空の器
結局、肩に毛織物のショールをかけさせられ、さらに膝から下も毛布を巻き付けられた状態で、ヘレナは暖炉に近いカタリナの隣に座らされた。
下手をするとこの簀巻き状態のままヒルの膝の上に乗せられ親鳥に温められる雛のようにされるところを、「笑いが止まらなくなるからやめて」というカタリナの一言で覆った。
さすが鶴の一声。
ありがたい。
「それで、ヘレナ様。貴方は『魔力貸与』を日常的に行っていたということでしょうか」
シエルが居住まいを正してヘレナに尋ねた。
「ああ、あれってそういう名称なのですね。…はい。私が魔力覚醒を起こした時にうまく操れなくて、母が分けてくれたのが始まりでした。そのうち、母の具合が悪くなった頃にちょっと色々あって、母には魔力が必要でした。なので、今度は私が渡すようになって…」
「待って、そのこと、ハンスは?」
カタリナが慌てて割って入り、そこでようやくヘレナは気づく。
そういえば、己が魔力持ちであることを叔母にも告げていないままだったと。
「もちろん内緒です。父が魔法を使う人間が苦手であることに気付いた時にはもう結婚の直前だったため、言い出せないままだと母が言っていたので」
しかも、母の主な能力は闇魔法だった。
魔法に縁のない者に一番、偏見の眼で見られ、忌避される可能性の高い魔法でもある。
他の要素だったら告白出来ただろうが、父自身から魔法持ちの人間がどれほど気味悪い存在かと熱く語られた後ではとても言えたものではない。
母は一生隠し通すつもりだったが、ヘレナとクリスが十歳のころに闇の要素を持って魔力覚醒してしまったので、父が外出している隙を狙って色々と教えてくれた。
まず、魔力持ちであることを隠す方法。
次に、視覚阻害による意識の遮断。
この二つだけは何度も何度も練習させられた。
理由は『父のご学友』にある。
王宮務めとはいえ辺境出身で衣装を縫う仕事に従事していた地味な容姿の女と結婚すると知り、ブライトン家にはもう底辺まで堕ちたと思い込んだ彼らは関わりを絶った。
その間がヘレナたちにとって一番幸せな時期だったと言える。
しかしそれは長く続かず、彼らはいつまでも爵位返上せず屋敷も維持していることに不審を抱き、再びブライトン家を訪れるようになった。
旧友たちの訪れを父は手放しで喜び、どんな願いも二つ返事で叶え、家を空けることも増えていく。
短いなりに王宮勤めをしていた母は、十分に理解していた。
彼らは、父の持つすべてを破壊しつくす気でいることを。
そして、どんな結果になっても父は『友情』にすがるだろうことを。
ヘレナたちは、巣の周りを蛇にうろつかれる卵のように無力だった。
だから、彼らに察知されないよう、生きている気配を消さねばならなかった。
「母が亡くなった後あたりから、次はクリスが学校で貴族たちに虐められるようになって…」
「ヘレナ。それも聞いていないわ。クリスは虐められているの?」
「ああ、クリスは話していないのですね。すみません。だから学校辞めてもいいと言っていたのです。『ハンス・ブライトン子爵』についてのデマが貴族の学生たちの間で横行して、こればかりはどうにもなりませんでした」
『悪い奴の子ども』を成敗するふりをした、『遊び』だ。
どれほどひどい目に遭ったとしても教師側は『仲よく遊んでいる』と解釈し、助けてはくれない。
「デマ?」
「羽振りの良いころは金にものを言わせ、人身売買や薬物の密輸、高位令嬢を騙して純潔を奪っていたとか…。没落してしまったのは罰が当たったからなのだと」
「うん、デマね。ハンスにそんな度胸はないことは、彼らの親世代なら知っているはずなのに」
「そうなのですよね。不思議で仕方ないのですが」
父の若いころからの二つ名は『お人好しのハンス』だ。
「まあ…。令嬢云々の話の出どころは分かるんだけど、それもハンスじゃないから」
