ウィリアム・コールの悔恨
「ありがとうございます。とても助かりました」
ヘレナは傍らに立つウィリアム・コールを見つめ、頭を下げた。
「いえ。これくらいの事でお役に立てるなら」
ヘレナが使っている竪機は作業が進むと経糸を巻いていく必要があるのだが、しっかりと張った糸を緩めないために巻き上げる箇所の作動が固く、非力なヘレナでは骨が折れる。
いつもならミカが手伝ってくれるが、階下で家事をしている筈なのでとりあえず別の作業をしながら頼む機会をうかがっていたところ、珍しくコールが作業部屋に現れた。
細身の体つきをしているが、コールもリチャードに従って軍に所属していただけあり難なく機材を操ってくれ、ヘレナは安堵する。
「ずいぶん、進みましたね」
しみじみとコールはタピスリーを見つめた。
「ええ。ミカが至れり尽くせりの支援ぶりで、私、たまに気分転換で家畜たちに会いに行く以外はずっとこれにかかることができるのです。本当にありがたいなと思います」
指先でゆっくりと織り上がっている部分をたどる。
「糸の色も材質も思うまま使えて。美味しいご飯をたくさん食べさせてもらっている上に暖かい部屋で好きな仕事に専念できるのはなんて幸せなことでしょう」
心から幸せそうに笑うヘレナの姿に、コールの胸はひどく痛んだ。
王宮金貨二十枚で、見知らぬ少女を買って。
十七歳と聞いていたのに、現れたのは骨と皮ばかりの小さな子どもだった。
青だと聞いていた瞳の色は曇り空のせいか暗い教会の中では灰色にしか見えず、あの落ちぶれた男たちに騙されたと渡した金貨を惜しんで歯噛みをし、まあ、いずれ『始末』するのだから構わないかと思い直した。
戦場でさんざん見かけた、飢えて怪我を負い逃げ遅れた辺境の子どものようにがれきに埋もれる遺体の一つになるのだと。
そんなことを考えていた。
とても軽く。
ひとかけらの罪悪感もなく。
あの頃。
戦火ですべてを失って彷徨う子どもたちに対し、もっと違う感情を抱いていたはずだと頭の隅で思いながらも、主の恋を後押しすることがすべて正しいと。
それしか思わなかった。
もしも。
もしも、ストラザーン家が事前に情報を掴み、動いていなかったならば。
もしも、使用人たちの虐待がもっとエスカレートしていたならば。
そしてヘレナが不屈の人でなかったならば。
ものの数日で恐ろしい結末を迎えていただろう。
自分はとてつもない間違いを犯すところだった。
そして。
いずれは叔父のように息をするだけの抜け殻にされてしまっていたかもしれない。
そう考えるにつけ、今の状況はなんと幸運な事かと思う一方で申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「びゃっ」
悔恨の念に沈むコールをふいに黒い塊が襲った。
「ネロ!」
ヘレナの咎める声もなんのその、黒猫はコールの足元から胸をひょいひょいと駆け上り、最後は肩でぴたりと止まる。
「びーお、びー」
なんとも不思議な音を喉から紡ぎ出しながら、器用に前足を右肩、後ろ足を左肩にのせ、右からは頭を結構な力で擦り付け、左からは長い尻尾が顔面をぱたぱたと撫でた。
「ね、ネロ…やめにゃ…さい。コール卿の髪が乱れてしまうでしょ…うっ」
もうすでにどうにかなっているのだろう。
ヘレナの言葉が微妙にもつれている。
「ふははははっ。ネロがすんごい勢いで階段駆け上ったから何なのかなと思ったら! 執事さん、なんか気に入られているね」
扉の方からミカの元気な笑い声が聞こえてコールがゆっくりと身体を向けると、銀の盆の取手を握りしめたまま侍女兼護衛が悶えた。
「くっ…っ。やめておくれよ。ネロをのっけたままその端正な顔としゃんとした姿勢って…。反則だろ」
盆の上にどっさりと載っている食器がカタカタと震える。
「あらあら、まあ。ごめんなさいミカ。いつもありがとう」
ヘレナは織機から立ち上がり、ぱたぱたと駆け寄った。
「ああ、大丈夫。大丈夫だよ、ヘレナ。これしきの事でこの私が…。ぷくくくっ」
全身の筋肉に精神を集中させ、ミカは湯気を上げる食事をゆっくりとテーブルに置く。
「ああ…すみません。ネロを落としてはいけないと思い、つい」
大真面目に謝罪するコールに取手から手を離し数歩退いたミカは腹を抱えて吹き出した。
「ぴゃ?」
そんな人間たちにお構いなしのネロはすまし顔で首を軽くかしげる。
「ネロ~。あなた…」
ヘレナの非難の声もなんのそのであった。




