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【閑話】ミカエル ⑨ ~兄の手紙~



 誰かに目元を優しく撫でられたような気がする。

 辛い夢で苦しんだような、優しい夢に包まれたような。

 不思議な心地で目覚める。


「あれ……」


 身体の上には寝具がかけられていた。


 無意識のうちに自ら潜ったのではない。なぜなら昨夜ミカエルが飛び乗った寝台のベッドカバーはそのままだったから。

 納戸から新たな寝具を取り出された、つまりは誰かがミカエルが寝ている間にこの寝室へ入ったのだ。

 そして起こさぬように、風邪をひかぬようにそっと温かな布団かけてくれた。


「―――っ」


 慌てて寝台から飛び降りて靴を履き、離れを出た。


 まだ外は薄暗いがもうすぐ夜も開けるだろう。

 あたりには靄が立ち込めて露に濡れた植物の匂いがミカエルを迎える。


 一見、平和な晩秋の夜明け前の中、夜露に衣服を濡らしながらミカエルはがむしゃらに走った。


 胸騒ぎがする。

 とてつもなく、いやな予感がよぎり、腹の奥底がむかむかした。


「父さん、母さん、トビー!」


 思った通り、玄関の扉は鍵がかかっていない。

 乱暴に開けて中に入った。

 しんと、不自然に静まり返った屋敷。

 全く反応がないのはおかし過ぎる。


「父さん、母さん――っ」


 応接室はあの時のまま。


 上の階の両親の部屋、兄の部屋ともに何もない。

 いや、何もなさすぎる。


 ふと廊下を立ち止まりあたりを見回す。


 質素な生活ではあったが、父にはそれなりの審美眼があり、多少の装飾がなされていたはずだ。それらが全て消えていた。


 全部の部屋を見て回るよりも先に、三人を探すことが先だ。


 思い当たるのは食堂。

 両親は平民に近い暮らしを好んでいたため、客をもてなす場とは別に気軽に過ごせる部屋を厨房の横に作っていた。


 ミカエルが子どもの頃、家族の幸せな記憶のある唯一の場所だ。



「…とうさん、かあさん、にいさん…」


 震える手で食堂のドアを叩いた。


 返事はない。


 でも、彼らはきっとここにいると、確信した。



「――――――っ。ああ…あああ…………」


 扉を開けて、床にへたり込んだ。


 磨き込まれた飴色のテーブルと椅子そして床。


 温かみのある設えの中に、三人がいた。


 兄はテーブルにうつぶせになり、その近くで両親は床に抱き合うように…、いや、子どものように小さく丸くうずくまる母を父が抱きしめて息絶えていた。



「なんで………」


 立つ力がどうしてもでてこない。


 ミカエルはがくがくと震えながら四つん這いでなんとかテーブルにたどりつく。


 テーブルの上には一本のワインと、グラスが四つ。一つは使われていないが、残りは口を付けた痕跡がある。

 そして兄のそばには、ペンとインク壺と何枚か書き散らされた紙があった。


 ミカエルはテーブルにつかまって立ち上がり、投げ出した腕にうつぶせた兄の顔をそっと持ち上げる。


 目を閉じた兄の口と鼻から赤黒い血が出て、喉から腹にかけて血を吐いた跡が残っていた。


 まだ。

 少し。

 ほんのりと。

 兄の体温が残っていた。


 でも首の血管が脈を打つことはない。


 床に膝をつき、両親に触れてみた。

 彼らの身体はどこに触れてもずいぶんと冷たくて、固くなっていた。

 多分、息を引き取ったのは兄より前なのかもしれない。


 どこか夢を見ているような感じで立ち上がりふらふらと兄の隣の椅子に座り、一番上の紙を手に取った。


 几帳面な兄の文字。

 それが、少し震えていた。



『ミカエルへ

 いきなりこんな光景を目にして驚いただろう。


 母さんが。


 俺たちが目を離したすきに、『貰い物』のワインを飲んだ。


 父さんがなんとか助けようとしたけれど、駄目だった。

 独りで行かせるのはかわいそうだからと、


 父さんも飲んだ。


 俺も、飲むことにした。


 お前は、お前の好きにしていい。


 ただし、この手紙は焼いてくれ。

 それと、南へは行くな』



 目を上げると、向かいの椅子に兄の仕事着と帽子がかけてあった。

 残りの手紙をまとめて手に取る。


『両親はともかく、なんで俺までそうしたのかって疑問に思うだろうな。

 別にお前を仲間外れにしたいわけじゃない。

 俺なりに考えてのことだ。


 こうなった全ての原因は俺にある。


