頬に咲く小さな花
「世の中の人々は…我が国の魔導士庁ですら、最強は光か闇で、土魔法はせいぜい土いじりに効能がある程度だと思い込んでくれているおかげで、本当に助かるわ」
土も砂も石も全て土魔法の管轄だ。
そして、地上にそれらの存在しない場所はどこにもない。
影のない世界が存在しないように。
「私の可愛い末っ子ちゃん。もう大丈夫ですからね」
身体をかがめて子どもの頭を撫ででつむじに口づけを落とすと、彼はリリアナを見上げてこそこそと内緒話をした。
「ええ、いいわよ。いってらっしゃい」
にこやかに送り出されて、子どもは小さな足を素早く動かし、まりが弾むようにミゲルたちの元へ駆け寄る。
「おじしゃん、りゅーしゃん、おはようごじゃいましゅ」
鼻の先まで近づくと、礼儀正しく両手両足をそろえ、ぺこりと頭を下げられ男と竜は戸惑った。
「あ…ああ。おは…よう」
今がまだ朝だと言う認識は彼らになく、ぱちぱちと目を瞬く。
「わたち、らぁあん。よっちゅ。おじしゃんは?」
「ミゲル・ガル…いや、ミゲルだ」
子どもは平べったく地面に伸されている二人を、まるで蟻の行列を観察するかのように腰を落としてじっと見る。
「そうなの。みーしゃんね。みーしゃん、ぷんぷんおわっちゃ? りゅーしゃんだいじょぶ? いたいいたいない?」
『キ……』
竜は萎れた表情でかすかに声を上げた。
消耗しているからなのか気を使っているのか、吐息も穏やかで幼児がふきとばされることもない。
「りゅーしゃん、いいこいいこねー」
一旦立ち上がってちょこちょこと竜のそばにいくと伸びあがり、大きな鼻先を小さな手で撫でた。
「―――!」
怖いもの知らずにもほどがある。
母国の人々はミゲルの制御下でないと竜に触れることはない。
いくら拘束されているからと言って、噛みつかれないという保証はないと言うのに。
ミゲルがリリアナのいた方角へ視線をやると、彼女は地面にどっしりと座り込み、たてた片膝に肩肘をついて興味深げに眺めていた。
「その子のそういうところ、ジュリア様にそっくりだと思うわ」
彼女が顎でくいっと示したさきでは、子どもが手でペタペタと竜の顔を触りまくったのち、「りゅーしゃん、はなあいしゃちゅの、ちゅーねえ」と低い鼻をぺとりとくっつけている。
「…は?」
ミゲルの声が聞こえたらしく、ほわほわの金髪頭がくるりと振り向いた。
「みーしゃんにも、はなあいしゃちゅねー。おちょもでゃちの、ちるちねー」
もみじの手をのばしながら駆け寄り、地面に腹ばいになるなりミゲルの鼻にぴとりとくっつけてくる。
「な、ななな」
「にゃにゃにゃ?」
間近で腹ばいになったままこてんと首をかしげた。
明るい色の金髪も澄んだ青い目も白い肌も憎いあの男を連想させる。
でも、それらはジュリアの色でもあり、色々な感情がないまぜになる。
捕らえた時にミカエル・パットは言った。
『たまたま髪と瞳の色があいつに似ていたからうっかり手を出した』と。
そんな理由でジュリアは汚され、子どもを産んだ。
「みーしゃんも、にゃーにゃーねえ」
よしよしと猫の頭を撫でるように触れられ、叫びたくなるのを堪えた。
「みーしゃん? かなちぃにょ?」
初めて間近に聞く舌っ足らずの声に胸の奥底を撫でられ、荒ぶりかけた気持ちが静まる。
「…大丈夫だ」
「だいじょぶ?」
ぱっと花が咲くように子どもは笑う。
そして、彼の片頬にえくぼがはっきりと浮かんだ。
ジュリアも。
淑女らしさを取り払って心から笑った時に同じところにえくぼが現れた。
あの美しい頬に可愛らしい小さな花が咲いたように見えた。
それがすごく嬉しくて、もっともっと愛しくて。
「ジュリア…。君は…」
何故なのだろう。
そもそもあの男と妻の姿かたちは似通っていた。
当たり前だ。
彼らはガルヴォの領地の隣にあるフォサーリの血が流れているのだから。
「しょだ! みーしゃん、おちょもでゃち。すーしゃんも、おちょもでゃちね~」
ごそごそとズボンのポケットから何かを取り出す。
「ほりゃ! すーしゃん。りぃーりゃしゃんの、おちょもでゃち、なんでゃってー」
小さな指が摘まんでいたのは豆粒に見えたが、横から黒いモノが四本生えていて、目と口らしきものがある。
「すーしゃん。がりゅ…ぎゃりゅびょ? ってとこにょ、ちゅちのしぇーりぇーしゃん!」
「は…?」
ミゲルはライアンの言葉をもう一度頭の中で組み直す。
ガルヴォの土の精霊、そういったのではないか。
そして、リィーリャ? まさか…。
「はい、すーしゃんも、みーしゃんも、おちょもでゃちのちるちねー」
言うなり、ライアンはその豆粒の精霊をミゲルの鼻に容赦ない力で押し付けた。
「ちゅーね~」
すぐにどけてくれたが、その豆粒は手足をだらんと下げて、何とも困惑した様子だ。
しかし、その土の精霊が突然目を真ん丸にしてぴくんと動いた。
「すーしゃん?」
ライアンの手を振り切り、一直線にリリアナの方へ飛んだ。
「どうしたの、土の民」
彼女は立ち上がって精霊を両手で受け止め、話しかけた。
二言三言交わしたのち、精霊を天へ放り投げる。
「ミゲル・ガルヴォと眷属の竜よ。土の道を通って今すぐ戻りなさい。貴方の息子が襲撃されている」
ぱちりと指を鳴らす音がして、ミゲルと竜から土の枷が消えた。
「どういうことだ」
「まさか、生まれたての赤ん坊を無防備な状態で放り出してここへ来たとは思わなかったわ。貴方、待望の息子だったのではないの?」
呆れた顔をしてリリアナは手指を色々な形に組んでは開き、何事か術を展開していく。
「そんな…。なぜ、なぜそんなことが…まさか、どこかの国が攻めてきたのか!」
ようよう立ち上がったミゲルは現実が受け止めきれないままだ。
「ちがう。貴方の国の人々は、サルマン国の血を引いた子どもがガルヴォの当主になっては困るのよ。戦好きの王たちが翼竜騎士団の所有権を主張するに違いないと思ったのね。まあ当たらずとも遠からずだろうけれど」
「そんな!」
「言いあってる場合じゃないわ。土の民とマレナが頑張っているけれどもうもたない。とにかく行きなさい。あちらへ着いた瞬間、奪った力も戻るはずだから、全力を尽くすのよ」
最後に、ぱんっとリリアナは両手を合わせた。
その瞬間、竜巻彼らの前にのようなものが起きて、ミゲルと竜は吸い込まれていく。
「リリアナ・ホランド!」
「今の貴方にとって、何が一番大切かを、思い出しなさい!」
「―――っ!」
ミゲルと竜が最後に見たのは、リリアナに抱き上げられて無邪気に笑って手を振るライアンだった。
ぷくりと膨らんだ薔薇色の頬には、小さなえくぼが浮かんでいたような気がする。




