【閑話】ミカエル ⑤ ~仮面舞踏会~
学友たちからいいように使われ続けるハンスをなんとか変えようと、とうとうブライトン子爵が息子を連れて旅に出た。
しかし出発の直前にハンスはミカエルを密かに訪ね、一冊の小切手帳を渡した。
「お母さまから貰った小切手が残ってた。これならお父様たちにもばれないよ」
なぜ親に隠れてまで自分たちに貢ぎたいのか、ハンスの思考回路は理解不能だ。
最初は返すつもりだったが、アザレアに貰った小遣いと聞いた瞬間に考えが変わった。
使い切ろう。
あの、忌々しい女のものだというなら。
そこからミカエルは小切手を使うたびにハンスを名乗り、仲間もミカエルをハンスと呼んだ。
そもそもミカエルはだいぶ前から女性たちの所へ転がり込むときは様々な偽名を使い、中でもハンスの使用率が一番高かった。
そのうち自分がハンスなのではないかと思ってしまうほどに。
夏季休暇が始まると珍しいことにいったん兄に伴われて実家へ戻ったが、居づらいのは相変わらずで、ミカエルはすぐに都へ戻り女性宅を渡り歩き、時々仲間と合流して遊んだ。
やがて「もっと豪勢に小切手を使おうぜ」とジェームズたちが言い出した時、そろそろ潮時だなと感じた。
ハンスを名乗るのも、この金を使うのも、飽きてしまった。
何をやっても楽しくなく、ますます心が渇いていくだけだ。
「これで最後だぞ」
そしてたまたまその夜に開催されていた仮面舞踏会で一番高い部屋を六人分借りた。
「うわー。すごいわねえ」
危うい子たちだな。
見かけてまず思った。
ここはダバーノン大公所有の屋敷の一つで、舞踏会などの催しに貸し出されていた。
高位貴族の夜会やお茶会が主だが、たまにこういった仮面舞踏会も開催される。
大公自身が仮面舞踏会の隠微な雰囲気を好むからだろう。
出席できるのは貴族や富裕層だがそれはあくまでも建前で、仮面をつけているのだ、相応の格好をしていればよほどのことがない限り追い出されることはない。
明らかに初めて足を踏み入れた様子の四人の少女たちは、身体つきから十代半ばに達していないとミカエルは予想する。
ドレスも仮面も借り物らしく雑に調整した後があり、数年前の流行で既婚の女性が好んだ色合いで若い彼女たちにはどれも気の毒なほど似合っていない。
貴族が処分したものを町の衣装屋で借りた平民の娘といったところか。
はしゃいできょろきょろと見回す二人と気後れして縮こまりもう帰りたそうな二人。
主催者も場を取り締まる係も見当たらず、どうしたものかとミカエルが考えているうちに一人は良くない雰囲気の男性の手を取って人ごみに消えた。
もう一人は隣にいた子がいなくなったことにも気づかず、踊りたそうにゆらゆら揺れている。
背中に流れる金色の髪を見ているうちに、ミカエルは歩み寄って話しかけていた。
「一曲、お相手願えませんか、お姫様」
手を差し出し、腰をかがめる。
芝居がかった誘いに、驚いたのかぴょんと軽く飛び上がり、それからおずおずと小さな手を載せた。
「うれしい。よろこんで」
仮面に覆われていない白い額が見え、彼女の幼さがはっきりとわかる。
くすくすと笑いながらステップを踏む少女は予想以上に上手だった。
強い化粧の匂いと悪趣味なドレスがアンバランスで頬を寄せると口元から甘すぎる匂いがした。
「ここにきて、何か飲んだ?」
「ええと。桃のカクテルを頂いたわ。あまーくておいしいの」
赤すぎる口紅を塗った唇からとろんとした声が聞こえてくる。
この子は既に薬を盛られていることを確信した。
おそらくもう一人も。
後の二人は効かなかったか口を付けていないか。
一曲踊り終えたところで手を引いてホールを後にする。
途中で従業員を捕まえて、三人の少女の背格好を教え、面倒なことになる前に保護した方が良いことを告げた。
悪趣味だが材質は悪くないこのドレスは借り賃もそれなりにするはずだ。
主催者が用意した女性も存在するが、この子たちは明らかに違う。
それなりに小遣いを持っている家柄の少女たちが好奇心から親に内緒で来てしまったと考えた。
