とりあえずの和解
門から敷地へ足を踏み入れた瞬間、それまで腕を組んで険しい表情でリチャードを見据えていた女性がさっと身をかがめ、優雅な礼の形をとった。
「改めましてご挨拶致します。私はエドウィン・カッツェ・ストラザーン伯爵の妻、カタリナにございます。先ほどのご無礼の段、陽動のためとはいえ、申し訳ありませんでした」
きっちりと頭を下げられ、リチャードは驚く。
「これは…いったい…。どうか頭を上げてください。爵位は同列で、あなたの方が年上だ」
「侯爵家の血筋を引く貴方様と、子爵家の私では同列などとても」
「いや、ストラザーン伯爵夫人。どうかお直りください。貴方様はヘレナ・リー・ブライトン子爵令嬢の叔母上にあたります。どうかわたくしのことはリチャードと。」
「はい。ありがとうございます。ではわたくしのことはカタリナとお呼びください」
すっと静かにストラザーン伯爵夫人は背筋を伸ばした。
近くに立ってみて、彼女は思いのほか小さい事に気付く。
「お言葉に甘えて、リチャード様。本日は積もる話があります故、どうかご容赦を」
打って変わり、にっこりと人懐っこい笑みを浮かべられてリチャードは戸惑った。
「ところで、ヘレナ嬢はどこに…」
今になってヘレナの不在に気付く。
そして彼女の呼称をどうすればよいのかも考えていなかった。
呼び捨てにするにはためらわれる。
「ああ、こちらです」
夫人が手で示した先には、布の塊を抱えたまま仁王立ちしているヒルがいた。
「…は?」
そういえば、ヒルはずっとこの体勢のままだ。
口を真一文字に結んだ彼が、わずかに身体を前に傾けて腕の中のものを見せる。
「…え?」
背後に控えていたコールも思わず声を上げた。
濃紺の布に包まれたなかに、小さな白い顔がぽつりと見えた。
目は閉じられたまま、ぴくりとも動かない。
思わず、口元に手をかざし、呼吸をしているのか確かめてしまった。
ふわりと、暖かな気配が手のひらに当たる。
「まさかと思いますが…熟睡している…の、ですか?」
おそるおそる夫人に尋ねた。
すると、彼女とヒルを含め周囲が笑いさざめく。
「そのまさかです。シエルが術を披露している最中から眠ってしまいました。けっこう見ごたえがあったのに、驚きましたわ。しかも、あの襲撃の最中も目覚めることなく、眉一つ動かさなかったそうです」
「そんな…」
あの、石が跳ね返される瞬間の鼓膜に響く不快な音をもってしても目覚めないほど、深い眠りに入っているというのか。
「そろそろヒル卿の腕も限界でしょうから…」
「いえ、私はまだまったく。大丈夫です」
仁王立ちの姿勢のまま、びしっと背筋を伸ばしたヒルが反論する。
あちこちから、ぐはっと音がしてリチャードは周囲を見回した。
ストラザーン側の人々がみな、口を片手で抑えたまま慌てて顔をそらす。
「…そう。でも、私はそろそろ室内に戻りたいの。応接間で話しましょう。先に向かってヘレナをその部屋の長椅子に寝かせてちょうだい」
「わかりました」
ヒルが歩き出すと、商家の者たちがこぞって先導する。
あの魔導士もさっさと中へ入り、外にはリチャードとコール、そして夫人と護衛騎士たちだけが残った。
「リチャード様。あの、玄関の扉の上の一番高い位置にある窓ですが」
柵とそこかしこに植わっている木々をざっと視線で確認していると、夫人が話しかけてきた。
「あなた様は、ここから石を投げて破壊することはできますか」
「…どうでしょう。当てることはできるかもしれませんが、破るとなると。道具を使うしか」
一番上の飾り窓は屋根に最も近い。近くに寄ったとしてもけっこう難しいように思えた。
「では、身体強化をすればどうでしょう」
「それなら…。まさか」
そういえば、先日この館を訪れた時に雨が降りこんでいた理由は。
「はい。執事殿にお聞きしましたが、あの飾り窓は小石一つで破られていたそうです。なので我々は身体強化を使った可能性を考えました。スリングなど道具を使った可能性と五分ではありましたが」
