引いていないだろう。なんせ魔力が全くないのだから」
「魔力が全くない・・・?」
シエルが首をかしげる。
「ないな。だからあいつも秘書官なんだ。コールは少しあるが生活魔法程度で同じく戦場では役に立たない。だからこそリチャード様の行軍の時は俺たち三人で後方支援を担当した」
「なるほど」
いやまて。
ちょっと、待って。
ヘレナは額に手を当てて目を閉じた。
今までの会話の中に重要な情報がいくつもあったような気がするが、考えが追い付かない。
御者の死についての情報と、側近たちの背景。
ヒルもクラークも隠し立てせずに問えばなんでも答えてくれる。
しかし、色々絡み合ってますます何も見えなくなった。
これではまるで、魔宮のなかに迷い込んだよう。
「ライアン・・・、ホランド・・・?」
食卓から離れてコーヒーの支度をしていたマーサは豆を挽いていた手を止めて呟く。
足を組み肘あてに頬杖をついてだらしなく座るミカはちらりと母の背中に視線を送った後、何事もなかったかのようにヘレナたちのやりとりを見守った。




