幸いと、悲劇と。
マリアロッサは去ったが、マレナたちゴドリーの使用人が専属として周囲を固めてくれたおかげで、ジュリアはずいぶんと過ごしやすくなった。
さらに平民出身で親族の中にサルマン国出身の者がいるホセの妻が新たに侍女として加わり、夫婦ともども両者の橋渡し役となってくれ、少なくとも侍女たちの隠語を使った陰口は途絶えた。
ミゲルとジュリアの仲もゆっくりと変わっていく。
二人でキタールを弾く姿も良く見られるようになった。
ジュリアは実家から持ってきた飴色のキタールで、ミゲルは妻へ贈った黒のそれ。
ミゲルのたどたどしいながら必死の指遣いにジュリアは微笑みを浮かべ根気強く教える。
夫婦の心の距離が少しずつ近づいていった。
やがてジュリアの体調が回復して間もない年明けに、また妊娠が判明する。
ゴドリーの使用人たちに護られているせいか悪阻は前ほどひどくなかったが、万全とは言い難い体調が続く。
そもそも人並外れた魔力量の男の子どもを身ごもることは、誰であれ危険なことであった。
ましてや不安要素を多く抱えたジュリアの身体では、出産まで持ちこたえられるかどうかぎりぎりのところだと医師はマレナに打ち明けた。
ライアンの父であるミカエル・パットは魔力量の低い家系だったからこそ、妊娠出産共に比較的穏やかなものだったのだと思い知る。
密かに流させるという選択肢が頭をよぎるが、それはあり得ない。
子どもが生まれてくるのを楽しみにせっせと産着を縫っているジュリアの笑顔に、マレナは泣きたくなるのを堪えた。
腹の中の子はどんどん育っていく。
夫婦で愛し気に撫でては話しかけると、胎児がぽこんと母の腹を蹴って応えた。
ミゲルは初めての経験に目を丸くして、そんな彼をジュリアは嬉しそうに見つめる。
そして三人の未来を想像しては語り合い、声を上げて笑う。
ミゲル・ガルヴォにとって一番幸せだった時だった。
彼らの寄り添う姿はまるでおとぎ話の世界のように美しかった。
異国の花嫁を敵視する人々ですら見とれるほどに。
しかし、夏の終わりに事態は一変する。
医師の見立てよりも早くジュリアは産気づいた。
慌てて皆で出産の準備に取り掛かったが、難産で時間と共に母体も赤ん坊も消耗していく。
ミゲルは産屋の前に立ち尽くし、ただただ妻子の無事を祈り続けた。
やがて、弱々しい産声が明け方の空に放たれた。
「男の子です」
医師の報告の途中でミゲルは部屋へ飛び込んだ。
「ジュリア!」
喜びを露わに駆け寄ろうとしてミゲルは異変に気付く。
マレナをはじめ、ゴドリーの使用人たち、そしてホセの妻の表情が暗い。
「なにが、あったのだ…」
不安に立ち止まるミゲルの腕をとり、マレナは女主人の枕元まで連れて行った。
「ジュリア様に労いを」
寝台に横たわる妻は、もともと白かった肌が紙のように血の気がなかった。
呼吸も微かで、頬に触れるとひんやりと冷たい。
「ジュリア…。男の子だ。よく頑張った。ジュリア…。私たちの子が生まれたよ」
長い睫毛を重たげに、ジュリアはうっすらと瞼を上げる。
「ジュリア。どうしてこんなに冷えて。温めねば…」
頬に、肩に、腕に、手に。
ミゲルはあちこちに手をやり魔力を込めて温めようとするが、愛しい妻は動かない。
「…だんなさま」
乾ききった唇がようよう言葉を紡ぎ出す。
「ジュリア?」
ふわりと微かに笑い、白い歯の奥の小さな舌がゆっくりと動いて。
「そ、ら…」
続きを言えぬまま、ことりと力を落とす。
一瞬の静寂。
「ジュリア―――ッ!」
ミゲルの悲痛な叫びがこだました。
空を茜色に染め始めていたはずの朝陽はあっという間に黒い雲に覆い尽くされて、雨が降り出しそれは激しいものへと変わる。
大地よ、割れてしまえと言わんばかりに。




