【閑話】ミカエル ⑧ ~家族~
「―――?」
馬車から降り立った瞬間、なんとなく屋敷の様子がいつもと違う気がした。
滅多に帰らないから正確に指摘できないが、静かすぎる。
「ついてこい。二人とも、家の中で待っているから」
促され、仕方なく兄の後を追う。
パット家は男爵で領地の規模も小さい。
ただ、ブライトンが色々と支援してくれているようで、こぢんまりとしているがやはり貴族として暮らしていた。使用人も多くはないが通いもあわせてそれなりにいる。
「今日明日は使用人たちに暇を出している。だから誰もいない」
振り向かないまま、兄は説明した。
考えてみれば帰路も普段ならブライトンか実家の馬車を使うのに、辻馬車だった。それは、ミカエルの帰還を内密にしたい何かがあると言う事か。
「…俺、何かした?」
「それは父さんが話す」
家の中に入り、応接室へ連れて行かれた。
「ミカエル…!」
ソファに座っていた父が立ち上がる。
母はいなかった。前回の帰省で息子を見るなり倒れたのだから当たり前だ。
「いったい、何があったのですか。俺、犯罪だけはしないよう気を付けていたつもりなのですが」
ミカエルに向かっていた父の足が止まる。
「…心当たりは、ないのか」
「ありませんね。有閑夫人のお相手をして雨露凌げる場所を提供してもらっているだけですから。たまに、倦怠期の夫婦が刺激欲しさに俺を当て馬にした上に夫から腹いせに殴られたりはありましたが」
「…ブライトンの…。ハンスの小切手を使ったな。それもかなり…」
「ああ。使いましたよ。ハンスがわざわざ国を発つ前に使ってくれと手渡されたので。でも、それって俺のせいですか。ああ、サインの偽造にはなりますね」
「ミカエル…! どうしてそんなことをした」
「小切手については、母からの小遣いが残っていたと言われたので。なら底をつくまで使い尽くしてやろうと思いましたが、男爵の子せがれごときが使い切れるほどにアザレア・ブライトンの遺産は安くなかったですね。飽きたので、残りは下宿の庭で雑草と一緒に燃やしました」
「そうか…それで…」
父が何事か呟いてるようだが聞き取れない。
「…その。ミカエル。お前は女性に無体を働いたりしていないのか」
「しませんよ。そんな趣味はない。せがまれたら相手をするだけで」
ほとんどの女性はミカエルをアクセサリーにしているだけだ。
まだ十代半ばの少年との情事にのめり込む女の所へ転がり込むときはよほど行き場のない時しかない。
「本当か? お前が勘違いしているだけで、相手は嫌がっていたりとか…」
更に兄が詰め寄り、癇に障ったミカエルは下卑た笑みをわざと浮かべてみせた。
「くどい。そもそも俺はあの行為は好きじゃないんだ。見返りに身体を差し出すだけで、ああそうだ。こういうのを男娼と言うんだっけ? 顔だけしか取り柄がない弱小男爵家の次男に出来る仕事はそれぐらいしかないからな!」
「ミカエル、いい加減にしろ!」
容赦なく殴られ、頬に痛みが走る。
「…っ」
口の中が、切れた。
歯は無事なのは幸いか。
「あ…っ」
なぜか、殴った方が苦しそうな顔をしている。
「ミカエル…っ」
「とにかく。俺はハンスの小切手を使ったこと以外で法を犯すことは何もしていない。ブライトンが訴えると言うなら、何年だって牢に入っても構わない。逃げも隠れもしないよ。どうせ今までもこれからも俺の人生はろくでもないのだから」
「ミカエル、やめて! そんなこと言わないで!」
振り向くと、隣室の扉が開いて、母が現れた。
茶色の髪を小さくまとめ、質素なドレスに侍女のように白いエプロンをつけている。
久々に。
まともに母の顔を見た。
まだ四十歳になっていない筈の母は、やつれ記憶よりもさらにやせ細っていた。
「み、ミカエル…」
そこまでだった。
目が合うと、母は膝の力をなくしふらふらと崩れ落ちそうになったのを父が慌てて駆け寄り受け止める。
「メアリ!」
兄も母のそばへ行ってしゃがみこみ、体調を気遣う。
なんて美しい家族愛だろう。
「いつも、こうだ」
三人は一つの群れで、ミカエルは余所者。
見せつけられ続けた。
「ミカエル!」
背を向けて玄関へ向かう弟の腕を兄が掴んだ。
「どこへ行く」
「もうこんな時間じゃ都へは帰れない。疲れたから部屋で寝る」
「み、ミカエル…。お腹が…空いているでしょう? ごはんを作ったの。あなたの…」
「いらない。あんたたちだけ仲良く食べればいい。どうせ俺の好物なんて知らないだろう」
母の声が追いかけてきたのを振り切った。
おどおどと。
顔を見ないでいれば、会話ができるって言うのか。
「ミカエル、母さんがせっかく!」
父の非難にますます苛ついていく。
せっかくってなんだ。
お前らの勝手になんで俺が合わせなきゃならない。
「今更、家族ごっこか? そんなに俺に説教したいのか。あんたたちは!」
「ミカエル!」
「ああ、うんざりなんだ! ほっといてくれ!」
手を振り払い、駆けだした。
もう日が落ちて外は暗く、この家よりどこも行くところはない。
気が付いたらミカエルの頬を熱いものが伝っていた。
「――っ」
ガブリエラが亡くなってから、涙もろくなってしまったのか。
袖で涙をぬぐい、離れのドアを開ける。
使用人がいないせいなのか、ここも寒々しい。
部屋の中は前に来た時と変わらない。
「っ。ちくしょう…」
歯を食いしばり、寝台に転がった。
仰向けになり、目の上に腕を乗せて、涙を流し続けた。
どうすればよいのかわからない。
彼らが何を言いたいのか、何をしたいのか、さっぱりわからない。
何にせよ今は彼らと向き合うのは無理だった。
どうしても冷静になれない。
とりあえず、明日になったら。
冷たい水で顔を洗って。
そしてあの家の扉を開けて。
話をしよう。
今度は、ちゃんと落ち着いて。
鼻をすすりながら考えているうちに、ミカエルは深い眠りに落ちてしまった。