「ええ。もし父がそうしていたなら、今頃生きていませんよね」
下位貴族の命なんて、高位貴族から見ればそのへんの雑草のようなものだ。
報復を受けてしかるべきだろう。
「まさにその通りよ」
「まあ、私は女子学部で最低限の通学だったし令嬢の嫌がらせはたかが知れていましたが、クリスはどうしても学校にいる時間が長くて。男子は力が有り余っていますからね。」
ブライトン子爵家滅亡後の身の振り方として、ヘレナは家庭教師もしくは侍女、クリスは下級官僚などで生活するつもりだった。
それすらも、家名が阻む。
「意識阻害だけではなく、悪意の察知と逃げ足の速さのために学校にいる間は身体強化が必要になってしまったのです。そうすると魔力消費が激しくて…」
魔力切れぎりぎりの状態で帰宅した時には、学校をやめさせることも考えた。
しかし、クリスが優秀であればあるほど惜しかった。
「なんてこと。ハンスは知っていたの?」
「一度だけ話しましたけれど。父にとって、学生時代は人生で最も楽しかったものですから。『学校は一生の友達に出会える楽しいところだよ?』って真顔で言われたらもう」
関係者一同、ハンス・ブライトンと面識がある者は皆、その光景がありありと頭に浮かんだ。
「ああ、もうね。ごめんなさい。身内として何とお詫びして良いのかわからないわ」
「どうかお気になさらず。もう過去です。まあ、そのようなわけで朝晩、魔力をこっそり九割あげていました。もちろんクリスは気づいていないですよ。知っていたら絶対拒否しますからあの子は」
「待ってください、朝晩それぞれ九割って、それだとヘレナ様の身が持たない」
シエルはあわてて反駁する。
「ああ、大丈夫なのです。私、魔力がたまるのは多分、かなり早いほうみたいで」
「え?」
「ただし、器が小さいのです。そうですね。シエル様がゴドリーの本邸くらいの大きさの器として、私はこれくらい」
ヘレナは両手の手のひらをくぼませた形で天に向け、小指同士をくっつけた。
「両手で水をすくう程度でしょう。それに対して、クリスはそうですね…大鍋くらい?器は私よりずっと大きいですが、魔力の貯まる速度が遅いので、常に満杯になっている私の分を隙を見てはねじ込んで…」
ふふ、と思わず笑いが込み上げる。
いかにばれないようにして大量に渡すか。
悪戯をしているみたいで、ちょっとスリルがあって楽しかった。
「どのようになさったのですか?」
「まあ、姉弟仲が良かったのが幸いしましたね。ちょっと肩を叩くとか、とにかく些細な接触で…とにかく不自然じゃないように触れば。少量ならなおさらほんの一瞬で完了です」
「術式は?」
「ありません。母から教わったのは、私の意思があれば良いものだったので」
聞き終えると、シエルがため息をついて額に手を当てた。
「本当は術式が存在するし、高位魔導士の技の一つであるのですが。魔力が少なくてもできる人は貴方が初めてです」
「それは、学びの塔ゆえだからなのではありませんか。私たちにとって呼吸のように自然なものですから」
母は、魔導士の血筋でないと言っていた。
生まれ育った集落で自然に知ったことをヘレナに教えただけだ。
「そうですね。恐らくそうだと思います」
魔力を持つ全ての人を魔導士庁が把握しているわけはない。
貴族主導の世界において、平民の事となると途端に疎くなるものだ。
「と、言うことは、移送中もしくは運び込まれた本邸で御者に触れたものなら誰でも魔力を貸与できたということね?」
そうなると、厄介なことだ。
あまりにも疑うべき人数が多すぎる。
「そうなります。しかも、ほんのささやかな魔力の注入です。もしかしたら…」
クリスのように、魔力を貸与されていることに気付いていなかったなら。
大きな器に落とされた、一滴。
「狂言自殺のつもりが、本当になってしまった可能性もあるってことね」
パチリと音を立てて、暖炉の薪が火花を上げた。




