闇の領域
ジュリア・ガルヴォ公爵夫人は微かな微笑みを浮かべ、幼い子供のような表情で静かに息を引き取った。
二十歳を迎えてまだ数か月しか経たぬ若妻の身体は驚くほど軽い。
寝台に上がり、抱きしめ続けていたミゲルの嗚咽が突然ぴたりと止まった。
「空…。空、だと…?」
妻を降ろして綺麗に寝具をかける。
柔らかな金髪をすくい上げ、唇を落としたあと、肩を落としたままぼそぼそと何事か呟く。
「ミ…それと…お前たちだけは決して許さない」
「は? 公爵閣下?」
ただ事でない雰囲気にマレナが声をかけたが、何も答えずに彼は窓辺へ向かって走り出し、テラスに出た。
「ピ―――ィ」
口元に指をあてて空に向かって高い音を出す。
すると、彼が使役している黒竜が飛んできた。
大きな翼が起こす羽ばたきによる風は強く、部屋のものは音をたてて飛んでいき、人々は悲鳴を上げる。
「ギャ―――オオオゥ」
首を天に向け一声鳴くとわずかに身体をミゲルに向けた。
「いくぞ」
鞍も何もついていない状態の竜にミゲルは飛び乗る。
彼の魔力をもってすれば装備など必要ない。
竜の背にまたがった黒衣の男は、あっけにとられる人々を残し、激しい雨の中消えていった。
「―――っ、しまった。あの馬鹿!」
ジュリアの亡骸を風圧から守るために覆いかぶさっていたマレナは、はたと気づく。
寝台から飛び降りて、側にいたホセの腕をつかむ。
「マレナ?」
「ミゲル・ガルヴォが去ったことによって、ここは丸裸になった。今から何が起きたとしても、自分たちの命を守ることを優先してくれ」
言い終わる前に目もくらむような光が差し込み、間髪を置かずに雷がすぐ近くに落ちた。
「な…、なんだ…これは」
地響きと木々のざわめき。
嵐の始まりだ。
「多分ご子息の命が狙われている。私はこれから救出に向かう。おそらくここを出ないと皆が巻き添えをくらうだろう」
「そんな!」
ホセは否定しかけて呆然と立ちすくむ。
心当たりならいくらでもあるからだ。
「だが、こんな雨の中…」
生まれたての赤ん坊を連れて出るのは無謀だ。
「それしかない」
言うなりマレナは帯剣し、赤ん坊を産湯に浸からせていたはずの部屋へ向かった。
「くっ…!」
扉を蹴り開けて目に入ったのは、ゴドリーの使用人たちが床に転がっている光景だ。
出産のとき使用人を全て身内で固めた。
生まれた赤ん坊の世話も同じくゴドリーの者たちに任せていたので油断していた。
手練れの騎士ですらうつ伏せで倒れていて、まだ生きているかどうかもわからない。
さらに奥に行くとホセの妻が胸元から血を流し、仰向けに倒れていた。
「なんてことを…っ」
そして、ガルシア家の上級侍女がベビーベッドの前に立ち、両手に血まみれの短剣を高く掲げ、今まさに赤ん坊へ振り下ろさんとしているところだった。
「させるかッ!」
首にかけていたネックレスを引っ張り出して千切り、侍女の顔面に向かって投げつけた。
鎖に通していた指輪が目に当たり、女は短剣を落とす。
すかさずマレナはその女の頭を掴んで容赦ない力で壁に叩きつけた。
「ぎゃっ…!」
鼻から下を骨折しただろう。いや、させた。
素早く女の両手両足を剣の鞘で叩き潰した。
縛っている暇はない。
「良かった…」
マレナの暴行の衝撃にかくかくと小刻みに震える女を捨て置き、寝台に駆け寄ると幸いなことに子どもは無事だった。
月足らずで生まれた小さな赤ん坊は頭髪は黒く、薄く開いた瞼から覗くのは青い瞳と両親の特徴を綺麗に引き継いでいる。
ジュリアの作った産着を着せられ、かすかに口を動かしながら小さな指を曲げたり伸ばしたりしていた。
「必ず、このマレナがお守りします。命にかけても」
そう告げると素早く毛布できっちり包む。
これもジュリアが縫ったものだ。
守ってくれることを祈りつつ、マレナは急ぐ。
さらに近くにあった長い布を使い身体に巻き付け、胸元で赤ん坊を固定する。
そうしている間にも、ざわざわとした不穏な音がこの部屋を目指しているのを感じた。
隣室は使用人の控室だ。
マレナは赤ん坊を抱えて滑り込み、同僚のマントを拝借して使用人用の通路を走り出す。
朝だと言うのに陽の力の届かない闇の世界。
地面も何もかも、敵の領域になってしまった。
一か八かの賭けだ。
マレナは、屋敷からできるだけ遠ざかるために雨の幕の中へ飛び込んだ。