力を誇示するためだったのか、考えなしだったのか。
「リチャード様は、この別邸に移ってからも、ヘレナが持続的に悪質ないたずらにさらされていたことをご存じですか」
「いたずら…とは?」
知っていたような、気もする。
だが、よくわからない。
頭を振ると、夫人がため息をつく。
「具体的に言うなら、腐った食材を与える、外に積んである薪に水をたっぷり含ませておく、薪の中に燃やすと不快な煙を出すものを巧妙に紛れ込ませる、夜な夜な建物の周囲で物音を立て、窓や扉をたたく…などでしょうか。それらは不特定多数の行いにて、犯人が分からないとヘレナは言っていました」
「待ってください、それは聞いていません」
コールが割って入った。
「私もここで聞き出したばかりです。驚きましたわ」
「…っ。なんてことを」
憤りの声に、夫人は複雑な表情を浮かべる。
「あの子はおそらく、夜は一睡もしていません。昼間はヒル卿が顔を出してくれ、更に彼がささやかな差し入れをしてくれたおかげで食いつないでいたようですが、安全面はザルだったようですね。建物の周りに幾重にも複数の足跡がありましたし。ヘレナは二階の物置の中に隠れていたのでしょう。形跡をクラーク卿と確認しました」
「ヒルは知っていたのでしょうか」
「いいえ。もしそうならあのような状態にならない筈です。ヘレナは誰を信用してよいのかまだわからなかったのでしょう」
今はきちんとはまっている窓を見上げて、彼女は続けた。
「なので、今日この場にいる男たちの中に身体強化ができる男がいてくれれば、と半分願う気持ちでわざとリチャード様とコンスタンス様を侮辱して見せました」
ようやく、夫人が何を言いたいのか気づいた。
「『陽動』とは、そのことですか」
尋ねると、彼女は頷き頭を下げた。
「はい。娼婦になりたい女はこの世にほとんどいないでしょう。コンスタンス様はとくに逃れたくてもできない環境だったことは存じております。多くの人の前で愚弄し、まことに申し訳ありませんでした」
コンスタンスは花街で生まれ、娼婦である母も既にこの世にいない。
彼女は生を受けた瞬間からその世界に身を置かざるを得なかったのだ。
「私は。…いえ、もう過ぎたことです、カタリナ様」
愛する女を辱めたことは腹に据えかねる。
しかしそうせねばならない理由が、この女性にはあったことを理解した。
「どうしても、今のうちに見極めたかったのです。この屋敷の使用人たちは何を思ってそのような行動をするのか。リチャード様をお慕いしている故なのか、それとも…」
あの男。
御者は石を投げる直前、なんと言ったか。
『貧乏貴族の分際で! 女狐が!』
『死にやがれっ! 魔女っ!』
明らかな殺意を持っていた。
あの場で、初めて会った女性だというのに。
「…コール。あの御者の出身は」
「実家は農家で平民にございます」
「平民がなぜ…」
れっきとした貴族を己の下に見る。
「そこを聞き出せたら良いのですが、そう簡単にはいかないでしょうね」
ある信念に囚われているならば。
おそらく、口を割ることなく死んでいくだろう。
「リチャード様はコンスタンス様との未来を作るためにもヘレナが必要。
ヘレナは父親のしでかしたことをきっちり終わらせたい。
これらを踏まえ、あの子は二年という月日をここで暮らすことに異存はないそうです。
しかし、このままでは最悪の事態が起きかねない。
それを私は懸念しているのです」
「…もっともなことだと思います」
頷くほかはない。
「では、中で今後のことについて話し合いをさせてくださりますか」
「はい。勿論です」
「ありがとうございます」
一礼して、夫人は騎士たちと歩き出した。
その背を追いながら、リチャードは物思いに沈む。
なぜこのようなことに。
自分は、ただ…。
ただ…。
「ただ?」
わからない。
己は今、どこにいるのだ。
どこに向かっているのかもわからない。
「コンスタンス…」
どうすれば、俺たちは。




