まずは胃袋から
カタリナがゴドリー邸を訪問した翌朝、マーサとヘレナは前夜に仕込んだ種を使ってライ麦入りのパンを焼いた。
おおむね田舎パンと呼ばれるもので、みっしりと重く、腹持ちと日持ちが良い。
一週間分のつもりでたくさん焼いたが、予想に反してあっという間に足りなくだろうことにすぐ気付いた。
なぜかというと。
「そのようなわけで侍女、従僕、騎士ともに数名、怪我した者がいるようですが、まあ軽傷ですね」
向かいに座るコールがさくっとと報告してきた。
「そうなのですか」
どうやらシエルの警告が理解できない不心得どもたちがいたようで、魔術が施された茨に撃退され、多少の負傷者が出たらしい。
一体何が起きたのかとシエルに尋ねると、
『まあ、悪意の塊に対する察知と妨害ですね。諦めが悪いなら少し痛い目に合わせます。こう、にょきにょきーっとつるを伸ばして、ご自慢の長い棘でグサッとですね。百発百中でまあ死なない程度に』
と手をひらひらさせて説明しながら清々しい笑みを浮かべた。
腕を失った御者と比べればどれも軽傷にしか見えないだろうが、ヘレナは心の中で疑問に思う。
…軽傷の定義とは、いったい。
ヘレナが十分に睡眠をとり回復したところで、シエルは外のイチイとレモンの木、そして茨にどのような術をかけたのか懇切丁寧に教えてくれた。
まず茨は、魔導士庁研究塔が長年構想を温めて開発した渾身の魔改造植物だということ。
改良過程でちょっとだけ魔物のエキスを加え、敵と認定したものすべてを攻撃するように作られたそうだ。
どうやってそのような能力を、と、つい興味本位で尋ねると『それはさすがに秘密です』とラピスラズリの瞳がやや黒く染まったので、これ以上は追及しまいとヘレナは心に誓った。
今、研究者の闇を垣間見たような気がする。
そしてレモンとイチイはラッセル商会が用意した普通の苗木だが、スカーレット・ラザノの魔獣術符を根に巻き付けたため、これもそれなりに能力を発揮してくれるはずだという。
ちなみにヘレナとシエルが唱えた術に呼応して木々がぐんぐん伸びていったのは、リド・ハーンの術をほどこした魔石をそれぞれの根元に核として入れたかららしい。
魔術について語るシエルの顔は、今までで一番イキイキしていた。
赴任数日、まだ研修中と聞いていたはずだが、まるで昔から魔塔の住人であるかのようだ。
「いやあ、魔導士庁外の普通の地面に魔改造樹木を植えるのは初めてなので、ドキドキしました。その効果を実地検証できるなんて楽しみですね。有り難いことにここは害虫がのこのことやってきてくれますし。こういうのを入れ食いっていうのでしょうか?」
清らかな朝日を浴び濃灰色の髪を光らせながら物騒なことをさらりとかましてくれる、シエル。
こんな人だったか…以下略。
「ところでヘレナ様。なんなら顔見分も兼ねてお会いになりますか?」
コールの提案に、ヘレナは首を横に振る。
「いいえ。ここはあまりにも使用人が多すぎて誰が誰だかさっぱりです。侍女頭だけは辛うじて分かりますが」
「わかりました。こちらで対応しますね」
彼は軽く頷くと、繊細な所作でハッシュブラウンを切り分け口に運ぶ。
ヘレナがこねて焼いたりんご入り皮なし鴨ソーセージも、トマトや人参などのオーブン焼き野菜も、添えられた煮豆もまるで礼儀作法の教師がお手本に食して見せているかのようだ。
パンを千切る指先まで行き届いていて実に優雅でつい目で追ってしまう。
それでいて、あっという間に皿の上は空いていった。
黒髪黒い瞳、細い鼻筋で怜悧な顔立ちの執事は意外にも食欲旺盛だった。
熊のように大きなヒルは言わずもがな、元司祭のシエルも魔力と美貌と高身長を維持するためなのだろうか、恐ろしい勢いでマーサとヘレナが作った料理を平らげていく。
父と囲む食卓では経験したことのない、すがすがしい程の食いっぷり。
みな二十代半ばのはずだが、成長期のクリスをはるかに超えている。
ヘレナが思わず見とれていると、今度は目ざといヒルから『ほら、ぼんやりしていないでちゃんと口に運べ』と斜め前の席からしかられる。
朝からヒルは通常運転だ。
というか。
警備強化二日目の朝にして、別邸の食堂では情報交換の名のもとに和気あいあいとした朝食会が繰り広げられていた。
こうなった原因は、初日の朝一番に朝食も摂らずに馬を駆って本邸の様子を報告に来た、責任感の強いコールへのマーサの労いの一言だった。
「お話しついでに朝ごはんを食べていきませんか」
マーサの料理は絶品だ。
ごくごく普通の野菜のオーブン焼きでもスープでも生き物の本能を呼び覚ます何かが存在し、人さじ口にしたら最後、ついつ平らげてしまう。
それに現在三十歳の息子を筆頭に十九歳のミカまで子だくさんのマーサにとって、彼らを掌で転がすなど容易なのかもしれない。
瞬く間に男三人を素直に食卓に座らせ、まるで実家に帰ってきたかのようにくつろがせている。
明日はヴァン・クラークが別件でやって来るらしいので、もしかしたら彼もマーサの虜に出来るやもしれぬとヘレナは頭の中の算盤をはじく。
「さあ、りんごのタルトが焼けましたよ。いかがですか」
マーサがオーブンから取り出したばかりのデザートを皿に盛って現れた。
焼いたりんごの甘酸っぱい香りが部屋中に漂う。
「ぜひ」
男たちはすぐに立ち上がり、いそいそと紅茶や取り皿の支度を手伝い始める。
彼らの胃袋をマーサは完全に掌握した。
もはや牧羊犬のレベルと化している。
マーサ。
なんて恐ろしいひと。




