御者の死について
「御者が…死んだ、だと?」
「は、はい。使用人控室のベッドに運び込んで寝かせていたのですが、目を離した隙に自ら舌を噛みきりました。ほ、ほんの一瞬のことだったようで」
応接間にようやく腰を落ち着けて、今後についての話し合いを始めたばかりだというのに。
使用人が馬を飛ばして駆け込み、急を告げた。
「そ、それで。奥様が…。コンスタンス様が一番最初に遺体を発見され、かなり動揺しておられま…」
「それを早く言えっ!」
皆まで聞かずに、リチャードは怒鳴り立ち上がる。
「リチャード様」
コールの静止を振り払い、出口へ向かう。
「ストラザーン伯爵夫人。ことは急を要するゆえ、失礼する。続きは落ち着いたらまたいずれ」
背を向けたまま言い捨て、彼は部屋を辞した。
「リチャード様…」
額に手を当て、コールは呻く。
しかし、彼の後を追うことはせずにとどまる。
そしてすぐに外で馬のいななきと使用人の慌てた声、蹄の音が聞こえたかと思うと、やがて静かになった。
重い沈黙が落ちる。
「…まあ。これも予想通り…かしらね」
ふう、とカタリナはため息をついた。
「重ね重ね、失礼を」
「構わないわ。コール卿が残ってくれるとは予想していなかっただけに、こちらにとって大きな収穫よ。今日中にしっかり話し合いがしたいからそちらに座ってくださる? ああ、ヒル卿、シエル卿、テリーもこちらに来てちょうだい」
応接室は創建当時にそれなりの身分の来訪者をもてなすことを想定して作られたため、結構な広さで、ストラザーンとラッセルの関係者全員がどこに座っても余るほどの椅子とテーブルのセットが設置されていた。
リチャードが飛び出した時点で、窓際には長椅子で眠るヘレナを見守るヒルとシエル、暖炉近くの一番上等なソファセットにカタリナと秘書、護衛騎士が一人。そして近くに立ったままだった執事のコール。
扉前に騎士が二人、その近くのセットに何事か打ち合わせをしていたラッセル商会の従業員たちとテリー。
彼らは皆、カタリナの指示を受け、すばやく室内を整えた。
「さて。先ほどのことを踏まえ、勝手ながらご当主不在のまま、コール卿とヒル卿を代理として今後について更なる追加事項の交渉させていただくわ」
「はい。主も異存はないかと思います」
コールは頭を垂れた。
恋人が心的衝撃を受けたと聞いただけで、この場を放棄した主君。
そのことに、彼自身が衝撃を受け、歯がゆいと思っているように見える。
「この度は、誠に申し訳ありません、伯爵夫人」
ヒルも隣で頭を下げた。
二人の様子を眺め、カタリナは考える。
この二人は…。
こちらが思うほど、あの女に心酔していない?
当初のシエルとラッセルの報告からの予想では、リチャード及びコンスタンスに対し盲目的に服従しているように思えた。
倫理感は全くなく、計画性もなく。
無鉄砲で能無しの集まりだと思っていた。
しかし、今はそう見えないのだ。
ヒルは、過剰なほどヘレナを心配し、構う。果てにはシエルと保護権を争うほどだ。
コールは、精神的な均衡が保たれており、主の暴走を止めようと何度も試みていた。
今、ここに留まったこと自体、彼は何をなすべきか十分理解している。
そして今はこの場にいないクラークも、カタリナの前ではいたって正常。多少粗野な部分があるようだが、この五日間、ヘレナが小さな物置の中に隠れて過ごしていたことを知った瞬間は、蒼白になっていた。それは決して保身のためではなく、心底後悔しているとカタリナは判断する。
となると。
ますます理解しがたい。
どうして彼らは、こんな馬鹿げた計画を実行する気になったのか。
「顔を上げてちょうだい。もう良いから。ところで不思議だと思わない? 腕をなくした御者は、大量出血と魔力切れで瀕死の状態だったように見えたけれど」
「はい」
「そんな彼がよく、都合よく死ねるだけの、噛み千切る力があったわね? しかも、『ほんの一瞬のことで』と先ほどの男が言ったわ。なら、一発で成功したと言うことね」
どのような姿勢だったのかはわからない。
しかし、多くの人の手で抱えてもらわねばならないほど衰弱していた人間に果たして、その方法での自殺は可能だろうか。
これは首吊りや自刃より、精神的にも肉体的にも難しい自殺方法なのではないか。
それを『素人』が一瞬の隙に?
カタリナは真っ先にそう疑った。
「あまりにも都合がよすぎると思うのは、私だけかしら?」
コール息をのむ。
「それは…」
そこで、シエルが静かに手を上げた。
「思い切りが良かったと言えばそこまでですが…。私は、死ぬ直前に彼は身体強化をかけたと推測します。わずかでも魔力があれば可能ですし、それなら確実に成功する」
「やっぱり、あなたもそう思う?」
「はい」
淡々と意見を交わす二人とは対照的に、ゴドリー側の二人は動揺したままだ。
「し、しかし。シエル様は治癒にジャンの魔力を全部吸い上げたと。こののちは二度と魔力が使えないとおっしゃったではありませんか」
コールが問うと、さらりとシエルは解説した。
「ああ、彼の中の魔力が湧く能力を破壊しただけで、空の器は残っていました。だから、誰かが魔力を分け与えれば良いのです。舌を噛みきる程度なら、ほんのわずかな魔力を足してあげるだけで良かったでしょうね」
シエルはわざと、器を残した。
本邸に運ばれたのちに、何かが起きるのを期待して。
結果、時を待たずしてこれだ。
「ですが、そんなに容易なことでしょうか。私は帝国学院で学びましたが、そのようなことは習いませんでした」
コールは入学当初から卒業まで首席で通した。
そして、時間の許す限り他科の講座も受けた。
その一つが魔導士科だ。
「あれは教育現場で教えないことになっていると思います。今回のように悪用される可能性を色々考えると。それに誰にでもできる技ではないので」
「え、そうなのですか? そう難しくないと思うのですが…」
思わぬ声に、全員の視線が窓際へ集中した。
置かれた長椅子の背からちょこんと小さな顔がのぞいている。
その姿はまるで、小動物が椅子の背に捕まっているような…。
シエルは、脳内で小枝に掴まるヤマネを連想した。
おそらく、全員似たり寄ったりに違いない。
「ヘレナ…あなた、いつの間に。いえ、顔色がだいぶ回復して良かったけれど」
カタリナがほうと安どの息をつくと、気まずそうな顔で言い訳を始めた。
「あ…。ええと、ごめんなさい。リチャード様が怒鳴っていた時に目が覚めたのですが、なかなかちゃんと起き上がれなくて。一応、全部聞こえていましたよ?」
すると、すぐさまヒルが立ち上がり、つかつかと足早に長椅子へ向かう。
「え…ええと?なんでしょう、ヒル卿」
面食らうヘレナを、さっさと毛布で簀巻きにした。
「すぐに起き上がれなかったって、ようはまだ回復していないのだろう? こっちへ来い」
言うなり、ざっくり抱き上げ暖炉に近いカタリナの席を目指して歩き始めた。
特等席にお連れする気満々だ。
「ああああ。もう十分です、お気遣いは十分頂きましたから、ヒル卿!!」
「あの騒ぎの中、ぐっすり寝ていたお前が言うな!」
怒鳴ったり、心配したり忙しい。
「うん。このやりとり、もうなんだか慣れて来たわ…」
カタリナのつぶやきに、何人か頷いた。