「王子さま? どうしたの」
けたけたと声を上げて少女は笑う。
こんなことならダンスに誘うのではなかった。
すっかり酔いが回ってしまった様子の少女の腰に手を回して半ば持ち上げるようにして廊下を歩く。
係に任せることも考えたが、安全とは言い切れない。
ミカエルはジェームズたちと貸し切った場所へ向かった。
「うわあ、きらきらしてる」
金の塗装をされている廊下は天井から下がっているシャンデリアの光に反射して輝き、少女はご機嫌にステップを踏みながら歩く。
舞踏会はまだ序盤で、ジェームズたちはまだホールで女性を物色している事だろう。彼らがいなくて良かった。
部屋へ押し込むと好奇心旺盛な様子であちこち見て回り、最後は寝台で子どものように転がった。
「うふふ。ママのお部屋みたい。ベッドもとっても大きいの」
ちょっと金のある町娘と思っていたが、親は豪商かもしれない。
「ええと。まずは靴を脱ごうか」
ミカエルが声をかけると幼子のようにこくんと頷き、這い出してきて、足を出した。
「ねえ王子様。あなたのおなまえはなあに」
「うん…そうだね。ハンス、かな」
「そう。私はリリー。ママがそう呼んでいたわ」
そう言いながらしくしくと泣き始めた。
「ママね。もうリリーといても楽しくないんですって。綺麗な男の人とどっか行っちゃった」
くすんくすんと鼻を鳴らして自ら仮面をむしり取り、手の甲で目をぐしぐしとこする。
暗めの照明の下でもはっきりわかるほど厚化粧が崩れて顔が大惨事になっていたが、酔って幼子になってしまっているリリーはお構いなしだ。
「ちょっと待って、リリー」
ミカエルは自分も仮面を外し、洗面所へ行き手巾と洗面道具を一式運んでくる。
「顔をこっちに向けて」
「うん」
素直に目を閉じて差し出すリリーの顔に湯に浸した手巾を当て、丁寧にふき取ると予想通りまだあどけない顔立ちが現れた。
「もう目を開けていいよ」
「うん。うわあ、おうじさま、てんしさまみたい」
目を開くと自分と似たサファイアの瞳。
よくよく考えるとこの子は髪も瞳も自分と容姿が少し似ている。
そしてブライトンの兄妹とも。
しかし親戚筋でこの年齢の少女に心当たりはない。
とりあえず何を飲まされたのかわからないが水を汲んできて飲ませた。
しばらくするとドレスが重たいと言い出したので脱がせると、シュミーズ姿で無防備にもころんと横になる。
「ねえ、おうじさま」
「ん?」
「わたしね。おうじさまをさがしていたの」
腹ばいになってくすくす笑う。
「ちいさいときにね。こわいめをしたおにいさんのおよめさんになりなさいっていわれたの。こわかった」
親に売られると言う事なのだろうか。
後妻か貴族の年寄りか。
「それで?」
リリーはぱんぱんとベッドを叩いて隣に来てとねだった。
近くに寝そべると、うふふふと嬉しそうに笑う。
「ここじゃないどこかへいきたいなあって。だれかつれていってくれないかなあ」
ここじゃないどこかへ。
自分もそう思う。
「俺も、どこかにいきたいな」
髪をなでてやると毛並みを整えてもらう猫のように目を細める。
「ねえ、おうじさま…」
たわいのない話をしているうちに、二人の距離はどんどん近くなり、唇を重ねた。
一瞬、駄目だと思ったけれど、いずれ年の離れた男に嫁がされるこの子の初めてを思うと哀れに感じ、そのまま衝動に流されてしまった。
薄暗い部屋での、ほんの短い交わり。
きっと薬のせいで、この子は何も覚えていないだろう。
それでいい。
ことが終わるとベッドサイドの抽斗にある避妊薬を飲ませ、ドレスを着せ直し、馬車を手配した。
別れ際に離れたくないとぐずるリリーに「また会おう」と宥めて乗せた。
御者には門を出てからこの子に行き先を聞いてくれと頼み、見送った。
彼女は自分が誰か知らないままだ。
だから、自分も彼女が誰なのか知らないままがいい。
「さよなら、リリー。しあわせに」
見上げると濃紺の空に灰色の雲が浮かんでいた。