 小さいころ、周囲の子どもたちに兄弟がいるのが凄く羨ましくて。

 両親にねだった。

 弟が欲しいと。


 ぜったい仲良くするからと。

 ぜったい大切にするからと。

 一生の友だちにするからと。


 そうして、母は身籠った。


 楽しみだったよ。

 父さんと母さんと三人で、毎日話していた。


 どんな子だろう。

 弟かな、妹かな。

 もしかしたら双子かもしれない。

 家族が増える未来はきらきらしていて、希望でいっぱいだった。


 そして、お前が生まれた。

 すごく、すごく綺麗で。

 信じられないくらい可愛かったよ、お前は。


 だから、ミカエル。


 天使だと俺が名付けた』


 ミカエルは震える手でつぎをめくる。


『母さんも最初は忘れてたんだ。

 この家に来るまでの色々を。


 父さんに大切にされて、身体の傷はともかく心は治ったと。

 父さんも、母さん自身も思っていた。

 そして、ブライトンの伯父さんたちも。


 だけど、それは巻かれた包帯にちょっと隠されただけで全然治っていなかった。


 結婚してすぐに俺を産んだことをあの女は良く思っていなくて、何かと八つ当たりしようとしているのを父たちが阻止していたけれど、母さんは気配で感じていたのだろう。

 とにかく二人を会わせないことで平穏が保たれていたんだ。

 それと母さんは赤ん坊の異母姉を見た事なかったから、産んでしばらくはお前を普通に育てて来れた。


 だけど育つにつれ、どんどん見た目があの女に似てきてしまった。

 髪と目が同じだったのが、まず引き金になって、そのうち些細な言動もあの女を思い出させた。


 あの女そっくりになったらどうしよう。

 不安を抱えていたけれど、それを父さんに言う勇気がなかった。


 そんななか、あの女も子どもを二人産んだことだし、もう大丈夫じゃないかってブライトンで話になって、あの避暑地での休暇が決まった。

 そしたら、あの女は相変わらずで。

 ハンスを溺愛しているおかげでましだけど、母さんはぎりぎりだった。


 そしたら、あの川の事件だ。


 母さんはすっかり壊れてしまった。


 お前は腹を痛めて産んだ子だ。

 とても楽しみにしていた記憶がある。

 だけど、怖くて仕方がない。


 いなかったら会いたくて会いたくて、心配で心配で。

 ブライトンの祖父母に様子を聞いたり、時には父さんに連れられてこっそり見に行っていた。

 あの女の眠っている姿は見たことないから、離れにお前がいる時は夜中によく見に行っていたよ。


 なんにせよ地獄だ。


 お前と目が合ったら、あの女にされたことが全部よみがえって母さんは駄目になる。

 でもだからといってよその子にしてしまうなんてとんでもない。

 養子縁組はいくつも申し込まれて、何度も決まりかけたけれど、そのたびに母さんが泣いて嫌がるから破談になった。


 その間、お前はどんどん荒れて。

 子どもなのに女の家に転がり込む技を覚えてしまった。

 さらに、ハンスやあのろくでなしたちとつるむようになって。

 俺たちはもう、どうしていいかわからなかった。


 お前は、一緒に住んでいても無視していたと言ったな。


 あれは、本当に悪かった。


 自分が欲しがって生まれたお前なのに。

 お前のことで頭がいっぱいな両親と、俺よりずっと綺麗で賢いお前が、いつの間にか憎らしくなっていた。


 うちはどうしてこうなんだろう。

 どうして、普通の家庭でないのだろう。


 そんなドロドロとした感情をぶつけたら兄としてみっともないと思って、逃げていた。

 そして、両親には手のかからない、頼りがいのある息子としてふるまって。

 偽善者だと自己嫌悪に陥って、さらにお前を恨んだ。


 堕ちるお前を鬱陶しく思い、

 堕ちるお前をざまあみろとあざ笑い。


 なんでなのかな。


 おれは、お前を一生の友にすると、言ったはずなのに。


 なんでこうなったんだろう』


 最後の一枚は、殴り書きだったが、大きな文字で書いてあった。


『今なら言える


 ミカエル


 俺の天使

 俺は、お前を愛していたよ


 だから、南へは行くな


 空を飛べ


 お前は自由だ』


「馬鹿が………っ。いまさら………。なんで、こんな………」


 ミカエルは、手紙を強く握りしめた。

 空のグラスが、テーブルの上でひときわ綺麗に輝いていた。




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