契約内容判明。
「そもそも、どうしてハンス・ブライトン様がこの縁談にたどりついたのかというと、『ご学友』のジェームズ・スワロフ男爵の口利きです」
かろうじて体裁を保っている応接室に集結した。
お客に出す紅茶なんて高級なものはとうになく、姉弟で育てたレモングラスとショウガのハーブティーを提供する。
口火を切ったのは、ラッセル商会会長の息子・テリーだ。
「スワロフ。とうとうあいつまで出てきたのね」
叔母がこめかみを指で押さえる。
父ハンスの『ご学友』は全部で六人。
父を入れて美形七人組として常に一緒に行動し、学校でも社交界でも人気だったらしい。
しかし一人は早世し、残りの五人が寄生虫のごとくブライトンの中を食い尽くし、とうとうこのような事態となった。
「口利きついでに契約に立ち会い、その足で仲良く賭博場へ繰り出したことも調べがつきました」
もう、嫌な予感も何も。
「と、いうことは」
地の底から絞り出すような声でカタリナが問う。
「はい。あっという間に巻き上げられました。すっからかんです。そこでもう一勝負挑もうとしたところで姉の部下が乗り込んだので、ぎりぎり阻止できました」
ラッセル商会の暗部を担う姉のマリアムにヘレナは思わず感謝の会釈をすると、彼女はへらりと笑って手を振った。
「ありがとう助かるわ。でも待って。すっからかんだって言ったわよね。なら担保は何」
「…娘の処女権、です」
ヘレナは自分を指さして首をかしげる。
「それって…。二重契約になるってこと?大丈夫なのかしら」
ゴドリー伯爵との契約と処女を奪う権利。
二重の人身売買は成立するものなのだろうか。
「いや待て、ヘレナ、今考えるのはそこじゃない」
ストラザーン伯爵が眉をハの字に下げる。
「ハンス…あいつ…」
その隣では、叔母が膝の上で両手を強く握りしめふるふると身体をふるわせた。
「あいつは…、あいつは。川へ落ちた五歳の時にそのまま流されるべきだったのよ…」
大きく目を見開き、年を感じさせない透き通った頬から顎にかけて、ぱたぱたと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい、ヘレナ。私がもっとあの馬鹿を監督していれば…」
国の要を担うストラザーン伯爵夫人としてのカタリナの日常はただでさえ忙しい。
そして新興貴族出身のカタリナが名門ストラザーン伯爵家へ嫁ぐ時の条件として先代から飲まされたのは、ブライトン子爵家との関わりを絶つことだった。
今思えば舅はハンスが当主になった途端、ブライトンが沈むと予見していたのだろう。
それ故ストラザーンの目をかいくぐり、ひそかに子供たちの援助を夫婦で行ってくれた。
その仲介者のひとつがラッセル商会だ。
しかし数か月前にくだんの舅が他界し、新当主夫妻としてますます多忙を極めている隙にことが起きてしまった。
「いえ、叔母様は十分に助けてくださいました。そうでなければ、もっと早くに娼館へ売られていたことでしょう」
ヘレナが幼いころの記憶の父は優しく家族的な人間だったように思う。
母を愛し、子供の成長を喜んでくれたはずだったのだ。
笑って過ごした思い出もある。
しかし、母が不治の病と判明した日からだんだんと世界が崩れていった。
『ご学友』が耳元で囁くと、まるで催眠術にかかったかのように言われた通りにしてしまう。
奴らはヘレナの正確な歳など知りはしない。
この発育の遅れた身体と印象の薄い顔立ちが幸いして、商品として見られたことは一度もなかった。
しかしなにかの拍子に気づいたのだろう。
たとえ一銭でも金になることを。
「とりあえず、ハンス様とスワロフは確保していますのでご安心を。そして、彼らが所持していた契約書がこれです」
テリーがしわくちゃになった紙をテーブルに置くと、すぐにカタリナが飛びつくように手にとり読み上げる。
「……。契約した日の二日後にマイセル教会に午後三時挙式。一時間前に現地へ到着のこと」
ヘレナは使用人の付き添いなしで来ること。
持参金は当然のことながら免除。
ブライトン側の挙式立会列席は不可。
婚姻届に署名したのち、帝都内のゴドリー伯爵家で生活。
夫婦の営みは一切なし、白い結婚のまま二年過ごし、不妊を理由に離縁予定。
伯爵夫人として家内経営および社交の必要なし。
ただし、侯爵夫妻が来訪の折には伯爵夫人としてもてなすこと。
「この二年間の契約結婚に関する支度金及び報酬は二千ギリア」
「借金返済にはちょっと足りないですね」
父が賭博場へ走った理由が見えてきた。
足りない金額を補填しようとしたのだろう。
もしこの時点で二千ギリアを納めたならば金貸しから多少猶予を得られたのではないか。
たとえ利子を付けられたとしても時間をかけて残金を返すことは可能だろう。
そこに思い至らないのが、父の人生においての数々の失敗の理由だ。
「なお、ヘレナの失態で離縁もしくは契約破棄の場合は契約金全額返納のこと」
「あ、詰んだ」
思わずふふっとヘレナは笑ってしまった。
「まあ、身体の関係は一切なしなら悪くない話ですね」
「その一点しかないじゃない…」
カタリナの返しにまたへらりと笑う。
「うん、でも、まあ。何とかなりそうな気がしてきました」
こんな時ですら変わらずのんびり話すヘレナを見て、一同は肺の中の酸素がなくなるほどため息をついた。