リリアナ・ホランド
黒竜とミゲルは魔の道を通り抜ける。
はやく、はやく。
はやく、あの諸悪の根源を滅せねばならない。
彼らの頭の中は真っ黒に塗りつぶされてしまった。
抜けるような青空へ一瞬にして黒雲が現れる。
「…来たわね」
農作業の手を止めて、リリアナ・ホランドは南の空を見つめる。
「坊や、こっちにおいで」
そばで地べたに座り土いじりをして遊んでいた子供は、きょとんと目を丸くしたが、立ち上がって駆け寄り、ぽすっとリリアナのスカートに飛び込み、足にしがみつく。
「母さんに、しっかり掴まっているのよ」
わからないなりにも、金の綿毛のような頭でこくんと頷いた。
「ギャ―――ァァァァァ」
雲の塊の真ん中に黒光りする大きな魔方陣が描かれ、中心円から黒竜の顔だけが覗く。
真っ赤な長い舌を口から出して叫ぶ姿は、禍々しい。
「かあしゃん…」
小さな手できゅっと握りしめてきたのを感じ、リリアナはふわりと笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。母さんはね。世界一強いのよ」
幼子の髪をかき回すように撫でた後、低く呟く。
『防御盾。最大』
ぱちんと指を鳴らすと、黄金色の魔方陣が母子の前に現れた。
それと同時に、竜の全身が魔方陣から飛び出てくる。
「ファ―――オオオオゥ」
頭を左右に揺らしながら竜が威嚇するように周囲に声を響かせた。
「全く…。迷惑だわ…。ほんっと…」
とてつもない衝撃音と地響きをさせながら黒竜は着陸する。
そして、その背から黒衣の男が飛び降りた。
「干し草もただじゃないのよ。せっかくここまで育てたというのに」
母子と、竜と男。
彼らが対峙しているのは大きく開けた丘陵地で、ホランドの屋敷からは離れている。
家畜が冬を越すときのために干し草を作っている場所だった。
「リリアナ・ホランド…。その餓鬼を渡せ…」
ミゲル・ガルヴォがゆっくりと草を踏みしめながら近づいてくる。
肩を怒らせ、気が逸っているのか首だけ前に突き出ていて、まるで彼自身が竜のような姿だ。
黒髪はすっかり乱れ、逆立ち、眼はぎらぎらと…金色に光っていた。
声はしゃがれ、ヒューヒューと息が上がり、まるで年寄りのようだ。
「…ジュリア様がお亡くなりになられたのですね。お悔やみ申し上げます」
子供を後ろにかばった状態でリリアナは略式の礼の形を取る。
「そんなことはどうでもいい。その餓鬼を寄こせ」
瞳孔は月の刃のように縦細いものに変わっていて、獲物を狙う爬虫類のようにきょろきょろとせわしなく動く。
「そんなこと…?」
リリアナははっと鼻で笑う。
「…気は確かですか? ジュリアナ・クラインツ…いいえ、ジュリアナ・ガルヴォ公爵夫人はミゲル・ガルヴォの番だったはずでは?」
「ジュリアは死んでいない。いや、生きている。今のこの状態が間違っているのだ。だから、俺が正してやるんだ」
「…は?」
「ジュリアはあのろくでなしに犯されてその餓鬼を産んだ。そいつを贄にすれば、時間を戻して…」
辛うじて残していた礼儀をかなぐり捨ててリリアナは言い返した。
「ねえ、馬鹿なの? もし思い通りに出来たとして、ジュリア様が喜ぶと思うの? 子どもの命を使って生き返ったなんて知ったら…」
「お前に何がわかる! お前なんかにジュリアのことが分かってたまるか!」
「わかるわよ! たった数分しか話をしていないけれど、綺麗な水の中でしか生きられない、清い心の女の子だったってことくらいはね! あんたジュリア様を虐げた使用人の骨を折りまくった時、どうなった? 仲裁に入った騎士の腕を飛ばしてしまった時には? もう忘れてしまったの? あんたの愛は、いつだって見当違いなのよ!」
「うるさぁぁぁぁぃぃぃぃぃ~ッ!」
リリアナの言葉を薙ぎ払うかのように右手を高く上げた後に大きく振り下ろした。
「ギィィィィィエェェェェ―――ッ!」
ミゲルの癇癪に呼応して黒竜も泣き叫ぶ。
途端、暴風が巻き起こり、それと共に真っ黒な煙がいくつも槍となってリリアナたちへ向かって飛んでいった。
『破ぁっ』
リリアナが拳を前へ繰り出すと、ミゲルたちの術は四散した。
「くそ、くそくそくそ! バレリアが言ったんだ! その餓鬼と村一つくらいを贄にすれば、ろくでなしと出会う前まで巻き戻せると!」
激高したミゲルは手の中で子どもの頭ほどの黒い砲弾を作り出して飛ばすが、轟音と共に真正面に来たそれをリリアナはなんなくはね返し、威力を増したそれが戻ってくる。
「この女――ッ!」
竜が炎を吹いて闇の砲弾を消滅させた。
「彼と出会わなければすべて丸く収まると思っているの? とんだお子様なのね。相手が変わるだけよ! もっとひどい男が現れ…」
「黙れ黙れ黙れ――っ」
ミゲルは地面に手をつき、吠える。
すると、彼の身体から沸き上がった黒煙と竜の口から噴き出る炎が合体し、渦を巻きながら稲光を思わせる速さで突進した。
「話にならないわ」
リリアナは両手を前に出し、腹の底から低い声を出す。
『吸収』
すると、母子の前に掲げられた魔方陣に黒いモノは次々と吸収されていく。
凄まじい風圧も軽減され、リリアナの農婦衣装がはためき下の方で雑に縛った枯草色の髪がおられる程度の風しか届かない。
「な…っ」
ミゲルは驚き、四つん這いのまま固まった。
「ごちそうさま。あんたたちの魔力、頂いたわ」
胸の前でリリアナがぱんっと両手をあわせる。
『土よ おしおきを』
ドドドドドドドドド―――。
ザザ―――。
ミゲルと竜の上に突然大量の砂が降ってきた。
まるで桶に汲んだ水を逆さにしたかのようだ。
砂の重さに彼らは地面に押し付けられた。
「―――ッ!」
ミゲルたちの声にならない悲鳴に唇の端を上げたリリアナはぱちりと指を鳴らす。
『捕縛』
男と竜を埋めた砂山が、粘土のようにうねうねと動いて形を作り始める。
一人と一頭は顔だけ辛うじて出した状態で素焼きの人形のように固められた。
「うっ…。これは…なんだ…」
腕を前に組んで仁王立ちの状態で見下ろしていたリリアナはしばらく眺めた後、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
その後ろからは女の麻布のスカートの裾に掴まった男児の顔がひょっこりと覗いている。
この時になりようやくミゲルはリリアナのそばに子どもがいたままだったことを思い出した。
「世界最強の竜と竜使いを捕縛だなんて、なんていい眺めかしら。腹ばいになってしまったあんたたちにはわからないだろうけれど。私のかわいいゴーレムたちがしっかりと上から乗って固めてくれているから、動けないわよ」
「な、なんだと…」
『キ、キエ…ェ…』
一人と一頭は敗北を認めるよりほかはなかった。




