襲撃、そして反撃
コールに促され、馬車から降りた。
顔を上げると、目の前には見たことのない風景が広がる。
「いったい…。どういうことだ」
少し前までここは荒れ地に建つ、陰気な建物だった。
生い茂る雑草とみっしりと蔦に覆われ、窓ガラスが割れていたはず。
いや。
窓ガラスは故意に割られたのだったか。
雨に濡れた床、泥と埃の匂い。
コールが善処すると言ったのを覚えている。
それが今。
緑の葉の茂る大樹と木々、そして緑の柵に守られた小綺麗な邸宅に変わっていた。
大樹の存在はいかにもらしいが、どこからが魔導士の技で、どこまでがコールの指示なのかわからない。
「これはこれは。ようやくお目にかかれたようですわね、リチャード・ゴドリー伯爵」
声のありかへ目を向けると、柵の中に行き届いた身なりの貴婦人が佇んでいた。
あれが、カタリナ・ストラザーン伯爵夫人か。
三十歳を過ぎたと聞いているが、傾きかけた日差しの下でも驚くほど美しい。
そのそばにはなぜか布の塊を抱いて立つ、己の臣下のベージル・ヒル。
そして少し離れた場所に何人かの騎士と従者が地面に転がっており、そこにはヴァン・クラークと魔導士庁の制服をまとった男。
あれが、サイモン・シエルという魔導士ということか。
ほかに、商人らしき男とその部下たちも見える。
囲いの中にいるのは、ゴドリーとストラザーン両者あわせておよそ三十人ほどと見積もった。
「…わが邸内でこれは何事でしょうか。ストラザーン伯爵夫人」
一歩踏み出し、女を見据えた。
「…リチャード様」
背後から低い声で窘められたが、無視する。
投げつけてしまった言葉は取り消せない。
「あら、いきなり言うのがそれなの?」
長く細い首をかしげて鮮やかに笑う。
「どうやら、ご当主様はまだお目覚めになられていないようね? それとも、娼婦に溺れてすっかり脳が溶けてしまわれたのかしら」
あからさまな嘲りに、リチャードの全身に血が駆け巡った。
娼婦。
コンスタンスとの愛をなんと。
全員の眼が、耳が、リチャードに集中している。
「こ…」
「こんの、貧乏貴族の分際でッ! 女狐があ~っっ!」
背後で突然強い力の発現を感じ、振り返る間もなくそれはリチャードの耳元を通り過ぎていった。
「死にやがれっ! 魔女っ!」
拳ほどの大きさの石があり得ない速さでストラザーン伯爵夫人めがけて飛んでいく。
「な…っ」
まずい。
そう思うが、驚きに身体が反応しない。
ただ、立ち尽くして笑みを浮かべたままの貴婦人が的にされるのを見ているしかなかった。
誰か。
誰か止めてくれ。
このままでは…っ!
「おばかさんねえ」
到達する直前というのに、彼女はただただ、微笑んでいた。
「……っ?」
キインーーーー!
高く耳障りな音がしたその瞬間、放たれた強い光に眼がくらむ。
そして。
ビュン!!
先ほどよりも速い速度の何かが、リチャードの耳元を通り過ぎた。
「ガッ…ッ!! ぎゃあああああっ!!」
男の悲鳴に振り返ると、御者が右肩を押さえて叫んでいた。
彼の肩から先に、あるはずのものがなく、勢いよく血が噴き出ている。
「痛い、痛い、いたあああいぃぃぃ」
男はのたうつが、彼のそばにはおびただしい血が広がるのみで、何もない。
ない。
どこにもない。
右腕は、どこに行った?
