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嘘をつく


 頬が、暖かい。

 誰かの手が、優しく包み込んでくれている。


「ジュリア」


 女性にしては低く、かすれ気味で、でも強くて、安心できる声。


 懐かしく恋しい香りと、キタールの音が――。


「――っ」


 重い瞼を上げると、ぼんやりとした視界の中に思いもしない人がいた。


「…お、ねえ、さ…ま」


「ええ、そう。私よ。マリアロッサよ」


 いつもは凄みを帯びた貴婦人である姉が、息子に触れている時のような優しいまなざしで自分を見ている。


「こんなにやつれてしまって…。ごめんなさい」


 力を振り絞り、僅かだがジュリアは首を左右に振った。


 姉たちがジュリアの窮状を知り、助けようとしてくれていたことは土の民たちとの会話の中で気づいている。


 しかしエスペルダ国から更なる利を得たい自国の王侯貴族たちに阻まれどうにもならないのは、世間知らずのジュリアでも想像できることだ。

 たとえ公爵家の生まれだとしても小娘ひとりの命など、ガルヴォの軍事力と富の前には塵に等しい。

 息絶えたと知らせを聞けばおそらく、次の妻になり得る女性を探して差し出すだけのこと。



「ジュリア!」


 思考が再び暗闇の中に落ちそうになる直前に止まる。


「ジュリア、ジュリア、ジュリア!」


 見えない何か…、いや魔術で阻まれているのか、寝台から離れたところに立つミゲルが名を呼びながらもがいていた。


「おねえさま?」


「ああ…。ちょっと防御壁をさせてもらっているの。不審者を近づけないために」


 喚いている夫の後ろで、マレナが呆れ顔で肩をすくめている。


「ご覧の通り音は通じるから、話はできるわよ? どうする?」


 尋ねられ、こくりと頷く。


「旦那様と話をさせてください。できればもう少し近くで」


「わかったわ」


 マリアロッサはジュリアから手を離し、腕輪の細工に触れた。


 かちりと音がするなり、夫は勢いよく前へ転がったがそのまま寝台のそばまで這いずってくる。



「ジュリア」


 姉に支えられ、身体を起こす。


 そう言えば、自分は首を刺したのではなかったか。

 首元を指でたどるが、包帯すら巻かれておらず傷跡も痛みもない。



「身体の傷は、医師とバレリアがすぐに手当てして事なきを得た。しかし、心の傷が深く、君は何日も目覚めないままだった…。ようやく目を開いたと思ったら何にも反応しない人形のようになってしまって、水すら受け付けなかった。このままではもたないと宣告されていた時に、義姉上が駆け付けて…。助けてくれた。感謝してもしきれない」


 四つん這いのまま、ミゲルは視線を下に落として説明する。


「すまない。あの時の私はどうかしていた。今でもよくわからない。闇雲な怒りに支配されて…」


 謝罪を聞いているうちにジュリアははっと重大なことを思い出した。


「旦那様。あの側近の…ホセはどうなりましたか。彼は両腕を…」


「…っ。す、すぐにバレリアたちが治療して、元通りに…なった。ちゃんと腕も動く」


「騎士のホセなら、昨夜見かけたわ。大丈夫よ、ジュリア」


 マリアロッサの助け舟にジュリアはほっと胸をなでおろす。


「良かった…。彼は旦那様を止めようとなさっただけなのに…あんなことになって…」


「じ、ジュリア…」


 おろおろと視線を上げては下ろすミゲルに、ジュリアはふと首をかしげた。


 なぜだろう。

 出会ってからずっと、彼に対して畏れがあった。


 年が離れているだけではなく、傲慢な物言いと強い視線など何もかもが怖くて。

 いつも大きな魔物の前にいるような心地だった。

 大人しくしていないと噛み殺されると、目と耳を塞いで時が経つのを待っていた。


 人々は彼を神のように崇め、ジュリアを閨に差し出す。

 そして彼が飽きるのを待っていた。


 だけど、今はミゲルが違って見える。



「ジュリア、すまない。本当に取り返しのつかないことをしてしまった。だが君には生きていてほしい。義姉上は君を連れて帰ると言っている。君が望むなら、私は…」



 帰りたいと。

 何度思ったことだろう。


 愛する家族の元で、優しい人たちに囲まれた暮らしが懐かしかった。


 でもジュリアは知ってしまった。

 自分のせいでいくつもの命が消えたことを。



「…旦那様。実は」


 両手を握りしめ、声を絞り出す。


「倒れる直前の時の事しか覚えていないのです。ホセが大怪我を負ったことしか…思い出せません」


 ミゲル、マリアロッサ、マレナ。

 三人ともいちように驚きを露わにしていた。


「お姉さま。お気遣いありがとうございます。私のために危険も顧みず手を尽くしてくださって…。こうして再びお会いできて夢のようです」


「ジュリア」


 敏い姉は、ジュリアがいま何を考えているかなんてお見通しだろう。

 目を閉じて緩やかに首を振った。


「でも、この地に二人の子が眠っています。離れられません」


「ジュリア! では…!」


 ミゲルが期待に満ちた目で見つめている。

 私は、今までこの人の感情の源を知ろうとしていただろうか。


「目覚める直前にキタールの音が聞こえました。旦那様が弾いてくださったのですね」


「うん…。うん、そうだ。初めてで…。あれがあんなに難しいものだとは知らなかった」


 ミゲルは笑いながら涙をぼたぼたと流した。


「私がお教えします。これから一緒に弾いてくださりますか」


「うん。うん…。教えてくれ。ジュリアの歌も、聞かせてくれ…」


 大きな男が、竜王と呼ばれる男が、子どものように泣いている。


 この人を置いて、故郷へは帰れない。

 それだけは確かだった。


 だから、ジュリアは嘘をつく。


 なにも、覚えていないのだと。





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