雷鳴
「奥方様は国元が恋しくて仕方がないようです」
定例の専属侍女たちの報告の中にその言葉が紛れているのは最初からだった。
食事が口に合わないようで食べようとしない。
匂いに眉を顰める。
サルマン国の女性は身体が細いことを美徳としている。
一向にこの国に馴染もうとしない。
話しかけても聞こえないふりをする。
奥方様は。
奥方様は。
帰りたいと泣いている。
「この間、歌を歌っているのを見かけたのですが、下級侍女曰く、あれはどうやら故郷の恋の歌のようで…」
奥方様の心の中に別の男がいるのかもしれないと、一人がためらいがちに告げた。
戯言をと鼻で笑い、その侍女を専属から外すよう指示を出した。
しかし、その一言はミゲルの中に根を下ろす。
ジュリアは。
抱きしめて抵抗されることはないが、彼女がミゲルに愛を乞うたことは一度もない。
じっと。
息をひそめて動かない。
まるで嵐が去るのを待つかのような。
ただひたすら、耐えているのではないか。
ジュリアにとって自分は。
疑念が芽吹き、ミゲルの中で育っていく。
そうすると、思い浮かぶのはあの憎い男、そして今は見逃してやっている『あれ』。
ある者がミゲルの耳にささやいたことがある。
子が育たぬのは母体が存在を拒絶しているからだと。
考えれば考えるほどに。
自分とジュリアの頭の中から消し去りたいという欲望が沸き上がり、止められなかった。
ジュリアが、空を見上げ、涙を流しながら歌っている。
知らない旋律、聞いたことのない言葉。
恋人…あの、一夜の相手がそんなに恋しいか。
あの男は、そんな価値などないのに。
人払いをした原っぱで、まるで心を捧げるように歌う姿に、心の中が真っ黒なものに塗りつぶされ、膨れ上がり、弾けた。
「総帥! お待ちを!」
誰かが咎める声を上げたが、振り払い、駆けだす。
「ジュリア!」
ミゲルのただならぬ声にジュリアが目を見開いたまま振り返る。
睫毛も頬も濡れ、両手をそろえた膝の上には純白の毛糸と金の棒が載っていた。
髪から爪まで一つ残らず食べて一つになってしまいたい、ミゲルの―――。
「なぜだ」
両肩を掴んで揺さぶった。
「何故だ何故だ何故だ――。なぜ其方はそこまで私を拒絶する」
「だんなさ…」
「こんな時にも、そなたはっ!」
ジュリアはミゲルの名を呼んだことがない。
閨の最中でも、熱に浮かされている時でも。
旦那様、だんなさま、ダンナサマ―――!
まるで、その名を口にすることを拒むかのように。
「…そんなにあいつのことが忘れられないか」
「え?」
「ミカエル・パット…。いや、ハンスか?」
頭の中がぐつぐつと煮えたぎったまま、ミゲルは言葉を次々と吐き出す。
そうでもしないと、爆発してしまいそうだ。
「残念だったな。どれほどお前があの男を想っていても、あいつはお前のことなどほとんど覚えていなかったぞ。懇切丁寧に説明してやると、貴族と繋がりたい平民の娘がもぐりこんでいると思い、軽く抱いてやってすぐに忘れていたと」
「―――っ!」
ミゲルの言葉に、ジュリアは青い瞳が零れ落ちそうなほど目を見開いた。
「総帥!」
「うるさい!」
声に向かって黒魔法の刃を放つ。
ドスっと地面に突き刺さった音が響く。
「あいつの家族も死に損だな。息子が手を出したのが公爵令嬢だと知って、毒をあおって心中したと言うのに、本人は原因を知らずに逃げ続けたとはな!」
「そんな…」
カタリナは、姉は、ミカエルの両親と兄は事故死だと言っていた。
まさかあの一夜の謝罪として心中していただなんて、想像すらしなかった。
それに。
もしかして。
ミカエル・パットは水死などではなく…?
「そんな、私…」
心臓の音がどくどくと。
そしてひゅうひゅうと強い風になぶられているような音だけがジュリアの耳に響く。
「わたし…」
がたがたと震え続けるジュリアの両肩を更に揺さぶりながらミゲルはさらに言葉を投げつけた。
「お前が、お前たちが逃がしたつもりのあいつの子。隠しおおせると思ったか? すぐに見つけ出したさ。この私が見つけられぬなど、ずいぶんと甘く見られたたものだな!」
「…ああっ!」
嵐の中にいるようだった。
翻弄され、ジュリアは悲鳴を上げる。
「ライアン…、ライアンと名付けたあの餓鬼! ホランドの女が後生大事に護っているようだが、とっくにしるしはつけている。俺は、いつでも殺してしまえるんだぞ!」
「…ホランド?」
初めて知る、我が子の預け先。
あの女性は土使いのホランド伯爵の人間だったのか。
それならば、きっと。
ジュリアの顔に戸惑いと安堵、そして愛しさの入り混じった感情が浮かぶ。
しかし、黒いはずの瞳を真っ赤に光らせるミゲルにはもう止められない。
「男を産め。ガルヴォの跡取りを必ず産むのだ。すぐに…。さもなくば、ホランドを攻めてあの餓鬼の頭を城に吊るす」
「―――っ! いやっ! やめて…、やめて…」
身を震わせて縋るジュリアを見下ろしてミゲルは笑う。
「あははははは! それほど嫌か。あの餓鬼がそんなに愛しいか。あの男にそんなに未練があるのか、お前は」
黒い雲がごうごうと唸りながら空を埋め尽くす。
激高したミゲルの気に反応しているのか、竜たちも天に向かって吠え交わす。
「総帥! 落ち着いてください! 奥方様があまりにも―――」
側近の騎士のホセが羽交い締めにしてきたが、火に油を注ぐこととなる。
「うるさい! うるさいっ! 邪魔するなあっ!」
ミゲルが叫んだ瞬間、大地に雷が落ち、ホセの両腕は血しぶきを上げながら吹っ飛んだ。
「いやあああ―――っ」
ジュリアは地面に両手を付けて叫ぶ。
ざあああーっと大粒の雨が滝のように降ってきた。
手のひらの下に硬いものを感じてジュリアは握りこむ。
糸切狭だ。
小さくとも、鋭い刃がちくりとジュリアを刺す。
痛みに心が決まった。
今、これが手の中にあるのは。
運命なのだ。
雷鳴が、豪雨が、強風が、ジュリアに告げる。
お前は、その責を負うべきだ。
いますぐに。
「ごめんなさい…」
「ジュリア?」
誰かが名を呼んだけれど。
「つぐないます」
握りこんだそれを、ジュリアは首に突き立てた。
「ジュリア―――ッ」
もう、終わりにしよう。
白い毛糸の玉がころんと転がり、泥と血に染まっていった。