「な、なに…?」
何が起きているのかわからず呆然とリチャードは立ち尽くした。
コールがすぐさま駆け寄り、脱いだ上着を痛みで暴れる男の右肩に押し当て止血を試みる。
「…シエル様! どうかご助力願います!」
コールの呼びかけには全く動く気配を見せなかった魔導士がそばにいるクラークに何事か囁かれ、いかにも面倒くさい様子でゆっくりと歩いてきた。
司祭が鼠色の頭髪だったことは覚えている。
しかしこんな人間離れした容貌の男は確かに見たことがない。
「…止血はしますが、それ以上はお断りします」
痛みに絶叫し続ける御者を見下ろして、ぽつりと言う。
「わかっています。とりあえず今は生かしておかないと、証言が取れません」
「はあ。仕方ないですね」
ため息をつき、立ったままシエルはのたうつ男に向かって手をかざした。
「…」
薄い唇がわずかに動いた。
すると、薄い光にあたりが包まれる。
「終わりました。傷口は塞いでいます。とりあえず」
つまらなそうな表情でコールに手を貸し、立ちあがらせた。
「申し訳ありません、助かります」
コールは膝についた土を払い、物憂げに言う。
「まさか、この者だとは…」
「御者は調べていなかったのですか」
「これは今朝まで、家族の看病を理由に宿下がりしていましたので」
「そうですか」
淡々とした会話。
この二人の間でなんらかの協議が事前になされていたことを感じた。
「ああ…あああ…」
御者はシエルをすがるような眼差しで見上げ、口をパクパクと開けたり閉じたりしている。
「ああ、あなたの右腕の再生は無理ですよ。
あなたさっき身体強化した状態で石を投げ、夫人の頭を砕こうとしたのでしょう?
それが綺麗にそのまま…ちょっと利子を付けて跳ね返ってきたのですから、跡形もないのです。
頭に当たらなかっただけ、良かったですね?」
リチャードの耳元を通り過ぎた石は、御者の右腕に当たり、破裂させたのだ。
「う…うう…」
指も爪も骨も肉も。
小石のかけらほども残っていない。
「それと今の治療ですが、あなたの魔力を利用し、全てつぎ込み止血しました。よって、あなたはこれから一生、魔力を使うことができません。…とはいえ王の寵愛深い伯爵夫人の命を狙って、無事でいられるはずはないでしょうけれど」
「あああっ!」
シエルの言葉が終わらぬうちに、男は打ち上げられた魚のように全身を小刻みにびくびくと震わせ始めた。
「ああ、魔力切れの症状が出てきましたね。いきなり器が空になったのですから、相当苦しいかと。ま、尋問が終わるまでは生きていてくださいね」
歌うような口調で哀れな男に語り掛ける。
高位精霊を思わせる姿と慈愛に満ちた深い声。
男の微笑みがこれほど恐ろしいと思ったことはない。
これが、長年聖職者だった男なのか。
「シエル様。ありがとうございました。お詫びとお礼については後日…」
コールが深々と頭を下げると、軽く手を振り踵を返す。
「いいえ。これも想定内ですから」
そして、立ち尽くすリチャードへ一度も目を向けることなく敷地内へ向かって歩き始めた。
「おい、荷車にジャンを載せて本邸へ運べ!」
クラークが従僕たちに声をかけ御者をコールから受け取り、荷馬車を発進させた。
乗りそこなった者は走って後を追う。
残っていた騎士たちもヒルの指示を受け、それぞれ散っていった。
風が通り過ぎて、大樹が枝を揺らす。
枯れ色の草ぐさのざわめきは、まるでなにごともなかったのよう。
「今のは・・・」
リチャードは額に手を当ててうつむく。
結構な年月、戦場に身を置いてきた。
傍らに立つ者の腕が飛ぼうが腹が割かれようが、いちいち気にしていられない日常にいたはずだ。
魔導士の技も、たくさん見た。
それでも、今起きている事態に頭が付いていかない。
「リチャード様。中に入りましょう。全てはそれからです」
「…っ」
コールの声に我に返り、顔を上げる。
先ほどと変わらぬ位置に、髪の毛一筋も乱れていない女が腕を組んで立っていた。
平らかで、冷ややかで、不敵な笑みをたたえて。
「さあ、事が起きたことですし」
金細工のような色の豊かな髪。
そして強い光を放つ青い瞳。
花の中の花。
「ご当主様のお考えを、お聞かせ願えますか?」
女の中の、女。




