【閑話】ミカエル ⑦ ~兄弟喧嘩~
ガブリエラの家を出てからしばらく、ミカエルは女たちの家を転々としていた。
実家も下宿先も自分の居場所ではない。ブライトンも同じく。
ガブリエラがどれほど大きな存在だったかを思い知る。
あの家は葬儀が終わるなりすぐに売りに出されたらしい。
継子は経営に疎く今はもう裸同然の状況で、ガブリエラの遺産が入ったからと言っても長くは続かないだろうと、連れて行かれた歌劇のボックス席で中流貴族の夫人が教えてくれた。
ポケットの中には、あの侍女が持たせてくれた革袋に入れたガブリエラの装身具がある。
それに時々触れるのが癖になりつつあった。
「ミカエル。探したぞ」
劇場を出て夫人を馬車へエスコートしている最中に腕を掴まれた。
振り返ると、兄のトビーが疲れた様子で息を切らしている。
服はブライトンから貰ったものを着用していたが、走り回ったのか髪が乱れて額は汗に濡れていた。
ミカエルを囲う女性たちはほとんど金に困らない暮らしをしている。
探すために身なりを整えていたのだろう。
「ミカエル?」
夫人にはハンスと名乗っていた。
「すみません。知り合いです。先に行ってください」
「…そう。では、またね」
「ありがとうございます。またいつか」
頷き、扉を締めながら彼女とはもう会うことがないだろうと予感した。
見送った後、兄を振り返る。
「何?」
「お前…。とにかく、今から実家へ帰るぞ」
引きずられるようにして道を歩き、辻馬車に押し込められた。
兄は御者に急ぐよう告げ、多額のチップを先に渡す。
大喜びの御者は郊外に出た途端、物凄い勢いで馬を走らせ、馬車は恐ろしく揺れた。
「トビー。だから、何なんだよ急に」
座席に捕まりながら、向かいに座る兄へ尋ねる。
兄を兄さんと呼んだのはあの湖畔の事件まで。
再会した時に呼び捨てにしてみると、兄はどうでも良い顔をしたのでそのままだ。
「それは…」
胸元から手帳を取り出すと鉛筆で何事か書いた。
いつもは丁寧な字だが跳ねる車内で何度も失敗してようやく書かれていたのは『御者に聞かれたくない』という文言。
「そっちへいくぞ」
向かい合っていては声を張り上げねばならない。
頷いて席をつめた。
「父さんと母さんが家でお前を待っている」
舌を噛みそうな乗り心地の中、ぼそりと兄が言う。
「今更。休暇のはじめも同じこと言ったよな」
夏季休暇が始まるなり、兄に連れられて行った実家は最悪だった。
出迎えた母はミカエルを見るなり卒倒した。
慌てて介抱する父と兄、そして気まずそうな使用人たちの顔。
何度これを繰り返せばよいのかと呆れた。
結局いつもの離れで食事も一人でとって寝て、翌朝早くに出ると運よく通りかかった馬車に乗せてもらい王都へ戻った。
兄に会うのはそれ以来だった。
「母さんも苦しいんだ。本当はお前に会いたいけれど、正面から顔を見ると…」
「ああ、はいはい。アザレアを思い出して具合悪くなるんだろう。また呼び寄せるとか、自傷行為が好きなのか」
「お前!」
怒った兄がミカエルの襟をつかむ。
「殴りたきゃ、好きにすれば。都合の良いことに今は密室で爆走中の馬車じゃ俺も逃げられない」
この顔で恩恵を受けるのは倫理観のゆるい女たちに寝食を提供してもらえた時くらいで、あとは少年好きの変態と女の代わりに抱きたいと言う馬鹿に追いかけまわされ、思い通りにならなければ殴られた。
本当に、ろくでもない。
つまらない人生だ。
「―そんなつもりは、ない」
ゆるゆると手を離して、兄はうつむいた。
「…母さんは、いつもお前のことを気にかけていたよ。心の傷のせいで、向き合えないのを申し訳ないと。父さんだって…」
「そういわれてもね」
ミカエルは肩をすくめる。
「遠くから見るだけなら大丈夫なんだ。だから、こっそり学校行事の参観に来ていたんだよ」
「はあ? 今更なにが言いたいんだあんたは!」
思わず、隣の兄を見上げた。
祖父曰く、野良作業が好きな兄は帰省するたびに両親や領民たちと畑の世話をしていたそうで、農夫のようながっしりとした身体つきをしている。
安い辻馬車の中で隣り合って座っていると腕や足がどうしても触れてしまう。
この微妙な距離から感じる兄の体温にミカエルは戸惑い、反発してしまった。
「この十年の間、あんたたちは無視していたじゃないか。それが今度は遠巻きに見ていた? だから何だよ。ブライトンで教師に虐待された時も里に戻って苛められた時もあんたたちは、知っていながら俺に声一つかけやしなかったくせに」
「それはお前がハンスを川に突き落としたから母さんが…」
「突き落としたさ。それであのババアが怒り狂って暴れたのは確かに俺のせいだ。だけど、俺はまだ六歳だったんだぞ。家の周りしか世界を知らない子どもが何も聞かされずにいきなり高級な避暑地に連れて行かれて、頭に血がのぼってやらかした責任を、俺はいったいいつまで背負えばいいんだよ!」
「…ミカエル」
「俺のことがそんなに嫌なら、どうしてさっさとどこかへ養子に出さなかった。ブライトンはそのつもりで俺を連れ帰って仕込んだんだろ?」
「ミカエル!」
ブライトンでのカタリナとミカエルの扱いの大きな違いは、彼女はいざという時のスペアでミカエルは外に出す心づもりがあった点だ。
とりあえず貴族もしくは豪商の子弟としての基礎さえ学ばせておけば、あとは入った先で教育を受ければよいと考えていたことに途中で気づいた。
実際、何人かと顔合わせらしきものが行われたが、すぐに立ち消えになった。
誰にも必要とされていないと思い知らされ、自暴自棄になり、ブライトンからも足が遠のいた。
「ミカエル。そうじゃない。ブライトンの家も誰も、そんなつもりじゃなかった。ただ、荒れていくお前をどうすればいいかわからなくて」
「はっ。笑わせてくれる。あの別宅にあんたと二人、学校へ通うために住まわせてもらってから何年も経つが、あんたはずっと俺を避けていたよな? あんたは大好きな母さんを壊した俺が憎くて憎くて仕方なかったんだろう。正直なれよ。お前なんか生まれなければよかったって言えよ!」
「もうやめろ、ミカエル!」
大きな手で突き飛ばされて、座席から転がり落ちた。
床でしたたかに肩を打ち付けてミカエルは低く呻く。
「あ…」
焦ったような表情で兄はミカエルに向かって手を伸ばす。
しかし、ちょうどその時馬車が停まった。
「あの…大丈夫ですか」
籠の外の御者がおそるおそる声をかけてくる。
「そのう。着きましたけれど」
気が付けば、パット家の門の前だった。




