クリスの怒り
「僕から言わせてもらったら、恵まれた環境で育てたくせに何言ってんだって感じですけどね」
クリスが口を開く。
「生みの親が分からないとしても、立派な人たちに育てられて食うに困ることもなく、領主の養子として虐げられたこともなく。それでも世を拗ねるとかずいぶん甘ちゃんだなと思うけど、人の悩みなんて比べるものじゃないって解っていますから。でも、どうしても理解しがたいのは、ライアン卿。あんたはなんで妹弟かもしれないと思っていた僕たちを陥れようとしたのかってことです」
ああ、それを言ってしまうかとヘレナは心の中で天を仰いだ。
「噂をうのみにしたとか、クズになり果てた父が憎いからとか、そういう御託はいりません。姉に至っては偽装結婚の相手として買われて、賭博で処女権を売られて。その以前に父には全ての不幸は姉のせいだと貧民街の路地裏に捨てられて色街で働かされた過去は、ご存じでしたか?」
「は? ちょっと待て。それは聞いていない。色街で働かされたって…そんな」
「父がご学友に騙されて、姉を捨てれば妻の病気が治るって思い込んで夜中に捨てたんですよ。もちろん仕組まれたことなので父の友人たちが身なりと名前を変えられ娼館の下働きをさせられていたのを、ストラザーン伯爵の依頼で探していたラッセル商会が見つけて救出してくれたのですが」
悪しきものは最も汚れた場所へ。
多くの人の助けを借りて帰宅したヘレナに、ハンスは一言も詫びず、目をさまよわせるだけだった。
「父は、最後まで変わりませんでしたよ。姉の作った料理を食べ、掃除をさせ洗濯してもらった服を着ているにもかかわらず。ああそうそう。姉の内職で生活が成り立っていることも、知ろうともしませんでしたね」
「………」
目を見開き言葉を失うライアンのさまを見て、ヘレナはクリスを宥めようとする。
「クリス。もういいのよ。あの人はもうここにはいないわ。もう関わりを持つこともないの」
「ねえさんは! いつもそうやって、何でも終わったことって流そうとするけれど。それって、俺のこともそうしたんだよね?」
「え?」
「夢の世界でとうもろこしの粒を食べさせられた時、どうせ姉さんのことだから『ああそうですか、帰れないんですか。仕方ないですね』ってあっさり受け入れたんだろう。俺がストラザーンの養子になったことだし、もう心配することは何もないとか思ったんじゃないか」
「あ……」
図星だ。
今度はヘレナが言葉を失う。
「ねえ。姉さん。残される俺のこと、ちゃんと考えてくれた? ストラザーンの養子になったからって、そこで生まれ育ったわけじゃない。どんなに裕福で全員が人格者で優しく迎え入れてくれたとしても、所詮は即席の家族だろう。ほんの数か月で溶け込めるわけないし、『お世話になってる』状態で暮らして行かなきゃならないんだ。それに家臣の中にはあのブライトンから疫病神を引き取ったって、思う人の方が多いんだよ? 養母さんの手前あからさまに態度を示す人がいなくても、わかるんだ。そんなところに俺を放り込んで、姉さんは悔いがないとか、酷いじゃないか。俺は姉さんしかいないのに!」
最後は悲鳴のように聞こえた。
「ごめん。ごめんなさい、クリス。お姉ちゃんが考えなしだった」
ヘレナは立ち上がり、クリスを抱きしめる。
「……っ」
クリスはヘレナの腕にしがみついて声を殺した。
「色々…。本当に色々ありすぎて、大切なことを忘れてしまっていたのね。お母さんが病気になった時からずっと、あなたの存在がどれほど助けになったかわからないのに」
そして、弟がまだ十五歳だということも忘れていた。
我慢強くて、賢くて、時には大人びた口調で姉に説教する弟は。
本当は寂しがり屋で、泣き虫で。
手を離してはいけない存在だったのに。
「ごめんなさい。浅はかで。ごめんね、クリス」
弟の熱い体温に驚きながら、空いている手で背中を撫で続けた。




